エミリー・ディキンソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Moke (会話 | 投稿記録) による 2020年10月8日 (木) 16:00個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

若かりし日のエミリー・ディキンソン。1846年1847年。長い間、彼女の肖像として残る唯一の写真であった。

エミリー・エリザベス・ディキンソンEmily Elizabeth Dickinson1830年12月10日 - 1886年5月15日)は、アメリカ詩人。生前は無名であったが、1700篇以上残した作品は世界中で高い評価を受けており、19世紀世界文学史上の天才詩人という名声は今や不動のものとなっている。

生涯

エミリー・ディキンソンは、マサチューセッツ州アマーストで、政治や教育の世界で勢力のあった有名な家庭に生まれた。祖父は、アマースト大学創設者の一人であるサミュエル・フォウラー・ディキンソン(Samuel Fowler Dickinson、1775年 - 1838年)である。同大学はディキンソンの家から1.5kmほどのところにあった。また、父は弁護士で、同大学の出納係でもあったエドワード・ディキンソン(Edward Dickinson、1803年 - 1874年)である。彼は政治的にも卓越した人物で、1838年から1842年まではマサチューセッツ州高等裁判所で、1842年から1843年まではマサチューセッツ州上院議会に勤務。1852年にはホイッグ党員としてアメリカ合衆国下院議員に選出された。母エミリー・ノルクロス・ディキンソン(Emily Norcross Dickinson、1804年 - 1882年)は、物静かな人物で慢性病を患っていた。ウィリアム・オースティン・ディキンソン(William Austin Dickinson、1829年 - 1895年)は、兄で、オースティンというミドルネームがよく知られている。彼は後に、エミリーの親友であるスーザン・ギルバート(Susan Gilbert)と結婚し、エミリーが生涯の大半を過ごした家の隣で暮らした。妹のラヴィニア・ノルクロス・ディキンソン(Lavinia Norcross Dickinson、1833年 - 1899年)は、しばしばヴィニー(Vinnie)として知られ、エミリーの死後、その詩の編集や出版を促した。

エミリーは、人生の大半を、現在は、エミリー・ディキンソン・ミュージアム(Emily Dickinson Museum)として保存されている生家で過ごした。1840年に、アマースト中等学校の近くにあった、入学の2年前に女子にも門戸の開かれた旧男子学校で教育を受ける。そこでは英語学西洋古典学を専攻し、ラテン語を学び、アエネアスを数年掛けて読んだ。また、宗教歴史数学地理生物学も同時に学んだ。1847年、17歳のエミリーは、サウスハドレー(South Hadley)にあるメアリー・リヨンのマウント・ホリヨーク女学校(現マウント・ホリヨーク大学)に学ぶようになった。しかしながら、春に二度目のホームシックに罹ったとき、オースティンがエミリーを実家に連れて帰り、結局女学校に在籍したのは1年に満たなかった。その後、エミリーが外出したのは、ボストンケンブリッジコネチカット州に住む親戚の元を訪れる旅ぐらいであった。長い間、通俗的には、エミリーは広場恐怖症的な隠遁者として描かれて来た。最近では、もっと広い交際があったという学説が呈示されている。

エミリーが性愛の冒険者であった可能性について、伝記作家や批評家らの間で、大きな論争となっている。情熱の理解が、いくつかの詩や手紙によって明らかにはされているものの、愛情が向けられている対象についての結論を導き出す証拠がほとんどない。それに関しては、マスターレター(Master letters)と呼ばれる「マスター」宛の一連の手紙(後に出版された)が注目されている。エミリーがある恋人にその手紙を書いていることは明らかなのだが、住所が書かれていない上に、それらが送られたこともないのである。多くの伝記作家は、エミリーが父親の友人で新聞発行人のサミュエル・ボウルズSamuel Bowles)やオーティス・ロード判事(Otis Lord)やチャールズ・ワズワース牧師(Charles Wadsworth)らに対して空想的な恋愛をしていると信じ切ってきた。伝記作家はまた、エミリーが若い頃に、女性への空想的な愛着を抱いていたことを発見した。乏しく不明瞭な証拠にもかかわらず、この仮説は人気を博した。そのように主張された1850年頃のエミリー・フォウラー(Emily Fowler)との恋愛の後、1851年に教師であるスーザン・ギルバートに恋をした可能性を推測する者もある。しかし、エミリーの詩におけるマゾヒズムと暴力について批評したカミール・パーリア(Camille Paglia)のような急進的な文学批評家らは、エミリーとスーザンが肉体的関係にあったことを徹底的に否定している。エミリーの詩や手紙の多くは熱のこもった、情熱的でエロチックなものであるが、エミリーが誰かと肉体的な関係を持ったと信じている伝記作家や批評家は少ない。

スーザンは、エミリーの兄であるオースティン・ディキンソンと1856年に結婚した。エミリーは、かつてないほど力を込めて作った自身の詩を批評するようスーザンに依頼した。1886年5月15日、死去。死因はブライト病(腎臓疾患の一種)であると考えられている。

死に際し、家族は800以上の詩が記された手とじの本40冊を発見した。

詩とその影響

2012年に発見された、1859年頃のエミリー・ディキンソン(左)と友人。これら2枚の写真の他、肖像は存在しない。

エミリーの詩は、他の詩人の作品とは異なっていて、しばしば一目で見分けがつく。バラードと賛美歌の韻律を作る才能、草稿に見られるダッシュの多用と型にはまらない大文字の使用、風変わりな語彙と比喩的描写などにより、独特の叙情詩を作っている。

1840年から50年の10年間に、マサチューセッツ西部を席巻した信仰復興のただ中に、エミリーは詩人という天職を見出した。彼女の詩の多くが、日常の小さな出来事の反映であったり、社会の大きい事件であったりする。その大半は、南北戦争中に作られた。南北戦争が、詩に緊張した感じを与えていると考えている人も多い。エミリーは、一時的にではあるが、自分の詩を出版しようと考えており、文学批評家であるトーマス・ウェントワース・ヒギンソン(Thomas Wentworth Higginson)にアドバイスを求めたほどであった。ヒギンソンはただちに詩人の才能を認めたが、彼がエミリーの詩を、当時人気のあったロマン主義的なスタイルに倣い、より華麗な文体に「改善」しようとすると、エミリーはすぐに出版計画への興味を失った。

1886年の死去までに、わずかに7つの詩が世に出され、そのうち5つはSpringfield Republican紙上に掲載された。死後の1890年代に出版された3つの詩集で、エミリーはパワフルな奇人であることが証明されたが、詩人として評価されるのは20世紀を待たなければならなかった。エミリーの詩は、その死後、ヒギンソンとメイベル・ルーミス・トッド(Mabel Loomis Todd)によって撰集された。トッドは、収集と整理を、ヒギンソンは、編集を行った。彼らは、草稿の句読法と大文字の使用法を19世紀後半の正書法にあわせるため、詩に大幅な編集を加え、時にはエミリーの間違いを減らすために、言葉の置き換えを行うこともあった。1890年、詩集「Poems」がボストンで発行され、大変な人気となった。それは、1892年の終わりまでに、11刷に達したほどである。「Poems: Second Series」(第2集)は1891年に発行され、1893年には5刷に達し、第3集は1896年に発行された。エミリーの2冊の書簡集は、1894年に出版されたが、それはトッドによって過度に編集と選り分けがなされており、中には日付すら改変されたものがあった。死後の一連の出版によって、エミリーの詩は、初めて衆目を集めることになり、ただちに読者を得た。ヒギンソンとウィリアム・ディーン・ハウエルズ(William Dean Howells)の好意的な論評や批評の支えもあって、詩は1890年から1892年の間、好評を博した。だが、90年代後半には否定的な批評が台頭する。トーマス・ベイリー・アルドリッチ(Thomas Bailey Aldrich)は、批評誌「アトランティック・マンスリー(Atlantic Monthly)」1892年1月号に、匿名で、影響力のある否定的な批評を掲載した。

「ディキンソンが奔放でグロテスクな想像力を備えていたことは明白である。彼女はブレイクの神秘主義に色濃く染まっており、また、エマーソンの手法の影響を強く受けていた・・・しかし、彼女の短詩に一貫性がなく、雑然としているのは致命的である・・・一風変わった、夢見がちで、中途半端に教養のある、へんぴなニューイングランドの村(あるいは他のどこか)に住んでいた隠者は、罰を受けずには、引力と文法の法則を無視することができない。」(in Buckingham 281-282)

20世紀初頭には、エミリーの姪であるマーサ・ディキンソン・ビアンチ(Martha Dickinson Bianchi)がさらなる詩集のシリーズを出版した。それには、以前には発表されていない詩が多く含まれており、同様に句読法と大文字の使用法が修正されていた。The Single Houndが1914年に、 The Life and Letters of Emily DickinsonThe Complete Poems of Emily Dickinsonが1924年に、Further Poems of Emily Dickinsonが1929年に世に送られた。トッドとビアンチによって編集された他の書籍は、段階的に、以前には発表されていない詩を公開しつつ、1930年代を通して出版された。現代詩の興隆にともない、19世紀における詩形の観念では、失敗作だとされていたエミリーの詩は、もはや驚くべきものでもなかったし、新しい世代の読者とって不快なものでもなかった。そして、フェミニズムの新しい波によって、彼女は女性詩人としてより強い支持を得るようになった。疑いなく、彼女の株は上がったが、一般的には初期現代詩人の中の偉大な詩人であるとは考えられていなかった。それは、1937年に書かれたブラックマー(R.P.Blackmur)の批評においても明白である。

「彼女はプロの詩人でも、アマの詩人でもない。他の女性が料理や編み物をするのと同じように飽きもせず、個人的な詩を書いていたのである。彼女の言葉を使う天賦の才能や彼女が生きた時代の文化的な苦境が、彼女を、背もたれカバー作りではなく、詩作に駆り立てたのである。……テートが指摘するように、彼女が生まれたのはある種の詩作には適していた時代であった――すなわち、洗練された、異様な幻視の詩作である。いくつかの詩篇とすぐれて具象的な詩節に限っていうならば、そうした時代に生まれたことは彼女にとって良い方向に働いたともいえる。しかし……彼女の詩の大半は具象的ではなく、断片的な直説法による覚え書きにすぎない。残念なことは、彼女にはテーマも洞察力も観察眼も深い誠実さもあり、あとはいかにして、そしてなぜ、短い断片的な詩節ではなく長い本格的な詩を作るべきかを知っていさえすればよかったということを彼女の全仕事が証拠立てているということである。だが、彼女の生きた旧弊的な社会には、彼女が本能によって知ることまではできなかった教えを授けるような伝統は存在しなかった。」(195)

初期に刊行されたテキストは後の読者にはほとんど認められなかった。それらは、エミリーの草稿に基づいて甚だしく編集が加えられていたからである。エミリーの詩集の新しい完全版The Poems of Emily Dickinsonはトーマス・ジョンソン(Thomas H. Johnson)によって、1955年に3巻にまとめられて出版された。この版は、後の全てのディキンソン研究の基礎となり、その後の読者にエミリーを知らしめた。収められている詩にはタイトルがなく、およその時系列に沿って番号が振ってあり、ダッシュと不規則に使われた大文字がちりばめられている。また、しばしば極端に言葉が省略されている。それらは、最初、エミリーが残した原稿とできるだけ近い形で出版された。後に出版された注釈本には、代わりの言い回しが多く収録された。それは、編集の介在がより制限された中で、読みやすくするために、ジョンソンが強いて選んだものであった。後の読者は、ジョンソンによって活字化された、比較的原文に忠実なエミリーのテキストを読むとしても、残された問題に注目するだろう。そのテキストは、エミリーの原稿がそれらの見た目や図式的な特性が彼女の詩を読む際重要であることを暗示していることを主張しているのである。ことによると、意味のある区別は、詩の中で使われるダッシュの長さや角度の差異によって、あるいは、ページの中での配置の差異によって描かれるのかも知れないと主張されることもあった。エミリーの手書きのダッシュを、様々な長さや角度の印刷記号を用いることで、変化をつけようとする試みが行われてきた版もいくつかある。研究上の基本文献として標準ジョンソン版に取って代わることを目指したR.W.フランクリンの1998年版では、原稿のダッシュにより近くなるように、様々な長さのダッシュが使用されている。研究者自身が、原稿を見ることで研究がなされなければならないと主張する学者もいる。

音楽

普通律がしばしば用いられたことにより、エミリーが作った詩の多くは、容易に旋律と合わせることが可能である(例えば、"I heard a fly buzz when I died- / The Stillness in the Room / Was like the Stillness in the Air / Between the Heaves of Storm")。エミリーの詩はアーロン・コープランド(Aaron Copland)やニック・ペロス(Nick Peros)などの作曲家により、芸術音楽の詞として使用されてきた。

また、日本ではヒップホップバンドの54-71がdoorsとwhat colorという楽曲にエミリーの詩を引用している。

ディキンソンを扱った作品

日本語訳

  • 『自然と愛と孤独と 詩集』 (ピポー叢書)中島完訳. 国文社, 1964
  • 『世に与えた彼女の手紙 エミリー・ディッキンソン』ポリー・ロングワース著, 村岡花子訳. 東京メディカル・センター出版部, 1968
  • 『自然と愛と孤独と 詩集 続』中島完訳. 国文社, 1973
  • 『エミリィ・ディキンスン詩集』岡隆夫訳. 桐原書店, 1978
  • 『愛があるとしたら』岸田理生訳. サンリオ, 1978
  • 『もし愛がすぐそこにあるのなら エミリ・ディキンスン詩集』中島完 訳, 小林研三 絵. サンリオ, 1983
  • 『自然と愛と孤独と 詩集 続々』中島完 訳. 国文社, 1983
  • 『エミリ・ディキンスンの手紙』山川瑞明, 武田雅子編訳. 弓書房, 1984
  • 『エミリ・ディキンスン詩集』中林孝雄訳. 松柏社, 1986
  • 『愛と孤独と エミリ・ディキンソン詩集』全3巻 谷岡清男訳. ニューカレントインターナショナル, 1987-89
  • 『エミリの窓から』武田雅子 編訳. 蜂書房, 1988
  • 『エミリ・ディキンスンのお料理手帖』武田雅子, 鵜野ひろ子 共訳. 山口書店, 1990
  • 『ディキンスン詩集』 (海外詩文庫 新倉俊一訳編. 思潮社, 1993
  • 『自然と愛と孤独と 詩集 第4集』中島完 訳. 国文社, 1994
  • 『色のない虹 対訳エミリー・ディキンスン詩集』野田壽編訳. ふみくら書房, 1996
  • 『対訳ディキンソン詩集』アメリカ詩人選 亀井俊介編. 岩波文庫 1998
  • 『わたしは誰でもない エミリ・ディキンソン詩集』川名澄 編訳. 風媒社, 2008
  • 『エミリィ・ディキンスン詩集』櫻井よしこ, 千葉剛 共編著. 七月堂, 2011
  • 『エミリ・ディキンスンの詩の世界』新倉俊一 編. 国文社, 2011
  • 『空よりも広く エミリー・ディキンスンの詩に癒やされた人々』シンディー・マッケンジー, バーバラ・ダナ編, 大西直樹訳. 彩流社, 2012
  • 『まぶしい庭へ』ターシャ・テューダー絵, カレン・アッカーマン 編, ないとうりえこ 訳. KADOKAWA, 2014
  • 『私の好きなエミリ・ディキンスンの詩』新倉俊一 編. 金星堂, 2016
  • 『わたしは名前がない。あなたはだれ? エミリー・ディキンスン詩集』内藤里永子 編・訳. KADOKAWA, 2017
  • 『エミリ・ディキンスンの詩』藤井繁 著. コプレス, 2018

日本語関連書籍

  • 新倉俊一『エミリ・ディキンソン 研究と詩抄』篠崎書林, 1962
  • アイリン・フィッシャー, オリーブ・レーブ 著『エミリー・ディッキンソンの生涯 :ディッキンソン家の人びと』江間章子, 江間美保子訳. 東京メディカル・センター出版部, 1969
  • 古川隆夫『エミリィ・ディキンスンの技法』桐原書店, 1980
  • 中内正夫『エミリ・ディキンスン 露の放蕩者』南雲堂, 1981
  • 岩田典子『エミリ・ディキンスン 愛と詩の殉教者』創元社, 1982
  • 河野皓『エミリィ・ディキンスンの世界 色彩のイメジアリィ』文化評論出版, 1982
  • 河野皓『エミリィ・ディキンスン 花の詩学』文化評論出版, 1985
  • 萱嶋八郎『エミリ・ディキンスンの世界』南雲堂, 1985
  • 稲田勝彦『エミリ・ディキンスン天国獲得のストラテジー』金星堂, 1985
  • トーマス・H.ジョンスン『エミリ・ディキンスン評伝』新倉俊一, 鵜野ひろ子 訳. 国文社, 1985
  • モーデカイ・マーカス『ディキンスン詩と評釈 解説・原詩と訳・評釈』広岡実 編訳. 大阪教育図書, 1985
  • 新倉俊一『エミリー・ディキンスン 不在の肖像』大修館書店, 1989
  • 古川隆夫『ディキンスンの詩法の研究 重層構造を読む』研究社出版, 1992
  • 酒本雅之『ことばと永遠 エミリー・ディキンソンの世界創造』研究社出版, 1992
  • ロバート・L.レア『エミリ・ディキンスン詩入門』藤谷聖和 [ほか]編訳. 国文社, 1993
  • 『エミリィ・ディキンスン写真集』ポリー・ロングスワース編著, 千葉剛 訳. こびあん書房, 1994
  • 萩原万里子『エミリー・ディキンスンの詩の諸相』文化書房博文社, 1997
  • 岩田典子『エミリ・ディキンスンを読む』思潮社, 1997
  • 落合久江『思想と綴り字法 孤独なる革命 詳釈エミリ・ディキンスン』アテネ社, 2001
  • 野田壽『ディキンスン断章』英宝社, 2003
  • 岩田典子『エミリー・ディキンソン わたしは可能性に住んでいる』開文社出版, 2005
  • 嶋田美惠子『エミリ・ディキンスンの詩 カルヴァン神学の受容と排除』ブイツーソリューション, 2007
  • 松本明美『白の修辞学(レトリック) :エミリィ・ディキンスンの詩学』関西学院大学出版会, 2014
  • 大西直樹『エミリ・ディキンスン アメジストの記憶』フィギュール彩 彩流社 2018
  • 江田孝臣『エミリ・ディキンスンを理詰めで読む :新たな詩人像をもとめて』春風社, 2018.8

参考文献

  • J・D・エバウェイン編 鵜野ひろ子訳『エミリ・ディキンスン辞典』雄松堂出版 2007年
  • Blackmur, R.P.. "Emily Dickinson: Notes on Prejudice and Fact (1937)." In Selected Essays, ed. Denis Donoghue. New York: Ecco, 1986.
  • Buckingham, Willis J., ed. Emily Dickinson's Reception in the 1890s: A Documentary History. Pittsburgh, Pa.: University of Pittsburgh Press, 1989. ISBN 0-8229-3604-6.
  • Crumbley, Paul. Inflections of the Pen: Dash and Voice in Emily Dickinson. Lexington, KY: University Press of Kentucky, 1997.
  • Dickinson, Emily. The Complete Poems of Emily Dickinson. Ed. Thomas H. Johnson. Boston: Little, Brown, and Company, 1960. ISBN 0-316-18413-6 (and others).
    • The Poems of Emily Dickinson. Ed. R.W. Franklin. Cambridge, Mass.: Belknap, 1998.
    • The Manuscript Books of Emily Dickinson. Ed. R.W. Franklin. Cambridge, Mass.: Belknap, 1981.
  • Habegger, Alfred. My Wars Are Laid Away in Books: The Life of Emily Dickinson. New York: Random House, 2001.
  • Johnson, Thomas H. Emily Dickinson: An Interpretive Biography. Cambridge, Mass.: Belknap, 1955.
  • Martin, Wendy. "An American Triptych: Anne Bradstreet, Emily Dickinson, Adrienne Rich". Chapel Hill: U of North Carolina Press, 1984.
  • Sewall, Richard B. The Life of Emily Dickinson. New York: Farrar, Strauss, and Giroux, 1974. ISBN 0-374-51571-9.

外部リンク