デーモン・コア

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デーモン・コア(demon core)は、アメリカ核兵器開発プロジェクト「マンハッタン計画」で、初期の原子爆弾の核分裂性コアとして製造された直径89mmの球状の6.2kgのプルトニウムの未臨界塊で、1945年8月21日と1946年5月21日の2回の臨界状態に達する事故に巻き込まれたものである。この核は、日本に投下される可能性のある第3の核兵器に使用される予定だったが、日本の降伏によりその必要がなくなったため、実験用に使用された。炉心は、爆弾の爆発を確実にするために、わずかな安全マージン[2]をとって設計された。炉心が実際に臨界点に近づいていることを確認するための1945年と1946年にロスアラモス研究所で行われた実験で、誤って一時的に超臨界状態になり、それぞれハリー・ダリアンルイス・スローティンという科学者が急性放射線障害で死亡している。この事件以降、球状のプルトニウム核は「デーモン・コア(悪魔の核)」と呼ばれるようになった。

歴史

トリニティ実験でのハリー・ダグリアン(中央左)とルイス・スローティン(中央右)の二人の物理学者

デーモン・コアは、長崎に投下された2号コアと同様に、直径89mm、重さ6.2kgの球体である。プルトニウムガリウム製の2つの球体とリングの3つの部分で構成されており、爆縮時に球体間の接合面から中性子束が噴出しないようになっている。1945年7月にアラモゴード爆撃・射撃場で行われたトリニティ実験で使用された核には、このようなリングはなかった。[3] [4]
精製されたプルトニウムは、ワシントン州ハンフォード・サイトからロスアラモス研究所に輸送された。8月30日付の目録文書によると、ロスアラモス研究所は "HS-1, 2, 3, 4; R-1" (トリニティ核実験と長崎での使用分)を使い切っており、 "HS-5, 6; R-2" は完成して品質管理の手に渡っていた。 "HS-7、R-3 "の材料はロスアラモスの冶金セクションにあり、9月5日までに完成する予定だった(この時期に、未発表の「HS-8」を製作して4番目のコアを完成させることができたかどうかは定かではない)[5]。 冶金担当者は、プルトニウムのδ相同素体[6]を安定させ、ホットプレスで目的の球形にできるようにするため、プルトニウム-ガリウム合金を使用した。プルトニウムは腐食しやすいことがわかったので、球体はニッケルでコーティングされた。 [7]
8月10日、レズリー・グローヴス少将は、アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル将軍に手紙で次のように伝えている。

次の爆縮形式の爆弾は、1945年8月24日以降の最初の好天時に標的に投下できるように予定されている。我々は、製造に4日費やし、8月12日か13日にニューメキシコから最終部品を出荷する予定である。製造、戦地への輸送、戦地到着後に不測の事態が発生しなければ、8月17日か18日以降の最初の好天時に爆弾の納入が可能である。[5]

マーシャルは、ハリー・S・トルーマン大統領が最初の2回の原爆投下の効果を確認するのを待っていたため、「大統領の明確な権限なしには日本に投下してはならない」という注釈を付けた。[5]
8月13日時点で8月16日には完成し、8月19日に投下される予定であった。[5]だが、1945年8月15日にカートランド飛行場への輸送準備が進められている間に、日本が降伏し、先を越されてしまったのである。
その後3番目のコアはロスアラモスに残った。[8]

最初の臨界事故

事故後に撮影されたダリアンの臨界事故時の状況の再現写真。球体のデーモン・コアは炭化タングステンのブロックで周囲を一部囲まれている

当初、コアは、組み立てる際、5セント分小さくなるように設計されていた。[9]
この大きさでは、反応性を高めて炉心を超臨界状態にし、さらに急速にエネルギーを増加させる即発臨界状態になるため、固体の金属コアを圧縮したり、核物質をさらに追加したり、外に出てくる中性子をコアに反射させる外部反射板を用意したりする場合、そのための安全マージン[2]がごくわずかしかなかった。[10]
ロスアラモス研究所で行われたこの2つの死亡事故につながる実験は、この反射板を配置し、どれだけ中性子を反射させれば超臨界状態に近づくかを確認することで、実際に炉心が臨界点に近づいているかを確かめるものであった。[9]

1945年8月21日、物理学者のハリー・ダリアンは、プルトニウム塊の周囲に中性子反射体である炭化タングステンのブロックを積み重ねて徐々に臨界に近づけるという中性子反射体の実験を行っていた。ブロックをコアに近付けすぎると即座[臨界状態に達して核分裂反応が始まり、大量の中性子線が放出されるため、失敗は絶対に許されない大変危険な実験であった。しかしブロックをプルトニウム塊の上に落下させ、核分裂反応を生じさせてしまった。急いでブロックをプルトニウム塊の上から離したものの、致死量の放射線(推定5.1シーベルト)に被曝し、急性放射線障害のため25日後に死亡した。[11]
ダリアンは一人で作業していたが、もう一人警備員のRobert J. Hemmerly一等兵は、3~4m離れた机に座っていた。[12]

氏名 出身 年齢 職業 後遺症 出典
ハリー・ダリアン ニューロンドン(コネチカット州) 24 物理学者 事故後25日目に急性放射線障害、造血フォーカスで死亡 [13]
Robert J. Hemmerly ホワイトホール(オハイオ州)英語版 29 Special Engineering Detachment(SED)英語版 1978年、急性骨髄性白血病のため62歳で死去(事故から33年後)。 [13]

第二の臨界事故

事故後に撮影されたスローティンの臨界事故時の状況の再現写真。スローティンはマイナスドライバーを持って、デーモン・コアが入ったベリリウム製の半球を動かしていた。デーモン・コア自体はベリリウムの半球で覆われており、この写真では直接写っていない

1946年5月21日ロスアラモス研究所で、カナダ出身の物理学者ルイス・スローティンとその同僚らが、中性子反射体(ベリリウム)と核分裂性物質(デーモン・コア)を接近させて、臨界状態が発生する距離の測定実験を行っていた。[14]スローティンらは球体状にしたベリリウムを分割して二つの半球状にし、その中央にデーモン・コアを組み込んだ。そして、ベリリウムの半球の上半分と下半分との間にマイナスドライバーを挟み込み、ドライバーを動かして上半分の半球をコアに近づけたり離したりしながらシンチレーション検出器で相対的な比放射能を測定していた。挟みこんだドライバーが外れて二つの半球が完全に接近すると、デーモン・コアは即座に臨界に達し、大量の中性子線が放出してしまう大変危険な実験であった。小さなミスも許されない危険性から、リチャード・ファインマンが「ドラゴンの尻尾をくすぐるようなものだ」("tickling the dragon's tail")と批判し、他のほとんどの研究者は実験への参加を拒否したほどであった。[15][16] しかし、功名心の強いスローティンは皆の先頭に立ってこの実験を実施し、エンリコ・フェルミも「そんな調子では年内に死ぬぞ」と忠告していたと言われる。[17]

そしてこの日、スローティンの手が滑り、挟みこんだドライバーが外れて二つの半球が完全にくっついてしまった。即座にデーモン・コアから青い光が放たれ、スローティンの体を熱波が貫いた。コアが臨界状態に達して大量の中性子線が放出されたことに気づいたスローティンは、あわてて半球の上半分を叩きのけ、連鎖反応をストップさせ他の研究者たちの命を守ろうとした。彼は文字通り皆の先頭に立って実験を行っていたため、他の研究者たちへの放射線をさえぎる形で大量の放射線を浴びてしまった。彼はわずか1秒の間に致死量(21シーベルト)の中性子線とガンマ線を浴び、放射線障害のために9日後に死亡した。[9]
スローティンの間近にいた同僚のアルバン・グレイブス英語版も中性子線の直撃を受けたが、スローティンの肩越しにデーモン・コアを見ていたため、中性子線がスローティンの体によって遮られ、数週間の入院で退院した。しかし、少なからぬ吸収線量によって後遺症(慢性の神経障害と視覚障害)が残り、生涯苦しんだ。 [12]
その20年後、55歳のときに心臓発作で死亡した。原因は放射線被曝による隠れた合併症だったかもしれないが、彼の父親が同じ原因で亡くなっていたことから、遺伝的なものだった可能性もある。 [18] [19] [20] その他の研究者たちはデーモン・コアから十分離れていたため、無事であった[21] [22]

医学的研究

同僚の健康状態について追跡調査が行われた。
初期の報告書は1951年に発表され、その後アメリカ政府のためにまとめられ、1979年に提出された。[12]
以下、その調査結果の要約。

氏名 出身 年齢 職業 後遺症 出典
ルイス・スローティン ウィニペグ 35 物理学者 事故後9日目に急性放射線障害、胃腸障害で死亡 [14]
アルバン・グレイブス英語版 オースティン(テキサス州) 34 物理学者 1965年(事故から19年後)、スキー中に粘液水腫白内障を併発した心筋梗塞で死去。 [12]
Samuel Allan Kline シカゴ 26 物理学を学んだ後、弁理士となる。 2001年(事故から55年後)に死去。研究への参加を拒否し、事故当時の医療記録を入手することもできなかった。 [12]
Marion Edward Cieslicki マウントレバノン(ペンシルベニア州) 23 物理学者 1965年(事故から19年後)に急性骨髄性白血病で死去。 [12]
ドワイト・ヤング英語版 シカゴ 54 写真家 1975年(事故から29年後)に再生不良性貧血細菌性心内膜炎で死亡。 [12]
Raemer Schreiber英語版 マクミンビル(オレゴン州) 36 物理学者 1998年(事故から52年後)に自然死、享年88歳 [12][23]
Theodore Perlman ルイジアナ州 23 エンジニア 1978年時点では「生存しており、健康で元気である」とされていたが、1988年6月(事故から42年後)にカリフォルニア州リバモアで死亡したと思われる。[24] [12]
Private Patrick Joseph Cleary ニューヨーク 21 警備員 朝鮮戦争でアメリカ陸軍第8騎兵連隊として戦っていた1950年9月3日(事故から4年後)に戦死した。[25][26] [12]

また、機械工のポール・ロングと身元不明の人物が、建物の別の場所(20~25フィート離れた場所)にいたが、治療を受けなかった。[27]
この事件以降、「ルーファス(Rufus)」と呼ばれていたコアは「デーモン・コア」と呼ばれるようになった。[5][28]
また、実地型の臨界実験は中止され、生存者の一人であるシュライバーが考案した遠隔操作機とテレビカメラを使って、全員が4分の1マイル(約400m)離れた場所で実験を行うことになった。[23]

クロスロード作戦

デーモン・コアは当初、クロスロード作戦の実験で使用される予定だった。しかし、前述の2度の臨界事故が起きたため、放射能が減少するのを待ったうえで、期待される核分裂の性能を満たしているかを再評価しなければならなくなった。そこで、エイブル(Able)実験ベーカー(Baker)実験用には新たに2つコアが用意され、デーモン・コアは3回目のチャーリー(Charlie)実験で使用される予定となった。ところが、2回目のベーカー実験で発生した想定外の放射能汚染によって目標の戦艦を移動させることができなくなってしまったため、3回目の実験は中止となってしまった。

そのため、このコアは後に溶かされて、ほかのコアを作るために再利用された。[29][30]

その他

  • 当時のロスアラモスの研究者の多くがで早世したとされるが、実際に手で触ったファインマンは癌を再発しながらも69歳まで存命していた。(プルトニウムは酸化防止のために表面を薄い銀でメッキされていたと思われる。)
  • グレイブスは視覚と生殖機能をデーモン・コアに奪われた後も米軍の核実験の責任者として長く核開発にかかわり続けた。
  • マンハッタン計画の終了後すぐに下野したファインマンが、著書『ご冗談でしょう、ファインマンさん』にてロスアラモスの中性子反射実験と「考えることを停止した」研究者たちについて記している。なお、デーモン・コアを素手で触ったファインマンによると、崩壊熱による、曰く「放射能の暖かみ」[31]があるとのこと。
  • SF作家のチャールズ・ストロスが、代表作の『残虐行為記録保管所』においてダリアンの事象について言及している。
  • 1989年の映画『シャドー・メーカーズ』)に、ダリアンとスローティンをモデルにした人物が登場する。

脚注

  1. ^ 「安全マージン」とは?意味や使い方を解説”. 意味解説辞典. 2021年3月14日閲覧。
  2. ^ a b 安全性を確保するために持たされている余裕やゆとりのこと。[1]
  3. ^ Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 archiveurlarchivedate は両方を指定してください。Wellerstein, Alex. “You don't know Fat Man”. Restricted data blog. 時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月4日閲覧。
  4. ^ Coster-Mullen, John (2010). Core Differences, from "Atom Bombs: The Top Secret Inside Story of Little Boy and Fat Man". オリジナルの. エラー: |archiveurl=を指定した場合、|archivedate=の指定が必要です。. https://web.archive.org/web/20140427063417/https://www.flickr.com/photos/conqueror_worm/8165065513/in/photostream/ 2014年4月4日閲覧。 
    An error: the illustration caption states the Fat Man core was plated in silver; it was plated in nickel, as the silver plating on the gadget core blistered. The disk in the drawings is a gold foil gasket.
  5. ^ a b c d e Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 archiveurlarchivedate は両方を指定してください。Wellerstein, Alex. “The Third Core's Revenge”. Restricted data blog. 時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月4日閲覧。
  6. ^ プルトニウムの同素体の一種
  7. ^ Baker, Richard D.; Hecker, Siegfried S.; Harbur, Delbert R. (1983). “Plutonium: A Wartime Nightmare but a Metallurgist's Dream”. Los Alamos Science (Los Alamos National Laboratory) (Winter/Spring): 142–151. オリジナルの2011-10-17時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111017034523/http://library.lanl.gov/cgi-bin/getfile?07-16.pdf 2010年11月22日閲覧。. 
  8. ^ Raemer Schreiber's Interview” (1993年). 2015年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年5月28日閲覧。 Raemer Schreiber being interviewed by Richard Rhodes
  9. ^ a b c McLaughlin, Thomas P.; Monahan, Shean P.; Pruvost, Norman L.; Frolov, Vladimir V.; Ryazanov, Boris G.; Sviridov, Victor I. (May 2000). A review of criticality incidents, 2000 Revision (LA-13638). pp. 70–78. オリジナルのJuly 22, 2014時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140722230204/http://www.orau.org/ptp/Library/accidents/la-13638.pdf 2014年5月18日閲覧。. 
  10. ^ Stater, Robert G. (2012年12月13日). “Prompt Criticality: A Concept with False Credentials”. Nuke Facts. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月27日閲覧。
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  12. ^ a b c d e f g h i j Hempelman, Louis Henry; Lushbaugh, Clarence C.; Voelz, George L. (19 October 1979). What Has Happened to the Survivors of the Early Los Alamos Nuclear Accidents? (PDF). Conference for Radiation Accident Preparedness. Oak Ridge: Los Alamos Scientific Laboratory. LA-UR-79-2802. 2014年9月12日時点のオリジナルよりアーカイブ (PDF)。2013年1月5日閲覧 Patient numbers in this document have been identified as: 1 - Daghlian, 2 - Hemmerly, 3 - Slotin, 4 - Graves, 5 - Kline, 6 - Young, 7 - Cleary, 8 - Cieleski, 9 - Schreiber, 10 - Perlman
  13. ^ a b Dion, Arnold. “Acute Radiation Sickness”. Tripod. 2015年8月12日閲覧。
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  20. ^ Clifford T. Honicker (1989年11月19日). “America's Radiation Victims: The Hidden Files”. The New York Times. オリジナルの2012年2月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120217095609/http://www.nytimes.com/1989/11/19/magazine/america-s-radiation-victims-the-hidden-files.html 2011年4月23日閲覧。 
  21. ^ Trinity Atomic Website Archived 2014年2月27日, at the Wayback Machine., retrieved February 2009
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  25. ^ American Battle Monuments Commission. Korean War Veterans Honor Roll. Ancestry.com. WWI, WWII, and Korean War Casualty Listings [database on-line]
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  27. ^ Louis Slotin. オリジナルのApril 7, 2014時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140407070650/http://www.mphpa.org/classic/NPO/Slotin%20Accident.doc 2014年4月4日閲覧。. 
  28. ^ Wellerstein, Alex (2016年5月21日). “The Demon Core and the Strange Death of Louis Slotin”. The New Yorker. オリジナルの2016年5月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160524022150/http://www.newyorker.com/tech/elements/demon-core-the-strange-death-of-louis-slotin?intcid=mod-latest 2016年5月22日閲覧。 
  29. ^ “The Demon Core” (英語). The New Yorker. http://www.newyorker.com/tech/elements/demon-core-the-strange-death-of-louis-slotin?intcid=mod-latest 2018年7月11日閲覧。 
  30. ^ The blue flash” (英語). Restricted Data: The Nuclear Secrecy Blog. 2018年7月11日閲覧。
  31. ^ 『ご冗談でしょう、ファインマンさん』リチャード P. ファインマン、岩波現代文庫、p.231

関連項目

外部リンク