仙台浅草
仙台浅草(せんだいあさくさ)は、宮城県仙台市青葉区昭和町にある横丁である。店舗は北仙台商店会に加盟している[1]。
概要
北仙台地区の南方に位置し、堤通[注 1]との丁字路を西端(北緯38度16分48.4秒 東経140度52分4.8秒)、県道北仙台停車場線との丁字路を東端(北緯38度16分48.6秒 東経140度52分9.6秒)とする、全長120mほどの横丁である(Google マップ)。飲食店、洋菓子店、八百屋、鮮魚店など約30店舗が集積する[1]。
南側に隣接する杜の都信用金庫北仙台支店(北緯38度16分47.8秒 東経140度52分8.7秒)の駐車場を主会場とする北仙台商店会主催の夏祭りや、仙台浅草の通り上で2003年(平成15年)から開催されているフリーマーケットでは多くの来街者が訪れる。
歴史
1937年(昭和12年)、仙台市電北仙台線の開通に伴い、仙台鉄道の通町駅 - 北仙台駅間が廃止になって北仙台駅(北緯38度16分49秒 東経140度52分12.4秒)が始発になった。すると、廃線跡に材木商店が開業した。
戦後占領期の1948年(昭和23年)、アイオン台風による被害で仙台鉄道が不通になると、同年から代替バス運行が開始された[2]。その後、仙台鉄道は復旧したが、1950年(昭和25年)の風水害で再び不通になり、そのまま北仙台駅 - 加美中新田駅間が廃止になった。代替バスはそのまま定期運行になり[2]、仙台鉄道の北仙台駅跡地はのちに宮城交通通本社と北仙台ターミナルとなった。
一方、材木商は戦後に廃業してしまうが、その跡地に1958年(昭和33年)、日用品の市場の「北仙台駅前交易センター」が開業[1]。形成された横丁は、東京・浅草にあやかりたいとの願いから「仙台浅草」と呼ばれるようになった[3]。
1969年(昭和44年)4月1日、仙台市電北仙台線が廃止。1970年(昭和45年)2月1日には住居表示が実施され、仙台浅草を含む国道4号(現・県道仙台泉線)沿い北側一帯の住所が「仙台市荒巻字木蔵前」(きぐらまえ)から、国道4号沿い南側も含めて「仙台市昭和町」になった[4][5]。この頃から仙台浅草では、居酒屋やスナックといった夕方から営業する店が出始めた[6]。
2003年(平成15年)に宮城交通通本社が移転、北仙台ターミナルも廃止となり、跡地には2006年(平成18年)2月にライオンズタワー仙台青葉が竣工した。2008年(平成20年)のリーマン・ショック後の仙台浅草の状況は、昼間に営業する店が数軒にまで減少し、夕方以降営業の飲食店ばかりになっていた[6]。また、店主の高齢化に伴って客層の年代も上がり、約30店舗の内、1/3の約10店舗が空き店舗になるほど活気を失った[1]。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の後、他地区において震災で被災したり、店舗が取り壊しになったりした若手店主が移ってきて出店が続き、空き店舗がほぼ解消した[1]。また、ダイニングバー、もつ鍋屋、韓国料理屋などの出店により客層が若返り、週末を中心に活気を取り戻した[1][7][8]。
アクセス
脚注
注釈
- ^ 仙台市道青葉765号・堤通線(最小幅員5.99m、最大幅員9.80m、延長1467.0m)
出典
- ^ a b c d e f 再興 仙台浅草(上) / 震災が転機に / 続々と出店、若い客戻る(河北新報 2014年6月9日)
- ^ a b 仙台市史「通史編8 現代1」224頁~228頁
- ^ 仙台リビング新聞(2007年4月21日 12面)
- ^ 旧町名一覧表 (PDF) (仙台市)
- ^ 住居表示 旧・新対照表 (PDF) (仙台市)
- ^ a b 北仙台 (1)(河北新報社夕刊編集部「までぇに街いま」 2011年11月24日)
- ^ 再興 仙台浅草(中) / 「地の利」を生かす / 人口密集、低賃料も魅力(河北新報 2014年6月10日)
- ^ 再興 仙台浅草(下) / 新旧店舗が交流 / 互いの良さ守り共栄へ(河北新報 2014年6月11日)
関連項目
外部リンク
- 楽し懐かし横丁・小路(公益財団法人仙台市観光コンベンション協会)
- 北仙台商店会
- までぇに 街いま 北仙台(河北新報社夕刊編集部)