筑豊炭田
筑豊炭田(ちくほうたんでん)とは、福岡県の中央部から北部にかけて広がる炭田である。炭田の存在する区域が律令国の筑前国と豊前国に跨がっているため、「筑豊」という名称が付いている。八幡製鐵所を背景に抱えていたため、戦前日本では最大規模の炭田であった。
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[編集] 炭田の存在する地域
いわゆる筑豊地域に含まれる自治体のほか、筑豊地域の北西から北東にかけて隣接する遠賀郡・中間市・宗像市・福津市・北九州市八幡西区南部・小倉南区南部にも炭田が広がっている。
筑豊地域の西側に隣接する糟屋郡にも炭田があるが、これは糟屋炭田と呼ばれ、筑豊炭田とは別の炭田である。
[編集] 歴史
[編集] 江戸時代まで
室町時代の中期頃に地元(現在の北九州市八幡西区香月地区)住民が石炭を発見し、薪より効率の良い燃料として用いていたとされる。江戸時代中期(西暦1700年代)頃から製塩において燃料として石炭を用いるようになったため、当時の小倉藩と福岡藩は域内の石炭採掘・輸送・販売を藩の管理下に置き、炭鉱の開発を進めた。
[編集] 戦前
徳川幕府が倒され明治政府による統治が始まると、産業革命期に入り、1872年(明治5年)に鉱山開放令が公布され、明治政府や民間人により炭鉱開発が急速に進められた。1901年に操業開始した八幡製鐵所(現・新日本製鐵八幡製鐵所)の操業開始により、さらに需要が増加し、生産量が増大した。また、八幡製鐵所の建設開始とほぼ同じ頃から財閥が炭鉱開発に参入している。こうして、戦前では日本最大規模の産炭地に成長した。1913年2月6日、嘉穂郡穂波村の二瀬炭鉱中央磐坑で炭塵爆発が発生し、中にいた124名中、女性18名を含む103名が犠牲となる事故が起きた[1]。
[編集] 戦後
第二次世界大戦後も長い間、炭田としては日本一の石炭産出量を誇っていた。しかし、1950年代後半からエネルギー革命が起こり、エネルギー源の主体が石炭から石油に移行し、効率の良い炭鉱を開発し低効率の炭鉱を廃止する政策(スクラップ・アンド・ビルド政策)が進められたことで、1959年に産出量日本一の座を石狩炭田に明け渡して急速に衰退が進んだ。筑豊の炭鉱は第二次世界大戦中の濫掘や設備酷使などにより炭鉱の疲弊が進み、新鉱を開発できる余地が少なく、1976年に貝島炭礦(宮田町)が閉山したのを最後に、すべての炭鉱が閉山した。
1960年代には大手企業の炭鉱が閉山した後、地元で新たに採炭企業(第二会社)を設立し、従業員を再雇用して採炭を続けた例もあったが、いずれも長続きせず、5~10年程度で再び閉山となった。
[編集] 輸送手段
江戸時代までは五平太船(川艜 / かわひらた)と呼ばれる船を使用し、遠賀川およびその支流を利用して水運により輸送していた。戦前には大量高効率輸送のため鉄道の敷設が進められ、五平太船も1939年まで残っていた。
[編集] 人口の増大と減少
筑豊炭田により、筑豊地域や遠賀・北九州地域では、人口が増大した。しかし、現在は筑豊炭田の衰退または筑豊炭田を後背地とした重工業の衰退により、いずれの地域も減少した。
- 北九州市・・・約1,070,000人(1979年)→993,483人(現在)
- 飯塚市(当時)・・・107,467人(1955年)→約80,000(2006年3月25日合併前の数値)
- 田川市・・・102,755人(1963年)→52,328(現在)
- 直方市・・・64,479人(1985年)→59,444(現在)
- 山田市(当時)・・・39,563人(1959年)→11,007(合併による消滅前)
[編集] 代表的な炭鉱
このほかに中小炭鉱業者も数多く存在した。
[編集] 閉山後
炭鉱の閉山後は自治体の財政基盤が失われるとともに、多数の失業者が発生し、人口の流出が急激に進んだ。また、生活保護受給者が急激に増え、福岡県は日本でも屈指の受給率である。北九州工業地帯に近い地の利を活かし、炭鉱跡地を造成して工業団地とし、工場を誘致し、産業の育成を図っているが、依然として失対事業などに頼る面もある。麻生セメントに見られるように炭鉱からセメント業に転進した企業もある。
また、同炭田一帯は一帯の土壌が石炭採掘、加工などによって汚染され、農業にも適さなくなっていることが、一層産業の転換を困難にさせている(一部の地域では土壌の改良を行った上で、蔬菜、果樹、花卉などの栽培が推進されている)。
歴史的資料の保存としては、直方市・田川市・宮若市では石炭を専門に扱った博物館・資料館を開設している。またこれ以外にも飯塚市の住友忠隈炭鉱のボタ山など、様々な資料が史跡として保存されている。飯塚市幸袋の炭鉱王・伊藤伝右衛門の邸宅が公開されるようになった。