おはようパーソナリティ中村鋭一です

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おはようパーソナリティ中村鋭一です
ジャンル ワイド番組
放送方式 生放送
放送期間 1971年4月1日-1977年3月25日
放送時間 月曜日-金曜日 7:15-9:30
放送局 朝日放送ラジオ
パーソナリティ 中村鋭一
出演 嶋亜矢(初代アシスタント)・萩原輝子(中期アシスタント)・池田生子(末期アシスタント)
テーマ曲 クラリネット・ポルカ
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おはようパーソナリティ中村鋭一です(おはようパーソナリティ なかむらえいいちです)は、1971年4月1日から1977年3月25日[1]まで朝日放送ラジオ(ABC)で放送された生ワイド番組。

当時朝日放送報道局のプロデューサーだった中村鋭一冠番組で、放送時間は平日の7:15 - 9:30(JST)。1975年4月26日までは、同局の女性アナウンサーや女性タレントがパーソナリティを務める『おはようパーソナリティ』も毎週土曜日に放送していたため、「『おはようパーソナリティ』の平日版」と扱われていた。

概要

朝日放送のスポーツアナウンサーなどを経て、1969年4月から同局の人事交流制度で朝日新聞大阪本社記者を務めていた中村が、朝日放送へ復帰したことを機に誕生した情報番組。日本で初めて、ラジオの司会者が「パーソナリティ」を名乗ったり、ラジオの聴取者を「リスナー」と呼んだり[2]した番組とされている(詳しくはラジオパーソナリティの項を参照)。

中村は、朝日放送への入社前に中学校の英語教師を務めたことから、第1回の放送を“Spring has come early in the morning.”(「朝に春が来た」)というフレーズでスタート[1]。番組タイトルが決まらないまま放送を始めたため、『おはようパーソナリティ』というタイトルが付いたのは、放送開始から数日後であったという[3]。それにもかかわらず、1972年度には、日本のラジオ番組で唯一第10回ギャラクシー賞を受賞している[4]

滋賀県出身の中村が関西弁で長時間にわたって独断で生放送を進行するスタイルを確立したことから、放送期間中には一貫して、日本のラジオ番組でトップの聴取率を記録[5]。中村自身も、名前の「鋭一」から、「鋭(えい)ちゃん」という愛称で広く親しまれた。最高聴取率は9%(テレビ番組の視聴率では40 - 50%台に相当)で、近畿地方では、カーラジオでの占拠率が6割を越えたこともあったとされる[6]

放送開始の経緯

朝日放送(現:朝日放送グループホールディングス)では、1965年7月に当時のラジオ局が新設され、1966年4月から『ABCヤングリクエスト』の放送を始め、さらに、1967年5月1日にヘリコプターを飛ばして、その時の交通情報を伝える『空からこんにちは』を始めた[7]。その2つの番組は、当時沈滞していたラジオ界に突破口を作っていた[8]

ただ、当時の担当者は「確かに、ヤングとドライバーはつかんだ。でも、やっぱりオトナが聴いてくれないと、一人前のラジオといえないのではないか。成人男子や主婦に聴いてもらえるラジオでないと…」と感じていたという[8]。そこで、朝日放送では、1966年11月から12月にかけて当時のラジオ報道部主任とラジオ制作部主事の2人がアメリカのラジオ事情を視察した[8]。また、1967年10月には全国のラジオ局から20数人の代表が、アメリカのラジオ事情の視察に出かけた[8]。その結果、「アメリカのラジオは“ラフ”で、そして「ラジオはパーソナリティ」」という結論に達した[8]

しかし、パーソナリティ番組を生み出すには、当時平日朝に放送されていた3分から15分の、いわば細切れ番組を整理しなければならなかった[9]。それを東阪のラジオ営業がスポンサーを説得して、細切れ番組を整理することができた[10]。さらに肝心のパーソナリティについて、当初は京都市出身でアメリカのシラキュースのラジオ局でパーソナリティをしている日本人の男性が候補に挙がったものの、日本の事情になじめないことに加え、土地勘がないことから、結局はとん挫した[11]。そうした中で、あるラジオ局業務部員が「報道のセンスがないといかんというなら、やっぱりウチのアナの中で、探すしかおまへんで。いますがな、鋭ちゃん、中村鋭一いうのが」と提案し[12]、1971年の初春に中村に対し、当時のラジオ局業務部長が声をかけた[13]

結局、中村は2度目の説得で、観念した[12]。ここから番組の骨格作りが始まることになる。中村の肩書は「部長プロデューサー」ということになった[12]。そして、チーフ・プロデューサーとディレクターなど、スタッフも中村が自ら指名を行った[12]

その指名されたチーフ・プロデューサーは「新しいパーソナリティのありよう」を3つ中村に進言した[14]

  • 「あるがままにしゃべる」(自分の言葉、つまり標準語はやめて、関西弁でしゃべる)
  • 「自分の好きなことをしゃべる」
  • 阪神タイガースの徹底応援」

特に、「阪神タイガースの徹底応援」に関しては、中村がプロ野球実況の肩入れ放送の先べんをつけており、スポーツアナウンサー担当の時代にプロ野球中継をした際に「阪神タイガースに肩入れした言葉」を漏らしてしまい、リスナーから苦情が入ったこともあったという[14]。それをチーフ・プロデューサーは「中村さんは、阪神ファンでっしゃろ。徹底的に、タイガースの肩もってやりましょうや」と提案したという[14]

こうして、新番組の基本路線が、チーフ・プロデューサーを中心にして、構築されていき、1971年4月1日に『おはよう中村鋭一です』という番組タイトルで放送を開始した[14]

エピソード

阪神タイガースを公然と応援

当番組の放送を始めた頃の朝日放送ラジオのプロ野球中継では、阪神タイガースの公式戦を中心に据えながらも、読売ジャイアンツ(巨人)や関西地方に本拠地を置くパシフィック・リーグの球団(主に近鉄バファローズ)の公式戦も随時放送。放送業界全体でも、「不偏不党」という原則が、スポーツ関連番組の編成や放送にまで徹底されていた。しかし、中村が阪神タイガースの熱烈なファンであることから、当番組では開始当初から阪神を応援する姿勢を明言。阪神がセントラル・リーグの公式戦で勝利した翌日の生放送で、中村が球団歌の『阪神タイガースの歌(六甲おろし)』を熱唱したことをきっかけに、阪神ファンのリスナーから絶大な人気を博した。ラジオ中継の実況を収録した音源から阪神が勝った試合のハイライトシーンを放送したり、阪神が読売ジャイアンツ(巨人)戦に勝利した翌日の放送で軍歌の『凱旋』を歌ったりするなど、応援は次第にヒートアップ。放送開始翌年の1972年に、テイチクレコードから中村の歌唱・朝日ミュージックサービス(現在のAMC)製作で『阪神タイガースの歌』のレコードを発売したところ、関西地方を中心に40万枚を超える売上を記録した。現在一般に広く知られている「六甲おろし」という通称は、このレコードの発表に際して、1番の歌詞の最初のフレーズ(「六甲颪」)を基に中村が考案したとされる[15]

また、「鋭ちゃんと一緒に阪神を応援しよう」という企画で、3000名のリスナーを阪神の本拠地・阪神甲子園球場に招待。招待したリスナーに小旗やメガホンを無料で配りながらの観戦で、リスナーとの親交を深めた。中村は、後年のインタビューで、「(野球の応援に)集団でメガホンを使うのはあそこ(前述の企画)からやと思います」と述べている[16]

1973年には、中村がプロ野球シーズン開幕前の生放送で、「阪神がセントラル・リーグで優勝しなければ頭を丸刈りにする」と公約。阪神は当時8連覇中だった巨人との間で激しい優勝争いを展開したが、10月22日に甲子園球場で催された直接対決によるシーズン最終戦で、巨人に0 - 9のスコアで敗れて優勝を逃した。そこで、当番組ではシーズン終了後の生放送で、中村の公開断髪式を盛大に断行。公約通り丸刈りになった中村が、阪神の優勝を求める嘆願書を携えながら、当時大阪市北区梅田にあった阪神の球団事務所へリスナーと共に押し掛ける事態にまで発展した[17]

ちなみに、前述した最終戦では、朝日放送読売テレビサンテレビがテレビで同時生中継を実施していた。しかし、阪神の大敗に怒ったファンの一部が、巨人と関係の深い読売テレビの放送席や中継機材を試合終了後に破壊するという暴挙に及んだ。朝日放送の中継には中村もゲストで出演していたが、当番組のリスナーと思われるファンが「ここは鋭ちゃんのとこ(朝日放送のテレビ放送席)やから勘弁したれ」と叫んだことから、読売テレビのような難を逃れている[18]。また、同時に中継していたサンテレビの放送席も、「サンテレビは俺ら(阪神ファン)の味方や!手を出すな!」というファンの一声で難を逃れた(阪神タイガース#伝統の一戦の世紀の落球とV9も参照)。

中村以外の出演者も人気に

中村は、朝日新聞大阪本社への出向期間中に一時、大阪管区気象台の天気予報担当記者を務めていた。その際に福井敏雄(当時は同気象台の職員)と知り合った縁で、1974年頃からは福井が気象台への勤務を続けながら当番組へ定期的に出演。「お天気おじさん」として広く親しまれた。1976年には、喜納昌吉を出演させることによって、関西地方における「ハイサイおじさん」の人気に火を付けた。

1973年には、中村の友人であるキダ・タローが、5月2日から14日まで当番組のパーソナリティ代理を担当(担当期間中の番組タイトルは『おはようパーソナリティ キダ・タローです』)。6月1日からは、当番組の後枠で『フレッシュ9時半!キダ・タローです』のパーソナリティを長らく務めた。

他局への影響

在阪の民放ラジオ局では、当番組を開始するまで、平日の早朝に短時間の収録番組を並べる編成が定着。定時ニュースや天気予報を除いて、自社制作の生放送番組をほとんど編成していなかった。MBSラジオでは、当番組の人気を背景に1972年4月から、阪本時彦(当時は毎日放送アナウンサー)がパーソナリティを務める『おはようリスナー阪本時彦です』をスタート。中村に対抗して「東京都出身の巨人ファン」という阪本の個性を押し出そうとしたが、「後発の弱みもあって、健闘も及ばなかった」[19]という。そこで、MBSラジオは1974年4月に、『ありがとう浜村淳です』の放送を開始。後に当番組との間で激しい聴取率争いを展開したほか、開局70周年を迎えた2021年9月6日以降も放送を継続している。関西以外の地方のラジオ局でも、パーソナリティの名を冠した自社制作の生ワイド番組が、平日の早朝に相次いで放送されている。

ちなみに浜村淳は、ラジオパーソナリティとしての活動の軸足を深夜番組から『ありがとう浜村淳です』へ移すに当たって、出身大学(同志社大学)の先輩でもある中村から「独りよがりのしゃべりはいけない。(リスナーの)みんなが分かってくれる放送を(目指しなさい)」とのアドバイスを受けたという[20]。中村も、後述する理由で朝日放送を退社してからは、浜村やキダが所属する昭和プロダクションにタレント活動のマネジメントを依頼していた。

番組の終了とその後

中村は、1977年7月10日投開票の第11回参議院議員通常選挙で、大阪府選挙区から新自由クラブの公認候補として出馬することを決意。同年3月31日付で朝日放送を退社することに伴って、「中村鋭一」名義での生放送を終了させた。ちなみに、中村はこの選挙に落選したが、1980年第12回参議院議員通常選挙では新自由クラブ・民社党の共同推薦候補として大阪府選挙区で初当選。この当選を機に、参議院議員を2期、衆議院議員を1期務めた。

朝日放送では、『あすは日曜 道上です!』(『おはようパーソナリティ』土曜版の後継番組)を担当していた中村の後輩アナウンサー・道上洋三を、中村の後任のパーソナリティに抜擢。『おはようパーソナリティ道上洋三です』としてテーマソング(クラリネットポルカ)ごと番組を引き継がせたほか、最後期のアシスタントで、出演契約期間が残っていた池田生子(通称「アイアイ」)を続投させた(道上の起用へ至るまでの経緯は道上洋三#「おはようパーソナリティ道上洋三です」に詳述)。ちなみに、道上はスポーツアナウンサーを志望していた新人時代に、中村からスポーツ実況を指導。当番組の最終回では、「リスナーは賢者や。分からんことがあったら(生放送を通じて)リスナーに訊け」という金言を中村から授かったという[3]

『おはようパーソナリティ道上洋三です』が放送40周年を迎えた2017年に、中村は肺炎のため87歳で逝去。道上は、中村の逝去から2日後(11月8日)の放送で、当番組出演時の音源(「六甲おろし」の熱唱・担当最終回での挨拶・「おもいでのアルバム」の合唱など)を流しながら中村の訃報を伝えた[21]。その際には「中村さん(の担当期間)が6年、私(の担当期間)が40年ですが、40年かかっても『(中村に)追い付き、追い越せた』と思った日はありません」とのコメントを添えている[1]

『おはようパーソナリティ道上洋三です』が放送45周年・朝日放送ラジオが(旧朝日放送時代からの通算で)開局70周年を迎えた2021年11月11日木曜日)には、「ABCラジオ開局70周年記念日特別企画~あなたと私でプラチナ婚式~」の一環として、「道上洋三とABCラジオ」という3部構成の企画を『おはようパーソナリティ道上洋三です』内で生放送。中村が当番組の放送期間中に「山よりでっかいイノシシ出んわ!」と叫んだ声を収録した音源や、中村の歌唱による「阪神タイガースの歌」(六甲おろし)のレコード音源を放送した。また、同年9月11日から脳梗塞の発症による入院加療で休演している道上に代わって、後輩アナウンサーの横山太一が当番組開始前夜からのエピソードを道上本人の証言などを基に紹介している。

道上はリハビリ専門病院への転院を経て体調を徐々に回復しているが、高齢(脳梗塞を発症した時点では78歳)の身で放送に復帰する目途が立っていないことから、朝日放送ラジオでは家族などとの関係者と協議を重ねた末に『おはようパーソナリティ道上洋三です』を2022年3月25日(金曜日)で終了。翌週(3月28日)からは、『おはようパーソナリティ』というタイトルと「朝日放送テレビの男性アナウンサーによる冠番組」というスタイルを残しつつ、月 - 木曜分を『おはようパーソナリティ小縣裕介です』、金曜分を『おはようパーソナリティ古川昌希です』として編成している[22]。道上が「おはようパーソナリティ」を務めた期間は、複数回にわたる長期の休演期間を除いても、結果として中村による担当期間(6年間)の7倍以上に及んだ。ちなみに、小縣裕介は当番組の開始から半年後(1971年9月29日)に出生。また、古川昌希は道上と同じく34歳で「おはようパーソナリティ」の座を引き継いでいる。

番組から派生したレコード

  • 阪神タイガースの歌(六甲おろし) / 初恋は星に似て(1972年発売:テイチクレコード A-89)
    • 1974年には、「阪神タイガースの歌」で、テイチクからゴールデンヒット賞を授与。B面に収録された「初恋は星に似て」は、中村と初代アシスタント・嶋亜矢によるデュエット曲であった。
  • ハイサイおじさん / ハイサイおじさん(対訳篇)(1976年5月発売:テイチクレコード A-95)
    • 喜納昌吉の楽曲を中村がカバー。関西地方を中心に人気を博した。
  • タイガース音頭 / 進め!タイガース(1976年7月発売:東宝レコード AT-4005)
    • A面曲(タイガース音頭)は「中村鋭一とサウンド・フォー」名義、B面曲(進め!タイガース)は「アートボーン・チビッコ合唱団とサウンド・フォー」名義で発表。

出演者による楽曲のリリースは、『おはようパーソナリティ道上洋三です』でも、周年企画などで定期的に実施。数々のヒット曲を輩出している。

関連項目

脚注

  1. ^ a b c 道上洋三アナ「追い越せたと思った日ない」“偉大な先輩”中村鋭一さん偲ぶ(『スポーツニッポン2017年11月8日付記事)
  2. ^ 中村鋭一さん告別式「六甲おろし」の合唱で送られる(『日刊スポーツ2017年11月10日付記事)
  3. ^ a b 道上洋三アナ、中村鋭一さん悼む 六甲おろし「優勝したら一緒に歌おう」と(『デイリースポーツ2017年11月8日付記事)
  4. ^ 第10回ギャラクシー賞受賞作品
  5. ^ 昭和プロダクションでの中村のプロフィールを参照
  6. ^ 井上章一『阪神タイガースの正体』(太田出版、2001年)、P325
  7. ^ 朝日放送の50年・Ⅱ番組おもしろ史、137-138ページより
  8. ^ a b c d e 朝日放送の50年・Ⅱ番組おもしろ史、138ページより
  9. ^ 朝日放送の50年・Ⅱ番組おもしろ史、139ページより
  10. ^ 朝日放送の50年・Ⅰ本史、171ページより
  11. ^ 朝日放送の50年・Ⅱ番組おもしろ史、140-141ページより
  12. ^ a b c d 朝日放送の50年・Ⅱ番組おもしろ史、141ページより
  13. ^ 朝日放送の50年・Ⅱ番組おもしろ史、137ページより
  14. ^ a b c d 朝日放送の50年・Ⅱ番組おもしろ史、142ページより
  15. ^ 井上章一『阪神タイガースの正体』(太田出版、2001年)に掲載された中村へのインタビューで「一番のうたいだしから、私が勝手に命名しました」と語っている(同書P320)。
  16. ^ 『阪神タイガースの正体』P328。学生野球では慶應義塾大学が1906年にメガホンを応援に使用しており、社会人野球でも1937年に撮影された写真にメガホンを使用している例がある(永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P107,P111)。プロ野球観戦にメガホンを持参することについては『南海ホークスがあったころ』に「一九八〇年代前半になって定着した行動である」(P228)との記述があるが、中村の発言が正しいかどうかは裏付けとなる資料がなく不明である。
  17. ^ 中村鋭一さん死去 「六甲おろし」よ永遠なれ…阪神ファンの名物パーソナリティー(『デイリースポーツ2017年11月8日付記事)
  18. ^ 中村鋭一さん虎党に愛され…甲子園暴動もABC放送席だけ無被害(『デイリースポーツ2017年11月8日付記事)を参照。
  19. ^ 『阪神タイガースの正体』P325~326。「 」の箇所は『毎日放送の四〇年』(1991年)からの引用。
  20. ^ 浜村淳「まだまだ舌戦繰り広げたかった」 「お手本」の中村鋭一さんを悼む(『デイリースポーツ2017年11月8日付記事)
  21. ^ 道上洋三アナ「おはパソ」で中村鋭一さんの「六甲おろし」歌声放送して追悼(『デイリースポーツ2017年11月8日付記事)
  22. ^ 道上洋三アナの後任は小縣裕介、古川昌希両アナ ABCラジオ「おはようパーソナリティ」(『サンケイスポーツ2022年2月25日付記事)
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