商人
商人(しょうにん、しょうひと、あきびと、あきんど、あきゅうど)
- しょうにん。商売を職業としている者。本稿で後述。
- 現代と区別して、商売を行っていた歴史上の職業を扱う。商売を商い(あきない)ともいうことから「あきんど」と読むこともあるが、くだけた読みであり、公式の場では用いない。
- しょうにん。商法学における基本概念の一つ。商人 (商法)を参照。
- しょうひと。中国の古代王朝の一つである商(殷)の国民若しくは出身者、又は彼らの子孫。中国で最も早くから、ある場所で安価で購入した物資をその物資に乏しい別の場所で高価で売却して差益を稼ぐことを生業とする者が現れた民族といわれており、上述した「しょうにん」の語源となったと言われているが、これは俗説のようである。[独自研究?]
- 比喩或いは皮肉として、戦争において売買を行う人物、がめつい人物を「商人」と評することがある。[誰?]
概要
商人(しょうにん)とは、生産者と需要者の間に立って商品を売買し、利益を得ることを目的とする事業者を指す。具体的には卸売商・小売商のような商品売買業者を指すが、このほかに運送業・倉庫業・金融業・保険業・広告業などを含めて広く考える立場もある。
歴史
起源
取引を専門に行う者が現れる以前は、交易は共同体の首長に属する者や共同体全体で行った。交易の専門家が現れると、共同体の外部と取引を行う者と、共同体の内部で取引を行う者は区別された。交易者の動機は、義務や公共への奉仕である身分動機と、利得のために行われる利潤動機に分かれていた。身分動機の交易者は特権や義務を有し、世襲やギルドによって生活を保証された。共同体全体で交易を継続して行う場合もあり、かつての海路や水路を用いたフェニキア人、ヴァイキング、プトゥン人、砂漠のベドウィン、トゥアレグ、ハウサ人、宗教を背景に持つユダヤ人、アルメニア人などが含まれる[1]。
古代
メソポタミアのシュメールやバビロニアには身分動機の交易者であるタムカルムがおり、王により設定された財を交易した。古代ギリシアではポリス外で取引する者をエンポロス、ポリス内で取引をする者をカペーロスと呼び、利潤動機の交易者としてメトイコイと呼ばれる自由身分の外国人が存在し、メトイコイの多くはエンポロスとして働いた。対外交易が行われる場には両替商がいた[2]。
8世紀-11世紀
イスラーム帝国の拡大によってシャリーアのもとで商慣習が統一され、アッバース朝成立後の8世紀以降は地中海、内陸アジア、インド洋で商業が急激に発達した。地中海のユダヤ、エジプト、シリア商人と、シルクロードのソグド人を含む内陸の商人、ペルシア湾やインド洋の商人はイスラーム圏の影響の元で活動し、ムスリム商人は中国の唐でも取引を行った。商人たちが協働するための制度として、イタリアのコンメンダやソキエタス(ヴェネツィアのコレガンティア)、東ローマ帝国のクレオコイノーニャ、イスラーム世界のキラード、ムダーラバなどが整備され、共同で事業経営をするシルカという制度も発達した。
11世紀頃の人物とされるディマシュキーは先駆的な商業書である『商業の美』において、商人をハッザーン、ラッカード、ムジャッヒズに分け、その役割と重要性について論じている[3]。ハッザーンは倉庫業や卸売で、市場において高いときに売り、安いときには貯蔵する。時間的な差を利用して差額で儲ける。ラッカードは運送業や行商で、ものが高い場所で売り、安い場所で買う。空間的な差を利用して差額で儲ける。ムジャッヒズは貿易業者や大規模な問屋で、各地の代理店も使って貿易を行い、時間と空間の差を組み合わせて儲ける者である[4]。
タージルと呼ばれるイスラーム圏の大商人はワジールなどの政府要職に任命され、ワクフによって都市機能を維持して社会的地位を高めた。イタリアの商人は十字軍をきっかけに北ヨーロッパとの関係を強め、ジェノヴァ、ピサ、ヴェネツィアは十字軍を援助して戦利品や特権の獲得に加えて債権も得た。
日本の文献で専門の商人が現れるのは8世紀以降である[5]。平城京には都城の内部に官営の市が設けられ、市籍をもつ商人が売買を行った[5]。平安京には東西の市が設けられ、市籍をもたぬ商人もふくめて売買がなされ、各地の特産物などが行商された[5]。院政期や平氏政権の時期には京都をはじめとして常設店舗をもつ商人が現れ、彼らは寺社や権門勢家と結びついて自らの力を保持ないし拡大しようとした[5]。貞観6年(864年)には、市籍人が貴族や皇族に仕えることを禁じた命令が出されている。
11世紀-16世紀
商人は資金調達や財政管理の能力によって権力者への影響力を強めた。イタリア商人の北ヨーロッパに対する債権は商品の形をとり、シャンパーニュの大市などで取引をされた。イタリア商人は教皇庁の財政とも結びつき、教会の収入を送金する金融業を行うようになる。フィレンツェのバルディ家やペルッツィ家などの銀行家は王侯貴族に貸付をして、彼らの財政収入を担保とした[6]。北ヨーロッパではハンザと呼ばれる遠隔地商人が都市の有力市民となり、都市間の商業同盟を結んでドイツを中心にハンザ同盟が成立した。
中国の元ではモンゴル人は交易に加わらず、ムスリム商人がオルトクという組織によって帝国内の財政や交易を担当した。メキシコ高地では特権商人のポチテカが遠隔地交易によってアステカの征服に貢献していた。日本では有力権門や寺社の雑色・神人・供御人が、その権威を背景に諸国と京都を往復して交易を行うようになる。権門や寺社を本所として仰ぎ、奉仕の義務と引き換えに諸国通行自由・関銭免除・治外法権などの特権を保障された集団「座」を組織した。金融は、神に捧げられた上分米や上分銭を資本として神人たちによって行われ、13世紀以降は利銭も行われた[7]。
16世紀以降
日本は近世にかけて、商人がその生業を専門化・分化させていった[5]。座は解体したが、問屋・仲買・小売という現代につながる流通形態の発生がみられ、それぞれに株仲間を結成した[5]。株仲間は加入者数を制限して売買を独占し、近世初期には物資供給の安定という効果があったが、商品経済の進展の深まりとともに円滑な取引の阻害要因となった[5]。寛永年間において、江戸では三千両をもっていた者は幾人というくらいしかいなかった[8]。ところが元禄も末になると、奈良屋茂左衛門や冬木弥平次などは一代で40万両ももつに至っている[9]。一石一両の見積もりからすれば、これらの商人町人は40万石の大名並みの財力を有していたことになる[10]。
- 近世以降の日本の主な商人
- 酒田
- 会津
- 直江津
- 甲府
- 小田原
- 駿府
- 清洲
- 安土
- 京
- 大坂
- 堺
- 大湊
- 敦賀
- 小浜
- 紀伊
- 姫路
- 尾道
- 赤間関
- 浦戸
- 博多
- 本庄宿
その他
出典・脚注
- ^ 『人間の経済1』p.164
- ^ 『人間の経済1』10章
- ^ 佐藤『イスラーム商業史の研究』p.74
- ^ 加藤博『イスラム経済論』書籍工房早山、2010年。 p96
- ^ a b c d e f g 胡桃沢(2004)
- ^ 『中世イタリア商人の世界』p.44
- ^ 『日本の歴史を読み直す(全)』p.61
- ^ 稲垣史生 『三田村鳶魚 江戸武家辞典』 青蛙房 新装版2007年 p.224.
- ^ 同『江戸武家辞典』 p.224
- ^ 同『江戸武家辞典』 p.224
- ^ 近世の甲府城下町では甲府城南西に新府中が造成され城下町が形成され諸商人が存在しており、表通りに屋敷を構える家持層の大店では、甲府城下の中心部である八日町の若松屋や桝屋が代表的な商家として知られる。近代には消費都市としての低迷や旧城下町の衰退により甲府商家も没落し、若尾逸平、風間伊七、八嶋栄助ら座方に出自を持つ甲州財閥が新興勢力として台頭した。甲府商家では大木家が甲州財閥として地位を保っている。
- ^ 元禄期の長者番付に「横綱 紀伊国屋文左衛門 五十万両」とある。江戸幕府の年収が八十万両とされることからも、一代で築いた財力の大きさがうかがえる。
- ^ 近世期における商家の番付表『関八州田舎分限角力番付』内で「西方筆頭の大関」として記載されている(「分限」とは地位・財産を指す)。近世当時、横綱は地位ではなく、称号であり、従って実質上、戸谷半兵衛家は19世紀の関東で上位に位置する商人と認識されている。
参考文献
- 網野善彦 『日本の歴史をよみなおす(全)』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2005年。
- フィリップ・カーティン 『異文化間交易の世界史』 田村愛理・中堂幸政・山影進訳、NTT出版、2002年。
- 胡桃沢勘司 著「商人」、小学館編 編『日本大百科全書』小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。ISBN 4099067459。
- 佐藤圭四郎 『イスラーム商業史の研究』 同朋社、1981年。
- 清水廣一郎 『中世イタリア商人の世界』 平凡社〈平凡社ライブラリー〉、1993年。
- カール・ポランニー 『人間の経済 1』 玉野井芳郎・栗本慎一郎訳 / 『人間の経済 2』 玉野井芳郎・中野忠訳、岩波書店、2005年。