代田連絡線
代田連絡線(だいたれんらくせん)は、小田急電鉄小田原線世田ヶ谷中原駅(現・世田谷代田駅)から京王帝都電鉄(現・京王電鉄)井の頭線代田二丁目駅(現・新代田駅)間を結んでいた鉄道路線(連絡線)。全区間東京都世田谷区代田に含まれた。
路線データ
歴史
1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲(山の手大空襲)で、東京急行電鉄井の頭線(→京王井の頭線)永福町駅にあった永福町検車区が被災し、渋谷 - 神泉間のトンネルに駅員らが人力で避難させた2両などを除いた井の頭線の大半の車両が焼失してしまった。井の頭線は接続する路線との連絡線が全くなく、車両補充が著しく困難であった。このため、軌間の同じ(1067mm)東急小田原線(→小田急小田原線)世田ヶ谷中原(現・世田谷代田) - 東急井の頭線代田二丁目(現・新代田)間に代田連絡線を敷設し、他路線からの借入車や新車の搬入、被災車両の搬出、借入車の返却を行うことになった。そのため、資材不足のため橋台が枕木の橋梁や軟鉄架線(通常架線には銅が使用される。ただし京成電鉄で一時採用していた)であるなど、応急処置的要素が強い路線だった。建設用地は強制収容された土地が当てられた[1]。
当時、井の頭線に優先投入された新車は、経堂工場で整備され、井の頭線に送られていた。
その後、1948年(昭和23年)6月1日に東京急行電鉄(通称・大東急)の解体によって小田急電鉄・京王帝都電鉄(現・京王電鉄)・京浜急行電鉄が設立され、代田連絡線は京王帝都電鉄の路線となった。その後も被災車両の搬出更新・新車の搬入に使用されたが、土地が戦時中の強制収用という形で買収したため土地の所有者から返還請求が出たこと、橋梁や軟鉄架線などの老朽化が著しかったこと、さらに被災車両の更新終了後に新車は陸送に変更されたため存在意義が消滅したことなどから、1952年(昭和27年)に使用を停止し、翌年までにレール・架線を含む全設備が撤去された[1]。
- 1945年(昭和20年)6月 代田連絡線世田ヶ谷中原(現・世田谷代田) - 代田二丁目(現・新代田)間開業。
- 1946年(昭和21年)8月20日 世田ヶ谷中原駅が世田谷代田駅に改称。
- 1948年(昭和23年)6月1日 東京急行電鉄(通称・大東急)の解体により京王帝都電鉄(当時、現・京王電鉄)の路線となる。
- 1952年(昭和27年) 使用停止。
- 1953年(昭和28年)10月 レール・架線を含む全設備撤去。
概要
前述の理由から代田連絡線は旅客扱いをしない、井の頭線車両の搬出入を目的とした貨物線(連絡線)として山の手大空襲によって焼け野原になった辺りに応急的に敷設された。その後復興によって住宅が増えていくが、一部に畑も見られた。
駅一覧・接続路線
開業時の駅名 | 現行の駅名 | 接続路線名 | 現行の路線名 |
---|---|---|---|
世田ヶ谷中原駅 | 世田谷代田駅 | 東急小田原線 | 小田急小田原線 |
代田二丁目駅 | 新代田駅 | 東急井の頭線 | 京王井の頭線 |
廃止後
廃線跡
廃止後の廃線跡は宅地開発が行われたため、一部区間で住宅が連絡線跡に沿って建てられていることを除くと、痕跡を見つけることは困難となっている。
小田急小田原線世田谷代田駅の上りホーム裏に一部廃線跡が残っていたが、同線の地下化・複々線化工事により現在は消滅している。
なお、京王井の頭線代田二丁目駅(→新代田駅)の構内渋谷寄りには廃止後かなりの間渡り線(分岐器)が放置されていた。おそらくこれも代田連絡線と同じく被災車両の搬出・新車搬入に使われたものと思われる。しかし後に渡り線は撤去されロングレールとなり、現在連絡線跡を偲ばせる遺構は存在しない。
路線資料
前述の通り戦時中に敷設・使用され、戦後まもなく撤去されたため、地図や地形図などには代田連絡線の存在を示すデータはほとんど残っていない。唯一残る資料は東京都の都市計画図などの内部資料のみであり、代田連絡線の存在を示す公式資料は全く残っていない。
- USA-M449-120 - 1947年9月8日米軍撮影の東京西南部空中写真(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)