ジギスムント・フォン・ルクセンブルク

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ジギスムント (神聖ローマ皇帝) > ジギスムント・フォン・ルクセンブルク
ハンガリー王ジギスムント(ジグモンド)

ジギスムント・フォン・ルクセンブルクのハンガリー統治では、ルクセンブルク家出身のハンガリー王ジギスムント(ハンガリー名ジグモンド)によるハンガリー王国の統治について説明する。ジギスムントのハンガリー王としての在位期間は1387年から1437年まで半世紀にわたり、治世後半には神聖ローマ皇帝およびボヘミア王も兼ねたが、その死によってルクセンブルク家は断絶し、ハンガリー統治は1代限りに終わった。

治世

王位継承争い

女王マーリア

アンジュー家出身のハンガリー王ポーランド王ラヨシュ1世東欧に「大アンジュー帝国」とも呼ぶべき一大勢力を築いたが、男子に恵まれず2人の娘を残して1382年に没した。ラヨシュは遺言で、長女マーリアを、ルクセンブルク家出身で神聖ローマ皇帝ボヘミア王カール4世の息子の一人であるジギスムント(ジグモンド)と結婚させ、両王国の共同統治者とするものとしていた。これに対してポーランド貴族(シュラフタ)は、マーリアの妹ヘドヴィグ(ヤドヴィガ)を女王に推戴して同君連合を解消する。ルクセンブルク家はポーランドの宿敵であるドイツ騎士団の支援者だったからである。

ハンガリーでも王位継承を巡って混乱が起きていた。ジグモンドとマーリアの結婚式は1385年に行われたが、この結婚式に賛成したハンガリー貴族はラツクフィ家などごくわずかで、大部分の大貴族(マグナート、代表的なのがハンガリー南部を支配するガライ家ホルヴァティ家)は反対していた。特にホルヴァティ家は、アンジュー家の同族であるナポリ王カルロ3世に王位に就くよう要請し、カルロもこれに応える形で軍を率いてハンガリーに侵攻し、ハンガリー王カーロイ2世として即位する。カーロイ2世の簒奪に対し、ジグモンド側に寝返った副王ガライ・ミクローシュとマーリアの母エルジェーベトは共闘してカーロイ2世を殺害した。ホルヴァティ家は新たにカーロイ2世の遺児、ナポリ王ラディズラーオを新たな王に立てようとし、さらには和平に赴いたマーリアの一行を襲った。結果、ガライは殺され、エルジェーベトは獄死し、マーリアは幽閉された。

後にガライ家とホルヴァティ家は和解し、マーリアも釈放されたが、その代償としてジグモンドは大貴族と同盟して統治する義務を課せられ、これが破られた場合に大貴族が武力を行使することさえ認めさせられた(公式的同盟)。しかも、内戦中にハーリチをポーランドに奪取された。このような犠牲を払いながらも、ジグモンドは晴れて1387年にハンガリー王として即位した。ただし、ナポリ王家との抗争は後々まで尾を引くことになる。

ニコポリス十字軍

ニコポリスの戦い

ハンガリー王になったジグモンドの課題は、バルカン半島で膨張著しいオスマン帝国への対策であった。オスマン帝国のハンガリーへの侵入はラヨシュ1世の頃から始まっていたが(ラヨシュは1375年にオスマン軍を撃破していた)、1389年に即位したバヤズィト1世の下で勢いを増していた。オスマン帝国の侵攻に対し、ジグモンドは国内外に訴えて、ローマ教皇ボニファティウス9世十字軍勅書を出すことで後援した。この間、マーリアの死という悲運に見舞われたが(1395年)、イングランドスコットランドフランス神聖ローマ帝国諸侯、フランドルイベリア、ポーランド、ボヘミアワラキアなどから次々と将兵が集まった。

対オスマン戦を熟知しているジグモンドはブダにオスマン軍を引きつけて消耗させる案を示したが、血気に逸るブルゴーニュ公ジャン(無怖公)エルサレム解放の大義を掲げるのに押され、積極的な攻撃策を採ることになった。こうして10万を超える軍勢が出撃したが、カトリックを奉じる西欧騎士と正教を奉じるバルカン戦士との確執、旧態依然の騎士突撃戦法が仇となり、1396年ニコポリスの戦いでバヤズィト1世に大敗北を喫した。無怖公は捕虜となり、ジグモンドは辛くも逃げ延びた。その後、バヤズィト1世が1402年アンカラの戦いティムールに敗北したことで、ヨーロッパはしばらくの間オスマンの脅威から解放されることになる。

国内改革

ハンガリーに帰国したジグモンドは、ニコポリス十字軍の敗因を国内の旧弊にあるとみなし、改革を行った。改革の最大の課題は大貴族への対策である。既にラヨシュ1世の時代に大貴族は勢力を増し、ジグモンドの王領・王城の半数を蚕食するなど、その勢いはとどまることがなかった。しかもニコポリスでの敗北を機に、大貴族の一人ラツクフィ・イシュトヴァーンはジグモンドに代えてラディズラーオを王位に就けようと画策していた。陰謀は寸前で阻止されたが、大貴族の勢力は侮り難いものになっていた。

そこでジグモンドは大貴族に対抗するため、国内外の有能な人物を多数登用して新貴族を育成していった。この政策は後に効果を現するが、大貴族の反発に遭い、ジグモンドは1401年ブダ城に監禁された。その後、信奉者によってジグモンドは救出され、謀反者たちに寛大な処置を取ることで人望を獲得していった。翌1402年、ジグモンドは後継者としてハプスブルク家オーストリア公アルブレヒト4世を指名したが、大貴族の一部(特にアンジュー派貴族)が反乱を起こし、またもラディズラーオを推戴しようとした。反乱を鎮めたジグモンドはここでも寛容を示し、大貴族を掌握することに成功した。

ジグモンドは自分に忠誠を誓う大貴族とともに、1408年ドラゴン騎士団を設立する。これは対オスマン戦に向けて設立したもので、当初は24人の名士からなっていたが、後に国外の王侯貴族も加わった。その中の一人がワラキア公ヴラド2世であり、騎士団に因んでドラゴン公、即ち「ドラクル」と呼ばれた。ヴラド2世の息子がドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュであるが、ドラキュラはドラクルが訛ったものである。

ドラゴン騎士団設立と前後して、ジグモンドはツェリェ伯ヘルマン2世の娘バルバラ・ツェリスカと再婚した。ヘルマン2世はマーリアとは共に母方の従兄妹であり、アールパード朝のハンガリー王イシュトヴァーン5世を始め、中東欧の多くの名門貴族の血を引いており、この結婚でジグモンドの王位の正統性の補強が期待された。しかもこの結婚の結果、ツェリェ家が統治していたアドリア海沿岸の要所スロヴェニアを獲得した。ジグモンドとバルバラの間には一女エルジェーベト(エリーザベト)が生まれた。

ジグモンドが大貴族と共に勢力削減の対象にしたのが高位聖職者である。ラディズラーオ擁立の陰謀には高位聖職者も参加し、更にはローマ教皇も支持していたからであった。1404年にジグモンドは、教皇令は国王の同意抜きでは公布することができないという勅令(国王同意権)で、教皇の高位聖職者の叙任権を剥奪した。そして1417年に、ハンガリー王が司教及び大司教を任命できる権利を教皇から承認された。

ジグモンドは大貴族・高位聖職者を封じ込めるため、国王顧問会議に彼らと共に加わる者として「特別顧問官」を設置し、官僚を国政に参与させた。また、都市に特権を与えるなどして強化も図った。

帝位とボヘミア王位の獲得、フス派の影響

ハンガリーの立て直しを図ったジグモンドは、その成果を己の野望に利用し、ボヘミア王位(1419年に異母兄ヴェンツェルの死により獲得したが、晩年までボヘミア貴族に承認されず)及び神聖ローマ皇帝位(1410年にループレヒトの死を受けて選出されたが、翌1411年まで同族のヨープストと争う)の獲得に執心した。ハンガリー統治は疎かになり、それはアドリア海喪失で顕著になった。ヴェネツィア共和国1411年ダルマチア奪還を目指して戦争を起こした結果、ジグモンドは1420年にダルマチアをヴェネツィアに割譲する羽目になったのである。

またジグモンドのボヘミア王位獲得は、ハンガリーへのフス派の流入とフス戦争の波及という思わぬ副作用をもたらした。ボヘミアに勃興したキリスト教改革派・フス派の信者たちはジグモンドに対して徹底抗戦の構えを見せていたが、その余波がハンガリーに及んで、1432年にボヘミア国境地帯で農民反乱が起きたのを皮切りに、ナジントルバトランシルヴァニアで次々と農民主導の反乱が起きた。これに対してローマ教皇は、フランシスコ修道会士マルキアのヤコブス異端審問官として派遣し、徹底的に弾圧した。弾圧を受けたフス派はモルダヴィアに逃れ、同地で聖書のハンガリー語訳を行った。フス戦争は1434年にボヘミア国内では収束するが、前後して急進派(ターボル派)の残党が多数ハンガリー北部、特にスロヴァキアに逃れてきた。彼らはターボル派の元幹部ヤン・イスクラの許で黒衛軍という独自の勢力を築いた。

ルクセンブルク家の断絶

ジグモンドはボヘミア貴族によって正式にボヘミア王位を認められた翌年の1437年に死去し、ルクセンブルク家の男子は絶えた。ハンガリー王位は神聖ローマ皇帝位、ボヘミア王位とともに、オーストリア公アルブレヒト5世(ドイツ王アルブレヒト2世、ハンガリー名アルベルト)が継承した。アルブレヒト5世はジグモンドの一人娘エリーザベトの婿であり、またかつて後継者に指名したアルブレヒト4世の息子であった。しかしアルブレヒトは2年後の1439年に病没し、神聖ローマ皇帝・ハンガリー王・ボヘミア王にはそれぞれ異なる者が推戴された。

評価と遺産

フニャディ・ヤーノシュ

ジグモンドのハンガリー統治は、ラヨシュ1世の遺産をことごとく食い潰したと言える。特に、対オスマン対策を怠ったことは後世非難され、現代でもハンガリーでの評価は低い。もっとも、ラヨシュ1世の統治自体がすでに不安定なものであり、ジグモンドはそのつけを払わされた面がある。

それでもジグモンドは功績を残さなかったわけではなく、大貴族に対抗するために登用した新貴族の中からフニャディ・ヤーノシュが現れている。フニャディはワラキアの出身であるが、ジグモンドの庶子との噂があった。やがてフニャディは対オスマン戦で活躍し、その息子フニャディ・マーチャーシュの下で、ハンガリーは束の間の繁栄を迎える。

参考文献

関連項目