エマ・フルベッキ

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エマ・フルベッキ(エマ・ヴァーベック、Emma Japonica Verbeck 、エミリー・ヴァーベック、Emily Verbeck、1863年2月4日 - 1949年)は、米国聖公会から日本に派遣されたアメリカ人女性宣教師立教女学校(現・立教女学院)、立教大学校(現・立教大学)、東京女子師範学校附属高等女学校の教師。長崎生まれ。グイド・フルベッキ夫妻の次女。生後半月で他界した長女と同名。フルベッキの他の子どもたちと同様に、フルベッキの盟友チャニング・ムーア・ウィリアムズ立教大学立教女学院創設者)から洗礼を受け、聖公会の信徒となる。東京帝国大学(現・東京大学)で英文法を教えていたH.T.テリーの妻である。

経歴・人物

1863年(文久3年)2月4日、グイド・フルベッキ夫妻の次女として長崎で生まれる[1]

アメリカに帰国後、カリフォルニア州オークランドで代数学、幾何学、ラテン語を学び、高校を卒業。

立教女学校校舎
(築地居留地26番)

米国聖公会宣教師として、高校卒業後すぐの1883年(明治16年)2月2日に19歳で再来日。(2日後には20歳となる日の来日であった。)
その年の春からフローレンス・ピットマンガーディナー夫人)が校長を務める立教女学校(現・立教女学院)で英語と音楽を教え、6月からは同年1月に創設された米国式カレッジの立教大学校(現・立教大学)で英語(訳読)と音楽を教える[2]。 特にその音楽指導は評価が高く、生徒から敬慕された。

エマが赴任した当時の立教女学校は、ガーディナー夫妻が住む築地居留地26番の住居の2部屋が教室として利用されていたが、1884年(明治17年)に、ジェームズ・ガーディナーの設計で、同地(築地居留地内26番)に洋風三階建ての美しい新校舎が竣工した。

1885年(明治18年)4月に、22歳となったエマは東京女子師範学校附属高等女学校専修科(お茶の水女子大学附属中学校お茶の水女子大学附属高等学校の前身)に英語、音楽の教員として採用される[3]
同年秋からは父、グイド・フルベッキと一緒に東京で暮らす[1]。また、同年冬には、林歌子がエマの日本語教師となり、その縁で林は1886年(明治19年)から立教女学校(現・立教女学院)で 和漢学や算術を教えた。

父の逝去を見届ける1898年(明治31年)まで立教女学校で音楽と英語を教えた。同年、一度アメリカに帰国するが、翌年再来日[1]

1899年(明治32年)7月に、東京帝国大学(現・東京大学)で英文法を教えていたヘンリー・テイラー・テリーと結婚し、長く日本に住んだ[1]

出典

脚注

  1. ^ a b c d 村瀬寿代「フルベッキの背景 : オランダ,アメリカの調査を中心に」『桃山学院大学キリスト教論集』第39号、桃山学院大学総合研究所、2003年3月、55-78頁、ISSN 0286973XNAID 110000215333 
  2. ^ 平沢信康「近代日本の教育とキリスト教(7)」『学術研究紀要』第18巻、鹿屋体育大学、1997年9月、31-42頁。 
  3. ^ 石田三雄「明治の群像・断片[その9]:外国人教師・宣教師フルベッキ一族と日本」『近代日本の創造史』第14巻、近代日本の創造史懇話会、2012年、35-54頁、doi:10.11349/rcmcjs.14.35ISSN 1882-2134NAID 130003354414 

関連項目