佐野稔

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佐野 稔
Minoru SANO
フィギュアスケート選手
生誕 (1955-06-03) 1955年6月3日(68歳)
山梨県
身長 168 cm
選手情報
代表国 日本の旗 日本
引退 1977年
獲得メダル
フィギュアスケート
世界選手権
1977 東京 男子シングル

佐野 稔(さの みのる、1955年6月3日 - )は、日本の元フィギュアスケート選手。日本大学鶴ヶ丘高等学校日本大学卒業[1]。1976年インスブルックオリンピック男子シングル日本代表。1977年世界選手権3位。現在は明治神宮外苑アイススケート場ヘッドコーチ[2]、日本フィギュアインストラクター協会理事長[3]。日本スケート連盟理事(平成24・25年度)。解説者としても活動している。

人物

座右の銘は「無我の境地」。実娘の佐野緑もプロスケーターで、ディズニー・オン・アイスの2005年度日本公演に出演している[4]弁護士菰田優日本弁護士連合会事務総長は長年の友人[5]

経歴

1955年山梨県東八代郡石和町(現在の笛吹市)に生まれる。4歳のときに精進湖で初めてスケート靴を履き、小学校に上がるころからは兄や姉とともに甲府の屋内スケート場に通うようになった[6]。小学1年生のとき、合宿に来ていた日本大学スケート部の練習を父に連れられて見学に行き、部のキャプテンであった都築章一郎に出会う。以来、競技を引退するまで都築に師事した[7][8]

アマチュア時代

中学生のころからは国際大会に派遣されるようになった[6]1972年から1976年まで全日本選手権男子シングルで5連覇[9]。当時は男子でも跳ぶ選手が少なかった3回転ルッツを武器に、1973年から1977年まで5年連続で世界選手権に出場。1975年の世界選手権では、大会の4日前に足を捻挫(後に検査で亀裂骨折とわかる)しながら10位に入り、インスブルックオリンピックの男子シングル出場枠を2つ確保した[6]日本大学鶴ヶ丘高等学校在学。

1976年日本大学在学中の20歳のときに開催された1976年インスブルックオリンピックに出場[10]。男子シングルに出場したが9位となった。

1977年、世界選手権(東京開催)で男子シングル3位となり、日本人初の銅メダルを獲得[11]。『ブダペストの心』で滑ったフリーの評価は1位だった。この大会を最後に競技生活を引退し、[6]プロスケーターに転向する。

プロ転向後

1978年、日本初のアイスショー「VIVA! ICE WORLD」(現「プリンスアイスワールド」)を開催。[6]日本にアイスショーの魅力を広めることに情熱を注いだ。アイスショーでは渡部絵美とペアを組んでいた時期もある。また、同時期には、「アイスショーの宣伝」や「ショーマンとしての肥やし」になるという考えから歌手デビュー。テレビドラマやミュージカルにも出演した。

リンクの上で後方宙返りをする事でも有名。この後方宙返りは、アイスショー「目玉」となるインパクトのある技、それもショーの理想として自身が想い描いていた「スポーツ的な迫力」を象徴するような技が欲しいという思いから習得したという。

フィギュアスケート解説者としても活躍し、かつてはフジテレビFNNニュースレポート6:00のスポーツキャスターも務めたことがある。また、JOCのフィギュアスケート強化コーチとして、長年に渡り若手育成に力を注いでいる。

主な戦績

大会/年 1970-71 1971-72 1972-73 1973-74 1974-75 1975-76 1976-77
オリンピック 9
世界選手権 14 8 10 7 3
全日本選手権 3 2 1 1 1 1 1
スケートカナダ 3 2
モスクワ国際 3

テレビ出演

  • CM
    • MPG「酸素元気」
    • ハウス食品「ジョリエール2」
      • 妻・智恵子と出演。

他多数。

レコード・著書

  • 佐野稔・渡辺しのぶ「君がいるから」/(B面 佐野稔「星空のバラード」)(1978年、東芝EMI TP-10368)
  • 『氷上より愛をこめて 愛・夢・スケーター』 1982年4月、講談社

脚注

出典

参考文献

  • 「伝説のスケーター file.1 佐野稔」『フィギュアスケートDays vol.1』DAI-X出版、2006年11月、pp.78-79

関連項目

外部リンク