龍源院
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| 龍源院 | |
|---|---|
庭園・一枝坦(いっしだん) |
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| 所在地 | 京都府京都市北区紫野大徳寺町82-1 |
| 位置 | 北緯35度2分31.53秒 東経135度44分45.91秒 |
| 宗派 | 臨済宗大徳寺派南派 |
| 寺格 | 大徳寺塔頭、南派本庵 |
| 創建年 | 文亀2年(1502年)頃 |
| 開基 | 畠山義元・大内義興・大友義長、東渓宗牧(開山) |
| 文化財 | 本堂(附:玄関)、表門、木造釈迦如来坐像(重要文化財) |
龍源院(りょうげんいん)は、京都府京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の寺院。同派大本山大徳寺の塔頭(たっちゅう)である。大仙院を本庵とする大徳寺北派に対して、南派の本庵とされている。
目次 |
[編集] 歴史
永正年間(1504 - 1521年)に東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登の畠山義元、豊後の大友義長、周防の大内義興らが創建[1]。創建年次については、文亀2年(1502年)、永正元年(1504年)など諸説ある[2]。
明治の初めに神仏分離により大阪・住吉神社内の慈恩寺と岐阜・高山城主だった金森長近が大徳寺内に建立した金竜院を合併した。
[編集] 寺号の由来
大徳寺の山号である龍宝山(りゅうほうざん)の「龍」と中国・臨済宗松源派の祖・松源崇岳(しょうげんすうがく)の禅を正しく継承する松源一脈の「源」の2文字を採ったものである。
[編集] 建造物
[編集] 重要文化財
- 本堂(方丈)
- 室町時代の永正14年(1517年)頃に建立された一重入母屋造・檜皮葺の建物[3]。日本の方丈建築としては古例の一つである。室中(しっちゅう)襖絵の龍図は、作者や制作年代は不明だが,桃山~江戸時代の作といわれている。
- 玄関(唐門)
- 本堂(方丈)へと至る切妻造・檜皮葺の玄関で、本堂と同時代に建立された。
- 表門
- 切妻造・桧皮葺の四脚門で、方丈・唐門と同時代に建立された。
[編集] その他
- 開祖堂
- 開祖・東渓禅師の塔所となっている一重入母屋造り・檜皮葺きの建物で、南北朝・鎌倉・室町初期時代の禅宗様の粋を取り入れた昭和の代表作である。
[編集] 庭園
- 東滴壺(とうてきこ)
- 昭和35年(1960年)に作庭された方丈と庫裏との間の現代壺庭の傑作で、白砂敷きのなかに5つの石が3・2の石組みに分けて配されている。
- 一枝坦(いっしだん)
- 東渓禅師が師である実伝和尚から賜った「霊山一枝之軒(りょうぜんいっしのけん)」という室号から名付けられたもので、丸く象った苔の中に石が立つ亀島が印象的な斬新な庭である。
- 龍吟庭(りょうぎんてい)
- 方丈北側に広がる三尊石組からなる室町時代の枯山水庭園で、中央の石組は須弥山を表し、青々とした杉苔は洋々たる大海を表す[4]。
- 滹沱底(こだてい)
- 宗祖・臨済禅師が住した中国・鎮州城の南を流れる滹沱河から名付けられた白砂の庭で、阿吽の石と名付けられた2つの石は聚楽第の遺構といわれる。
[編集] 文化財
[編集] 重要文化財
- 本堂(附玄関)
- 表門
- 木造釈迦如来坐像
- 龍源院の創建より古い鎌倉時代の作で、建長2年(1250年)、行心作の銘がある[5]。京都八釈迦の1つに数えられる。
[編集] その他の文化財
- 猿猴図
- 2幅で一対となっている掛幅で、長谷川等伯が描いたものと伝わる。
- 達磨図
- 中国禅宗の祖である達磨を描いたもので、徳川幕府の御用絵師だった狩野探幽が描いた。
- 種子島銃
- 天正11年(1583年)の銘により日本最古の種子島銃といわれる。
- 四方蒔絵碁盤・碁笥
- 豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝わる。
[編集] アクセス
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社、1979
- 寺前浄因監修『京の禅寺をたずねる』、淡交社、2000
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 5 洛中』、駸々堂、1984
- 毎日新聞社編『仏像めぐりの旅 5 京都(洛北・洛西・洛南)』、毎日新聞社、1993