シャンパーニュの大市

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シャンパーニュの大市(シャンパーニュのおおいち、Les grandes Foires de Champagne)は、12世紀頃から13世紀にかけて、フランス北東部、シャンパーニュ平原の諸都市で開かれた大規模な交易である。

概要[編集]

ヴェネツィアジェノヴァなどのイタリア商人の支配する地中海商業圏と、ハンザ同盟が主軸を成した北欧商業圏が、中間地点であるシャンパーニュで接触交易を行なった。イタリア商人のもたらす香辛料、染料、医薬品、宝石、絹織物など、軽くてかさばらない東方奢侈品と、北欧・イングランドロシアからもたらされた羊毛、毛皮、蝋、蜂蜜、ニシン、木材、小麦、卑金属類など重くてかさばる産業財・生活必需品が、一堂に取引された大国際市場であった。また、この地域を統治したシャンパーニュ伯も、対外戦争よりもこの市場を保護した方が利益になると考え、市場の自主性を保証して1154年にラニーの市税を免除するなど、この市場を訪問する商人の保護に尽力することと引き換えに、領内の経済を活性化して富を得ることになった。

シャンパーニュは、マースモーゼルセーヌの河川に囲まれ、輸送手段として船が多用された当時の欧州において、東西南北に通ずる絶好の地理条件を持っていた。

平原に位置するトロアバール=シュル=オーブラニープロヴァンの4都市で1回あたり40~50日間、年6回持ち回りで市を開いた。

  • 1月 - ラニー
  • 3月 - バール=シュル=オーブ
  • 5月 - プロヴァン北部
  • 7月 - トロア(夏の市)
  • 9月 - プロヴァン南部
  • 11月 - トロア(冬の市)

上記のように市はほぼ一年を通じて行われていた。上述の遠隔地商人だけではなく、地元小売商、行商人も参加していた。大規模であったのでお祭的な側面もあり、大道芸人、見世物師、売春婦、物乞いなども現われ、近在の一般住人も購入に訪れるなど、にぎやかなものであった。

大体次のような順序で市が開かれた。

「織物の市」→「皮の市」→「ハカリの市(香辛料や油、紡ぎなど秤で量を計って売るものの他、家畜、刃物、雑貨類など多岐にわたる)」

このあと、参加商人たちの片付け、外国貨幣の両替、清算などが済まされ、ひとつの市が終わるのである。次の開催都市に移動する者もあれば、母国に引き上げる者もいた。シャンパーニュの大市ではプロヴィノア貨(またはプロヴァン貨)が各地の貨幣に対する決済用の基準貨幣として用いられた。

14世紀に入ると、シャンパーニュ伯であったルイ10世がフランス王に即位し、シャンパーニュは国王領となる(1314年)。この頃から、国家財政の悪化につれて税金が高騰するとともに、イタリア商人が羅針盤を手に入れてフランドル北海1274年にジェノヴァのガレー船が姿を見せ、1277年にジェノヴァ商人スピノラ家がフランドルのズウィン湾に到達)・イングランドまで直行するに至って、シャンパーニュの大市は国際市場としての役割を終えた。

ゲーム理論による考察[編集]

個人的関係によらない、大規模な市場が発達した裏には、大市の裁判所Lex mercatoria)の存在・機能があったのだという、ゲーム理論を用いた考察が、スタンフォード大学教授ポール・ミルグロムによって為された。裁判所(強制力を保持しない)が、事故情報の記録を行い照会・媒介を提供することで、集団的懲罰に近い機能を有したことが市場の発達の一因であるということである。ただし、同大学教授アブナー・グライフは、匿名性の高い空間における個人の特定困難性、(平均寿命の低い当時の)評判メカニズムの時間非整合性を理由に懐疑的である。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]