従野孝司

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従野 孝司(よりの たかし、1950年10月10日[1] - )は、日本の元レーシングドライバー兵庫県神戸市出身[2]片山義美の実弟(異父弟のため名字が異なる)[1]千葉県浦安市在住、2021年9月広島県広島市に移住。

略歴・人物[編集]

最初は2輪モトクロスからレース活動を開始。実兄である片山義美が主宰した神戸木の実レーシングに所属し、カワサキのワークスライダーとして活躍。神戸木の実には後に4輪でもライバルになる星野一義歳森康師たちが在籍していた。

1970年鈴鹿シルバーカップレースで4輪レースデビューウィン。当初は兄・片山が経営するレースショップ、片山マツダスポーツコーナーでプライベーターとして活動する。1972年にマツダ・サバンナRX-3で全日本T-2レースでチャンピオンを獲得。1973年から、兄・片山が所属するマツダと契約。1977年富士ロングディスタンスシリーズチャンピオン、1979年デイトナ24時間レースクラス優勝、1983年ル・マン24時間レース部門優勝などマツダのワークスドライバーとして活躍する[1]

サバンナRX3などのツーリングカー、富士グランチャンピオンレース、グループ5仕様のRX-7グループCカーによるル・マン24時間など、ロータリーエンジンのマシンで活躍することが多かった。ル・マン24時間レースには通算11回出場した。1992年バブル崩壊でマツダがレース界でのワークス活動から撤退して以降は表立ったレース参戦が無くなり、1995年鈴鹿1000kmにクッズマツダDG-3(マツダスピード、チームメイトは寺田陽次郎フランク・フレオン)で参戦したのを最後に引退した。

マシンの開発能力に優れたレーシングドライバーで、マシン挙動を正確にエンジニアに伝えるとともに、自らのアイディアをマシン開発に反映させていた。特にマシンセッティングを変更した場合は、その変更内容がタイムに確実に反映されるレーシングドライバーであった[1]

レース戦績[編集]

全日本F2選手権[編集]

チーム シャーシ 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
1979年 スリーボンド532P ノバ・532P SUZ NIS SUZ
13
FSW
8
SUZ SUZ SUZ 15位 3

ル・マン24時間レース[編集]

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1982年 日本の旗 マツダスピード 日本の旗 寺田陽次郎
オーストラリアの旗 アラン・モファット
マツダ・RX-7 IMSA
GTX
282 14位 6位
1983年 日本の旗 寺田陽次郎
日本の旗 片山義美
マツダ・717C C Jr. 302 12位 1位
1984年 日本の旗 寺田陽次郎
ベルギーの旗 ピエール・デュドネ
マツダ・727C C2 261 20位 6位
1985年 日本の旗 寺田陽次郎
日本の旗 片山義美
マツダ・737C C2 264 24位 6位
1986年 日本の旗 寺田陽次郎
日本の旗 片山義美
マツダ・757 GTP 59 DNF DNF
1987年 日本の旗 寺田陽次郎
日本の旗 片山義美
GTP 34 DNF DNF
1988年 日本の旗 マツダスピード Co. Ltd. ベルギーの旗 エルヴェ・ルグー
イギリスの旗 ウィル・ホイ
マツダ・767 GTP 305 19位 2位
1989年 ベルギーの旗 エルヴェ・ルグー
アメリカ合衆国の旗 エリオット・フォーブス・ロビンソン
マツダ・767B GTP 365 9位 2位
1990年 日本の旗 マツダスピード 日本の旗 寺田陽次郎
日本の旗 片山義美
GTP 304 20位 1位
1991年 日本の旗 マツダスピード
フランスの旗 オレカ
日本の旗 寺田陽次郎
ベルギーの旗 ピエール・デュドネ
マツダ・787B C2 346 8位 8位
1992年 日本の旗 寺田陽次郎
ブラジルの旗 マウリツィオ・サンドロサーラ
マツダ・MXR-01 C1 124 DNF DNF

全日本ツーリングカー選手権[編集]

チーム コ.ドライバー 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1990年 City Life 43 日本の旗 長坂尚樹 フォード・シエラRS500 JTC-1 NIS
11
SUG
Ret
SUZ
Ret
TSU
4
SEN FSW

脚注[編集]

  1. ^ a b c d ASKING ON 従野孝司さんは片山義美さんの実弟って本当? Racing On No.076 44頁 武集書房 1990年7月1日発行
  2. ^ 『明日へのことば』六甲山から始まったル・マン制覇への道 NHK関西 2023年3月13日

外部リンク[編集]