マツダ・MX-R01

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マツダ・MX-R01
マツダ・MX-R01
マツダ・MX-R01
カテゴリー グループC
コンストラクター TWR
先代 マツダ・787B
主要諸元
シャシー MX-R01
サスペンション(前) プッシュロッド・トーションバーダブルウィッシュボーン
サスペンション(後) プッシュロッド・コイルスプリング・ダブルウィッシュボーン
全長 4,800 mm
全幅 2,000 mm
全高 1,030 mm
トレッド 前:1,658 mm / 後:1,558 mm
ホイールベース 2,800 mm
エンジン マツダMV10 3,500 cc V10 NA ミッドシップ
トランスミッション TWR 6速+リバース MT
重量 750 kg以上
タイヤ ミシュラン
主要成績
チーム 日本の旗 マツダスピード
ドライバー 日本の旗 寺田陽次郎
日本の旗 従野孝司
ドイツの旗 フォルカー・ヴァイドラー
ブラジルの旗 マウリシオ・サンドロ・サラ
イギリスの旗 ジョニー・ハーバート
フランスの旗 ベルトラン・ガショー
イタリアの旗 アレックス・カフィ
出走優勝表彰台ポール
120 0
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マツダ・MX-R01(MXR-01)[1]は、1992年マツダトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)と共同開発したプロトタイプレーシングカー。合計5台が製作された。

概要

1991年から、グループCカーのエンジン規定が従来の「燃料使用量の上限による規制」から「燃費制限なしの3.5リットル自然吸気エンジン」へと変更され、それまでマツダが使用してきたロータリーエンジン1991年を最後にスポーツカー世界選手権(SWC)やル・マン24時間レースで使用できなくなった[2]

そこで1992年シーズンは、新規定対応エンジンとシャーシを外部から購入し、自社技術でエンジン/シャシーを改良して参戦することになり、エンジンをジャッドから、シャシーをTWRからそれぞれ購入してマシンを賄うことになった。

それまでロータリーエンジンの性能、信頼性を証明するためにレース活動を行ってきたマツダが、レシプロエンジンのマシンでレース活動を行ったことを奇妙とする見方もある[3]。これについて、1990年に当時FISAマニュファクチャラー委員会議長だったマックス・モズレーが、マツダが1992年のSWCに3.5リットルマシンを走らせるという条件付きで、ロータリーエンジンのマシンで1991年のSWCに参戦することを認める可能性を示唆しており[4]、MX-R01でのレース活動はマツダがこの条件を受け入れた結果と思われる。

シャシ

TWRのジャガー・XJR-14をベースに、エンジンをフォード・コスワース・HBエンジンからジャッド・GVをベースとした「マツダ・MV10」に変更。このエンジン変更に伴いエンジンマウント部の変更が必要となった。この設計変更についてマツダ側は、シャシの製作はTWRが行ったものの、設計はそれまでマツダのスポーツ・プロトタイプ・カーを設計してきたナイジェル・ストラウドが担当した、としているが[5]、実際は設計もTWRで行われており、ストラウドはMX-R01の設計には関わっていなかった。SWC第1戦・モンツァに姿を現したストラウドは「やっと出番がまわってきたぞ」と話していたという[6]

エンジン

エンジンを新規で製作するには時間がなかったため、ジョン・ジャッド率いるエンジン・デベロップメンツと契約し、同社の持つジャッド・GVを共同で改良・開発を行うことになった。エンジン名称は「マツダ・MV10」とされた。ベースとなったジャッドGVは元々F1用に設計されたエンジンであるため(前年にスクーデリア・イタリアが使用)、すべてにおいて見直され、パワーよりも信頼性と耐久性向上を狙って開発が進められた。ル・マン出場時の最高出力は620PS/10,800rpmであった。ル・マンのレース後に分解されたエンジンはまったく問題なく、まだまだ走り続けられる状態にあったという。

このエンジンはプライベートユーザーへの販売を視野に入れ、1993年の来シーズンに向けて更なる開発が進められていたが、マツダの撤退によりこの年限りで終わってしまった。ただしジャッドはこのエンジン開発の経験を活かす形で、後にル・マン24時間等の耐久レース向けのエンジンビジネスで一定の成功を収めている。

戦績

マツダは1992年にSWCとJSPCにMX-R01を1台ずつ参戦させた。SWCではスプリント仕様を、JSPCではル・マン仕様のマシンをそれぞれ走らせた[7]

  • SWC

マツダは1992年のSWCにオレカを実働部隊として1台体制で参戦した。

フリー走行からメカニカルトラブルが多発した。チームは土曜日にトム・ウォーキンショーをモンツァに呼び、ウォーキンショーと共にモンツァにやってきたエンジニアのアンディ・モリソンが対策にあたった[8]。だが、決勝レースでもメカニカルトラブルが相次ぎ開幕戦はリタイアに終わった。
予選はポールポジションのプジョー・905から5秒以上も遅いタイムしか出せなかったが、レースではトヨタ勢の全滅にも助けられて2位に入り表彰台を獲得した。
  • 6月21日 ル・マン24時間 5号車 予選:7位/決勝:4位、6号車 予選:10位/決勝:リタイヤ
シーズン唯一の2台エントリー。1991年の優勝クルーは5号車を担当し、寺田、従野、サンドロ・サラは6号車を担当した。マツダはMX-R01の駆動系が24時間持たないのではないかと不安を抱いており、6号車を駆動系へのストレス軽減のためローダウンフォースセッティングで走らせることにした[9]。しかし、5号車は24時間を無事走り切って4位入賞し、6号車は雨で濡れた路面によりスピンしリタイアに終わった。

マツダは1992年のSWCでチームランキング3位の成績を残した。ドライバーズ・ポイントはサンドロ・サラの8位が最上位だった。

  • JSPC

マツダは1992年のJSPCにマツダスピードからMX-R01を1台エントリーさせた。

  • 4月12日 鈴鹿500km 予選:8位/決勝:7位
チームはレースウィークの木曜日に初めてマシンを走らせたばかりで[5]、セッティングも充分に出ていない状況でレースに臨んだが、予選はポールポジションの日産・R92CPから8秒も遅いタイムしか出せず、決勝でもオープニングラップの2コーナーでいきなりスピンするなど苦戦し7位に終わった。
ル・マン後の国内初レース。エンジンがスプリント仕様に変更されたが、リザルトに反映されることはなかった。
  • 9月13日 菅生500km 予選:6位/決勝:リタイヤ
これまでターボマシンとのパワーの違いに苦しみ、予選でポールポジションから5秒以上も遅いタイムしか出せずにいたが、テクニカルコースの菅生では善戦しポールポジションタイムから2秒弱の差で予選を終えた。しかし、決勝では僅か6周でリタイアした。
  • 10月4日 富士1000km 予選:9位:決勝:7位
トヨタがTS010をエントリーさせ、NA3.5リットル規定のCクラスマシンが複数台エントリーされたためCクラスが初成立。
  • 11月1日 美祢500km 予選:8位/決勝:9位
菅生と同じくテクニカルコースの美祢では健闘し、予選タイムをポールポジションの2秒落ちに収めた。

JSPCでは、新規定車両(Cクラス)と旧グループC規定車(C1クラス)でクラスを分けて、C1クラスは燃費制限なし、Cクラスは燃費制限ありでレースを行った。しかしC1クラスでのエントラントが多く、CクラスはMX-R01のみという状態が続いたためクラスが成立しなかった。10月の富士1000kmからトヨタ・TS010が参戦しクラスが成立したが、トヨタに勝つことはできなかった。最終戦のMINEサーキットで、日産・NP35がテスト参戦したため、始めてトヨタ・日産・マツダのCクラスマシンが揃った。


その後

山口マツダや千葉マツダにて、エンジンを取り外されたMX-R01が長い間展示されていたが、マツダスピードの消滅を機に姿を消した。2006年3月26日に富士スピードウエイのタイムマシンフェスティバルで往年のCカーたちと走行。このときはマツダ787B(55号車)と一緒にデモ走行した。合計5台製作され、クラッシュなどでは1台も失われていない。

注釈

出典

  1. ^ フロントウィング部分に車名の表記があるが、MX-R01[1]MXR-01[2]のどちらの表記もある。
  2. ^ その後1993年に再びロータリーエンジンの使用が解禁されている。
  3. ^ 石井功次郎、『MX-R01というマシン』、「Racing On」 No.415、ニューズ出版、2006年。
  4. ^ オートスポーツ」 No.555、p.50、三栄書房、1990年。
  5. ^ a b Racing On」No.121、p.67、武集書房、1992年。
  6. ^ 「カーグラフィック」 No.376、p.289、二玄社、1992年。
  7. ^ 「Racing On」 No.121、p.67、ニューズ出版、1992年。
  8. ^ 「Racing On」No.121、p.134、ニューズ出版、1992年。
  9. ^ 「Auto Sport」 No.613、p.15、三栄書房、1992年。

参考文献

  • 『日本のレーシングエンジン3.5l NA ENGINE』GP企画センター、1994年5月 ISBN 4876871469

脚注


関連項目