伊達綱村

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伊達綱村
伊達綱村像(仙台市博物館蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 万治2年3月8日1659年4月29日
死没 享保4年6月20日1719年8月5日[1]
改名 亀千代丸(幼名)、綱基、綱村
別名 総次郎
戒名 大年寺殿肯山全提大居士
墓所 宮城県仙台市大年寺山伊達家墓所 無尽灯廟
官位 従四位上左近衛権中将陸奥守従三位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
陸奥仙台藩
氏族 伊達氏
父母 伊達綱宗三沢初子
兄弟 綱村村和宗贇、夏姫、村直、類姫、三姫、千姫、智恵姫、綺羅姫、那礼姫、
菊之允、牟須姫、吉十郎、由布姫、多家姫
正室万寿寺殿稲葉正則の娘)
扇千代、高姫、伯姫
養子:吉村綺羅姫伊達綱宗
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伊達 綱村(だて つなむら)は、江戸時代前期から中期にかけての大名仙台藩4代藩主伊達氏20代当主。3代藩主・伊達綱宗の長男。官位従四位上左近衛権中将陸奥守従三位。「塩釜の恩人」とされている[2]

生涯

万治2年3月8日1659年4月29日)、伊達綱宗の嫡男として誕生(伊達政宗の曾孫に当たる)。母は三沢清長の娘・初子幼名は亀千代丸。元服の際は父と同じく4代将軍徳川家綱より偏諱を与えられて、初め綱基(つなもと)、後に綱村(つなむら)と名乗った[注釈 1]。以後、養子となった吉村から四代後の斉村まで「村」の字が通字として世襲されていく。

伊達騒動

万治3年(1660年7月、父・綱宗の叔父に当たる伊達宗勝陸奥一関藩主)の政治干渉や家臣団の対立などの様々な要因が重なり父が隠居させられ(詳しくは伊達綱宗を参照)、僅か2歳(満年齢で1歳4か月)で家督を相続した。宗勝や自身の叔父に当たる田村宗良(陸奥岩沼藩主)などが後見人となったが、家中では父の時代から続く家臣の対立や宗勝の専横などが続き、混乱が続いた。しかも寛文6年(1666年)には、綱村自身が何者かの手(宗勝の側近)によって毒殺されかけるほどであった。

このような混乱続きの中、寛文11年(1671年)に伊達騒動(寛文事件)が勃発し、伊達家は改易の危機に立たされたが、綱村自身が若年であったことから幕府の裁定ではお咎めなしとされ、宗勝ら関係者が処罰されることとなった。こうして、伊達家は改易の危機から免れた。

自立から専制へ

その後、綱村は13歳ながら自ら政務を執り始める(補佐に富田氏紹)。まず防風林を設け、運河を開発するなどの治績で大きな成果を収めた。また、儒学を学び、多数の学者を招聘して藩史の編纂に尽力した。さらに仏教に帰依して寺院の建立、神社の造営に尽力し、元禄2年(1689年)から3年(1690年)にかけて日光東照宮修復総奉行・井伊直興の御手伝として東照宮の修復を果たした。しかし、寺院や神社の造営など、様々な改革を行なったことがかえって藩財政を逼迫させることとなり、これを解決しようと天和3年(1683年)に藩札の発行を行なったが、かえって物価の高騰を招き、仙台藩の財政はさらに悪化の一途をたどった。

平泉にある源義経ゆかりの高館・義経堂は、天和3年(1683年)に綱村によって建立された。京都にある葉室家の菩提寺・浄住寺の方丈は元禄10年(1697年)に綱村の屋敷を移築したもの。

元禄6年(1693年)、藩主・綱村中心の専制政治に対し、伊達一族は反発、諌言に及ぶ。そのため、綱村は謝罪状をしたためる。元禄10年(1697年)秋、綱村の政治姿勢は改まらず、家臣団は藩主の強制隠居を計画するものの、親族の稲葉正往越後高田藩主)らの反対で挫折する。

元禄15年(1703年)、元禄赤穂事件では、仙台藩邸前に兵を待機させ義士の通行を阻止した[3]。赤穂義士は伊達家[注釈 2]の藩邸を通らない経路で泉岳寺へ引き上げている[4]

元禄16年(同1703年)、養嗣子で従弟の吉村に後を譲って隠居した。

享保4年6月20日1719年8月5日)、死去。享年61(満60歳没)。法号は大年寺殿肯山全提大居士。墓所は仙台の大年寺[注釈 3]大正13年(1924年)に従三位を追贈されている。

和歌

ふることの ためしを誰(たれ)も 岩尻に 今を春(はる)べと 黄金(こがね)花咲く

  • 元禄6年(1693年)に滝上神社にて、岩尻(気仙沼市本吉町長根)での産金を祝い詠まれたもの[5]

系譜

  • 父:伊達綱宗(1640-1711)
  • 母:三沢初子(1640-1686) - 浄眼院殿了岳日厳大姉、三沢清長の娘
  • 正室:万寿寺殿(1659-1706) - 仙姫、萬寿寺殿寶蓮浄晃尼大姉、稲葉正則の娘
    • 男子:扇千代
    • 女子:高姫
    • 女子:伯姫
  • 養子

偏諱を受けた人物

綱基時代

綱村時代

編纂

  • 『伊達出自正統世次考』
    • 『伊達出自世次考』 - 神代から朝宗に至までの歴史
    • 『伊達正統世次考』 - 朝宗から晴宗までの歴史
  • 『伊達治家記録』
    • 『性山公治家記録』 - 輝宗の事績
    • 『貞山公治家記録』 - 政宗の事績
    • 『義山公治家記録』 - 忠宗の事績

脚注

注釈

  1. ^ 伊達氏通字である「宗」と組み合わせて「綱宗」とすると父と同名になるのを避けたものとみられる。「基」や「村」の字は祖先(伊達家6代当主基宗や伊達家2代当主宗村)の名前にちなんだものである。
  2. ^ 同様に織田家藩邸のある通りも避けている。
  3. ^ ただし、明治維新後に伊達氏は仏葬から神葬に転換している。

出典

  1. ^ 伊達綱村』 - コトバンク
  2. ^ 「顕彰パネル」贈る 実行委、市内全小中学校へ 塩釜 /宮城”. 毎日新聞 (2019年2月20日). 2020年10月22日閲覧。
  3. ^ 『伊達治家記録』(だてじけきろく)より「肯山公治家記録」
  4. ^ 山本博文「赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)」(吉川弘文社、2013年)
  5. ^ 『嚮館跡ー防災集団移転促進事業・災害公営住宅整備事業(大谷地区)に伴う発掘調査報告書ー』(気仙沼市教育委員会発行)

関連項目