ロジャー・ブレスナハン

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ロジャー・ブレスナハン
Roger Bresnahan
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オハイオ州トレド
生年月日 1879年6月11日
没年月日 (1944-12-04) 1944年12月4日(65歳没)
身長
体重
5' 9" =約175.3 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
初出場 1897年8月27日
最終出場 1915年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1945年
選出方法 ベテランズ委員会選出

ロジャー・ブレスナハン(Roger Philip Bresnahan, 1879年6月11日 - 1944年12月4日)は、1900年~1910年代のアメリカメジャーリーグ野球選手。主なポジションは捕手だが、全てのポジションをこなした。オハイオ州トレド生まれ。右投げ右打ち。愛称は"The Duke of Tralee"(トラリー公爵)。1904年1905年ニューヨーク・ジャイアンツのリーグ二連覇を支えた捕手である。

略歴

1897年ワシントン・セネタースから投手としてメジャーデビュー。デビュー戦で6安打完封勝ちを納め、この年6試合に登板して4勝を挙げるが、翌1898年5月にセネタースは彼を解雇。シカゴ・オーファンズを経て1901年ボルチモア・オリオールズと契約した際、当時監督だったジョン・マグローブランチ・リッキーは、ブレスナハンを捕手にコンバートする。ブレスナハンは当時エースだったジョー・マクギニティら投手陣のまとめ役としてのリーダーシップを発揮するようになった。

1902年に、監督のマグローとともにニューヨーク・ジャイアンツへ移籍。ともに移籍したマクギニティや、クリスティ・マシューソンの女房役として、1904年と1905年のジャイアンツのリーグ二連覇を支えた。1909年にはセントルイス・カージナルスに移籍し選手兼任監督を4年務める。1911年シーズンにカージナルスは優勝争いに加わったが、この年シーズン途中にカージナルスの一行が乗ったフィラデルフィア行きの列車が、12人死亡47人負傷という列車事故に巻き込まれた。チームは幸いにも、出発前に乗る車両を移動していたために重傷者を出さなかったが、ブレスナハンはチームのメンバーに命じて乗客の救助作業を先導する手助けをした。この事故のショックがあったかその後チームは成績が低迷、シーズンを5位で終わることになった。1913年にはシカゴ・カブスに所属し、1915年に現役を引退。

1944年、オハイオ州トレドの自宅で心臓発作のため65歳で死去。翌1945年に、ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。捕手としてはバック・ユーイングに次ぐ史上二人目の選出だった。

特徴

ブレスナハンは、現在では当たり前になった捕手用のチェストプロテクターレガースなどを、いち早くメジャーリーグに導入することを試みた。捕手用プロテクターは当時一部大学野球チームなどで使われ始めていたものの、メジャーのプレーヤーたちは最初その姿を見てあざけり笑っていたという。

通算成績

打撃成績

※数字の後の"*"は、記録不明箇所があることを示す。































O
P
S
1446 4481 1252 218 71 26 682 530 212 99* 714 67 .279 .386 .377 .763

投手成績

  • 通算:試合数9、先発6、投球回50.1、4勝1敗、完封1、被安打68、被本塁打1、与死球15、防御率3.93

獲得タイトル・記録

  • 最高出塁率:1906年 (.419)
  • 捕手最高守備率:1905年
  • リーグ優勝:2回(1904年、1905年)
  • ワールドシリーズ出場:1905年
  • 1試合2本のランニングホームランを、アメリカンリーグ(1902年5月30日)、ナショナルリーグ(1904年6月6日)の両方で記録した。

監督としての戦績

  • 所属:
セントルイス・カージナルス(1909年 - 1912年)
シカゴ・カブス(1915年)
  • 戦績:328勝432敗、勝率.432、リーグ最高順位:4位

エピソード

  • 相当後の話だが、親戚にあたるデーブ・ブレスナハン捕手は、メジャーに昇格するような実力はなかったが、あることで話題になった。インディアンス傘下の2Aウイリアムスポート・ビルズに所属していた1987年8月31日、この日チームは「ポテト・デー」と銘打ち、ジャガイモを持ってきた観客には入場料を割り引くサービスを行い、多数の観客を集めたが、その試合中、ブレスナハンは三塁に悪送球。走者がホームに帰ろうとしたところ、突如タッチ。レフト線に転がっていった物は実は「ジャガイモ」。もちろんこれは反則で走者はセーフとなったが、スタンドには大受け。後日監督がブレスナハンに罰金50ドルを命じたところ、50個のジャガイモを持参し、球団はブレスナハンを解雇した。これには抗議が殺到し球団は後日「ブレスナハン・デイ」を開催して、ブレスナハンの背番号59を永久欠番とした。そのセレモニーで、「かつてルー・ゲーリッグは、2000試合以上に連続出場して、3割4分以上の打率を残して永久欠番となり、『自分は世界で一番幸せな男だ』と言いましたが、自分はマイナーで2割ちょっとしか打てず、ポテトを投げただけで永久欠番になったのだから、世界で一番幸せな男よりも幸せだ」と語ったという[1]

脚注

外部リンク