近肖古王

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近肖古王
Baekje-monarchs(4-14).PNG
各種表記
ハングル 근초고왕
漢字 近肖古王
発音 クンチョゴワン
日本語読み: きんしょうこおう
ローマ字 Geunchogo-wang
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近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)は百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)であり、第11代の比流王の第2子。中国日本の史書に初めて名の現れる百済王である。

呼称[編集]

諡号(または追号)は第5代の肖古王と同じであるが、第6代仇首王と区別して第13代近仇首王とし、第4代蓋婁王と区別して第21代蓋鹵王の別名を近蓋婁王とするなど、同名の王の区別の為に「近」の文字が用いられている。[1]

三国史記』にはは伝わっていない。『晋書』では余句(徐句)[2](余(徐)は百済王族の姓)、『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王、『新撰姓氏録』では速古王とする。

治世[編集]

346年9月に先代の契王が薨去し、王位を継いだ。新羅とは和親(羅済同盟)を保ち、高句麗との抗争を続けた。369年には雉壌(黄海道延白郡銀川面?)へ進駐してきた高句麗兵を急襲して5000の首級を挙げ、371年には太子(後の近仇首王)とともに高句麗の平壌へ攻め込み、故国原王を戦死させた。また372年1月には東晋に対して朝貢を行い、6月には鎮東将軍・領楽浪太守に封ぜられた。同じ頃、倭国に対しても七支刀(作成は369年と考えられている)を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。こうした対高句麗の外交戦略は、次代の近仇首王にも引き継がれ、百済にとっての基本的な外交態勢となった。375年7月に高句麗が北部辺境の水谷城(黄海道新渓郡多栗面)を攻め落としたため、将軍を送って反撃したが勝てなかった。王は再び大軍を派遣して高句麗を討とうとしたが、不作の為に出征はできなかった。

開国以来文字が無かったため記述ができなかったが、近肖古王の代になって博士の高興(こうこう、コフン)を得て、初めて文字(漢字)が伝わったとする。

在位30年にして375年11月に死去した。

倭(日本)との関係[編集]

古事記』では、応神天皇の治世に百済王照古王が馬1つがいと論語などの書物を応神天皇に献上し、阿知吉師(あちきし)と和邇吉師(わにきし)を使者として日本に遣わした、とされている。この照古王が年代から近肖古王に比定されているが、第5代の肖古王とする説もある。

『日本書紀』にも、肖古王の名があるが、年代からは近肖古王を指すと考えられている。

脚注[編集]

  1. ^ これは日本の天皇に、鳥羽天皇の加後号として後鳥羽天皇という「後」の文字を付けた追号を持った天皇が存在するのと類似している。
  2. ^ 『晋書』の列伝にはいわゆる「百済伝」はなく、百済王余句(徐句)の名が見られるのは『晋書』巻9・簡文帝紀・咸安2年(372年)正月条及び6月条である。

参考文献[編集]