クイーン・エリザベス (客船)
船歴 | |
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船籍 | イギリス |
所有 | キュナード・ライン |
運航 | キュナード・ライン |
発注 | 1936年 |
起工 | |
進水 | 1938年9月27日 |
命名 | 1938年9月27日 |
処女航海 | 1940年3月3日 |
その後 | 1975年、香港で解体 |
性能諸元 | |
総トン数 | 83,673t |
排水量 | 約83,000+t |
全長 | 1,031ft(314m) |
全幅 | 118ft(36m) |
全高 | 233ft(71m) |
喫水 | 38ft(12m) |
機関 | 蒸気タービン 4基 |
出力 | 200,000馬力 |
推進器 | |
航海速力 | 約28.5ノット(52.8km/h) |
最高速力 | 32.0ノット(59.3km/h) |
定員 | 乗客2,283名 クルー1,000+名 |
クイーンエリザベス(Queen Elizabeth)は、キュナード・ラインの航路客船。ロイヤル・メールを運ぶ契約を結ばれた(RMS)。
概要
1930年代にスコットランドのクライドバンクのジョン・ブラウン・アンド・カンパニー造船所で建造され、イギリス国王・ジョージ6世の妃・クイーンエリザベス[1]にちなんで命名された。就航当時は世界最大の客船で、その後56年間その座を保持した。最初の航海は第二次世界大戦による徴用船として1968年まで就航した。クイーン・メリーとクイーン・エリザベスは毎週サウサンプトンからシェルブール、ニューヨークまで20年以上運航された。
歴史
就航
1930年代にスコットランドのクライドバンクのジョン・ブラウン・アンド・カンパニー造船所で建造され、イギリス国王・ジョージ6世の妃・クイーンエリザベスにちなんで命名された。1938年9月27日に進水し、1940年3月3日に就航した。当時は世界最大の客船であった。
徴用船
1939年9月に勃発した第二次世界大戦中、クイーン・エリザベスとクイーン・メリーはカナダ、シンガポール(対日戦勃発前)、シドニーへ徴用され、兵員を輸送した。高速性を活用することで、護送船団なしでも潜水艦の脅威を回避した。大戦中の輸送人員は75万人以上、航海距離は50万マイル(80万キロメートル余り)にも及んだ。船長はジョン・タウンリー(John Townley)、アーネスト・フォール(Ernest Fall)、C・ゴードン・イリンズワース(C. Gordon Illinsworth)、C・M・フォード(C. M. Ford)とジェイムズ・ビゼット(James Bisset)が務めた。
クイーン・エリザベスは当初、オーストラリアから作戦地域であるアジアとアフリカで運航された[2]。1942年以後はアメリカとヨーロッパの間で北大西洋にて運航された[2]。
航路客船
1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴い、軍役から戻ったクイーン・エリザベスは、ジョン・ブラウン(John Brown)造船所で内外装を大幅に改修され、北大西洋航路に復帰した。
しかし1950年代に入ると、ダグラスDC-6やロッキード コンステレーションなどの大型旅客機が大西洋横断路線に就航し、さらに1958年には、大型ジェット旅客機のボーイング707が就航しロンドン - ニューヨーク間を6時間程度で結ぶとともに、運賃も低下したことにより、1960年代に入りクイーン・エリザベスをはじめとする北大西洋航路定期船の乗客は急激に減り、採算性は低下した。
2隻の“クイーン”を維持することはキュナード社にとって燃料費、人件費によって重荷になった。キュナードは両方の船を1969年に退役させ、初代より小型で経済的なクイーン・エリザベス2(QE2)を使用した。
最期
退役後、アメリカのフィラデルフィアの実業家に売却されたが、資金難のため1970年に香港の船会社に転売された。香港の造船所で洋上大学への改造が行われていたが、1972年1月9日に火災を起こして沈没した。その残骸は2年あまりビクトリア・ハーバーに放置されていたが、『007 黄金銃を持つ男』のロケが行われた後、1974年から1975年にかけて解体された。
なお、2010年には、キュナード社の新しいクルーズ客船であるクイーンエリザベスが就航した。
脚注
外部リンク
記録 | ||
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先代 ノルマンディー |
世界最大の客船 1940~1972年 |
次代 フランス |