森永ヒ素ミルク中毒事件

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森永ヒ素ミルク中毒事件(もりながヒそミルクちゅうどくじけん)は、1955年昭和30年)6月頃から主に西日本を中心としてヒ素の混入した森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者、中毒患者を出した食中毒事件森永ミルク中毒事件(もりながミルクちゅうどくじけん)とも。

食品添加物の安全性や粉ミルクの是非などの問題で、現在でも引き合いに出される事例となっている。また、食の安全性が問われた事件の第1号としてもしばしば言及されている。

目次

[編集] 事件の概要

1955年(昭和30年)6月頃から8月にかけて、近畿地方以西の西日本一帯で、ドライミルクを飲んでいる乳児に原因不明の病気が集団的に発生した。当初は奇病扱いされたが、岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。1955年(昭和30年)8月24日岡山県を通じて当時の厚生省(現厚生労働省)に報告がなされ、事件として発覚することとなる。

森永乳業は、1953年昭和28年)頃から全国の工場で乳製品の溶解度を高めるため、第二リン酸ソーダを粉ミルクに添加していたが、1955年(昭和30年)に徳島工場(徳島県名西郡石井町)が製造した缶入り粉ミルク(代用乳)「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物・工業用の第二燐酸ソーダに、不純物として砒素が含まれていた。これは、その時に「第二リン酸ソーダ」と思って使用した物質が、日本軽金属清水工場でボーキサイトからアルミニウムを製造する過程でできた廃棄物を脱色再結晶させた物質で、化学的には第二リン酸ソーダとまったく異なる物質であった。その物質がひ素などの有害物質を大量に含んでいたのであった。

 にもかかわらず、使用にあたって、森永乳業は安全性を確認することなく、安易に使用した。国も、その流通過程で静岡県知事から毒物にあたるかどうかの照会があったにもかかわらず、適切な措置を取らなかったばかりか、事件発生後の1955(昭和30)年11月になってから転売許可の通知を出した。森永はもちろんのこと国(厚生省・当時)の責任も重かったといえる、これを数多くの乳児が飲み、1956(昭和31)年の厚生省発表によると12,131名の乳幼児がヒ素中毒になり、130名の死亡者が出た。しかし、当時は事件を知らないままだった親もおり、その後ひかり協会ができてから飲用者として認定された者も合わせると、約13,430名(今日でも飲用認定者は発生している)にのぼる。しかし、消費者の権利が確立されていない時期でもあり、また、産業復興が被害者救済よりも優先される時代であたため、満足の行く救済措置がとられなかった。

現在も脳性麻痺知的発達障碍てんかん脳波異常・精神疾患等、中枢神経系の症状をはじめとするさまざまな障がい・症状により、健康・教育・就労・生活の場等のハンディをかかえている被害者も多い。ミルクを飲ませた自責の念で精神的に苦しんだ被害者の親らも多くいた。

森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過した1970年(昭和45年)の裁判中のことである。その際、森永側は、第二燐酸ソーダの納入業者を信用していたので、自分たちに注意義務はないと主張していた(納入業者は「まさか食品に工業用の薬品を使用するとは思わなかった」と証言)。しかし、後に国鉄仙台鉄道管理局が、第二燐酸ソーダ(日本軽金属製造)を蒸気機関車のボイラー洗浄剤として使っていたが、使用前の品質検査でヒ素を検出し、返品していた(国鉄は、蒸気機関車のボイラーの状態保持には細心の注意を払っていた)事実が明らかとなった。

食品としての品質検査は必要ない」と主張していた森永の態度は厳しく指弾され、1960年代には、森永製品の不売買運動が発生した。当時、森永は乳製品の売り上げでは明治雪印をしのぐ企業であったが、裁判が長期化したこともありイメージダウンは拭いきれずシェアを大きく落とした。特に岡山県では事件以降森永製品への不信感が消費者に根強く残ったことから、売り上げの見込めない森永製品を一切扱わない商店も数多く存在した。岡山県内でのこのような動きは事件が一応の決着を見た昭和50年代まで続いた。

刑事事件では、一審では森永側が全員無罪とされたが、検察側が上訴。刑事裁判は1973年(昭和48年)まで続くが、判決は過失の予見可能性判断において危惧感説(新々過失論)を採用し、元製造課長が実刑判決を受けた。ちなみに危惧感説が採用されたと見られる裁判例は本判決が唯一である。一審の判決が衝撃的だったため、被害者側は民事訴訟を断念。のちに後遺症問題が明らかとなるが、その際も森永側は長らく因果関係と責任を否定した。最終的に、被害者団体(守る会)・厚生省・森永乳業の話し合いにより被害者救済に向けて努力することが確認され(その時に締結された「三者会談確認書」は、ひかり協会ホームページhttp://hikari-k.or.jp参照、1974年(昭和49年)財団法人ひかり協会が設立され、被害者を恒久的に救済している。

[編集] 事件のその後

概略

 守る会、厚生省(現厚労省)、森永乳業は三者会談で確認書を締結した。その結果1974年4月に被害者を恒久的に救済する機関「ひかり協会」(現在公益財団法人として認定されている)が設立され、被害者救済事業が実施されるようになった。現在も、三者の協力は誠実に継続しており、多くの専門家(約350名の医療・法律・福祉等も関係者)の協力も得て、救済事業は続いている。加害企業である森永乳業も、誠実に責任を果たしており、年間約17億円(2010年度)の救済資金をひかり協会に出捐(えん)している。被害者団体も、救済事業協力員制度という活動に積極的に参加し、被害者同士で健康を守る活動を行っている。このような活動は他の公害被害者運動ではあまり見られないことから、専門家から高く評価されている。<3者会談及び救済事業内容についての詳細は、ひかり協会ホームページhttp://hikari-k.or.jp参照>

Ⅰ 財団法人ひかり協会(2011年4月から公益財団法人ひかり協会)により被害者救済事業が開始される。

1.財団法人ひかり協会(以下、ひかり協会)の設立に至る経過

 1973(昭和48)年10月12日、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」(現在は「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」以下、守る会)「厚生省」「森永乳業」の3者による第1回三者会談が開催される。  同年12月23日に開催された第5回三者会談において、3者は被害者を救済することで合意し、確認書が締結される。この確認書の中で、森永は企業の責任を全面的に認め、心から謝罪するとともに、被害者救済のために一切の義務を負担することを確約し、厚生省も被害者救済に協力することを確約した。また、問題が全面的に解決するまで三者会談を継続して開催することも確約された。(現在も年1回の「三者会談」と年4回の「三者会談推進委員会」が絶えることなく継続されている)

2.ひかり協会による被害者救済事業の特徴

 1974(昭和49)年以来続けられているひかり協会による被害者救済事業には次のような特徴がある。

(1)3者と専門家の協力によって事業内容が決定される

 ひかり協会設立以前、被害者を代表する団体である守る会が作成していた「被害者の恒久的救済に関する対策案」の精神を尊重し、3者が推薦する理事及び協力専門家によって構成された理事会で、救済事業の重要な内容を決定して、事業を行ってきた(現在、厚労省推薦はない)。

(2)被害者団体の意見・要望を十分に聞いて、事業を実施している

 被害者を代表する唯一の団体である守る会の意見・要望を十分に聞いて、それを反映した事業を、ひかり協会は行っている。守る会全国本部は、毎年、次年度のひかり協会の事業計画・予算に対する意見・要望を提出し、話し合いの場をもっている。

(3)救済事業に必要な費用は、全額森永乳業が負担している

 ひかり協会理事会が、次年度予算を立て、その全額が森永乳業から出捐(しゅつえん)されている、2011年度予算は、年間約17億円である。累計額は予算額で450億円を超えている。

(4)守る会は個々の被害への損害賠償を放棄し、全被害者の恒久救済を求めている

 守る会は、森永乳業に、個々の被害に対する補償=損害賠償を求めることを放棄し、すべての被害者の恒久的な救済を実現することを求めた。この守る会の方針を尊重して、ひかり協会は、被害者の生存権・生活権を回復し、被害者の自立と発達に向けた事業を実施している。

(5)救済対象は全被害者とした

 1955(昭和30)年に発生しながら1974(昭和49)年まで救済らしい救済はされなかったため、ひ素ミルクを飲用しながら登録されていなかった被害者も多く存在していた。それらの被害者についても飲用者として認定し、救済対象とした。現在でもひかり協会は、すべての被害者を救済するために、飲用者の認定を行う認定委員会を設置している。また、被害の軽重にかかわらず、すべての被害者を対象に事業を実施している。

 ひかり協会が設立されて間もなく、ひかり協会と連絡を希望するかどうか全被害者の親族対象にアンケートをとった。その結果、特に障害はないので救済事業は受けないと意思表示する親族もおり、また19年間放置されていたため住所不明になり連絡がとれない被害者なども多く、2005(平成17)年当時、①協会と常時連絡を希望する者44%、②申し出があった場合のみ連絡をとる者22%、③一切の連絡を拒否する者12%、④住所不明者15%、⑤無回答者0%、死亡者7% という結果になっている。

3.ひかり協会による救済事業の主な内容(詳細はひかり協会ホームページhttp://hikari-k.or.jp参照)

(1)相談事業

 被害者の健康や生活についての相談をもっとも重視している。そのため、本部事務所以外に、全国に7か所の地区センター事務所と10県本部事務所を設置し、66名の職員を配置して、相談対応している。(2012年4月からは、1本部事務所、7センター事務所、7出張所体制になる)また、相談内容によっては専門的な援助が必要なものもあるため、医療・法律・福祉・教育等の専門家による地域救済対策委員会(約130名)をそれぞれの事務所ごとに設置し、定期的にケース検討や相談対応をしている。

(2)生活の保障・援助

 障害のある被害者の生活を保障するために、生活手当・調整手当などを支給している。

(3)自立生活促進の援助事業

 障害のある被害者の自立生活を促進するために、補装具等を援助している。

(4)保健・医療費の援助事業

 すべての被害者の健康管理促進のために、検診費用・医療費等を援助している。

4.被害者救済事業の内容面に見られる特徴

(1)ひ素による被害は多様であるため、救済の内容も個別性が強く、かつ総合的に行われなければならない。そのため医療、教育、法律、福祉等の分野の専門家の力を借りて救済事業が行われている。一人の被害者について専門家集団が事例検討を行って、もっとも必要な救済が行われるようにしている。  また、救済が始まった当時20歳前だった被害者も現在では60歳を目前にしている。その間40年近くの長きにわたる事業は、内容を変化させながら発展させてきた。その事業内容は「20歳代の被害者救済事業のあり方」「30歳代の被害者救済事業のあり方」「40歳以降の被害者救済事業のあり方」として方針化され実施されてきた。現在、高齢化する被害者に対応できるよう「40歳以降の救済事業のあり方」の一部見直しの検討が始まっている。これらの決定にあたっては、常に被害者、専門家の間での検討を重視している。

①救済の3原則(「自立と発達の保障」、「総合性」、「個別性」)

 救済事業が開始されて4年目の1978(昭和53)年に、守る会とひかり協会は一致して救済の3原則を確立し発表した。

 1つ目の原則は「自立と発達の保障」である。青年期にある被害者にとって、いま最も大事なことは、社会的自立、発達を保障することであるという内容である。2つ目の原則は「総合性」である。救済には、金銭によるものと金銭で解決できないものがあり、これを総合的に実施するという内容である。3つ目の原則は「個別性である」障害・症状は一人ひとりちがっている。したがって、救済も画一的な方法でなく、個々の被害者の実情にあった対応をしなければならないという内容である。

②自主的健康管理の援助事業

③将来設計実現の援助事業

④専門家による審査判定、助言

⑤守る会会員を中心とした被害者どうしの支え合い   ア 救済事業協力員活動

イ 自主的グループ活動

ウ ふれあい活動


 ≪個人の関わり≫

〈事件の解決や救済事業の推進等にあたっては、数多くの個人が関わっている。大きな功績のあった人、地道に被害者を支援した人、ひかり協会の救済事業の推進に協力した人、逆に現在の救済事業に批判的な人・・さまざまな関わり方があった。そのように、この事件は社会に大きな影響を与えた事件であったのである。〉 

◇被害者救済に至る経過のなかで、もっとも功績のあったのは、故丸山博大阪大学医学部教授である。丸山教授は、被害者とその親族から「世間から見捨てられていた被害者にとって、光を当ててくれた救世主である」と最大の功労者として感謝されている。

丸山教授は、養護学校(当時)養護教諭であった大塚睦子氏や保健婦(当時)、医学生らとともに、主に大阪府下在住の被害者の実態を調査した。その結果、当時中学生になっていた被害者の多くが今なお障害・症状に苦しんでいる状態にあることが明らかになった。その調査結果を「14年目の訪問」という冊子にまとめ、発表した。朝日新聞に取り上げられた記事は、忘れ去られていた事件を再び世に出し、被害者を救済せよという世論を巻き起こすことになる。「14年目の訪問」は丸山教授によって、日本公衆衛生学会に持ち込まれ、かつて「後遺症はなし」と発表した故西沢阪大教授と公開の論争をした。「専門家がおこなった調査は信用できない」と発言した西沢教授に対し、丸山教授は「14年間被害者のそばにいて観察し続けた母親たちから聞き取ったものを信用できないというのは専門家の傲慢である。その調査結果が真実であるかどうかを検証するのが専門家の役割ではないのか」と厳しく反論し、傍聴していた親族から大きな拍手が沸いた。

丸山教授は、その後も裁判で証言するなど大きな役割を果たした。生存中は守る会全国総会にも何度か足を運び傍聴するなど、守る会や被害者救済を励まし、見守り続けた。

◇被害者側で支援活動をしていたのが、当時弁護士だった中坊公平である。中坊弁護士は、森永被害者弁護団の団長を務め、法廷で被害者及びその親族の思いを展開し、特に最終弁論陳述は圧巻であり、裁判を被害者にとって有利に進行させる役割を果たした。中坊弁護士は、被害者の状態を本当に知るために多くの被害者宅を実際に訪問し母親たちから直接話を聞いた。そこで聞いた話を裁判の冒頭陳述でこのように述べている。「私は原告弁護団長を引き受けて以来、数多くの被害者のお宅を1軒1軒訪問して巡りました。そしてそこで多くの母親たちに面会しました。その母親が私に一番強く訴えたことは、それは意外にも被告森永に対する怒りではありませんでした。その怒りより前に、われの我が手で自分の子に毒物を飲ませたという自責の叫びでございました。」中坊弁護士は、のちに「人類の赤ちゃんは無条件に父や母を信じて生きていくというのが特徴。これを裏切らせる行為を強いたというのが森永ひ素ミルク中毒事件の本質」と述べ、事件の重大性を指摘している。 彼はこの事件に関わるまでは、地位が安定している企業の顧問弁護士で一生を過ごそうかと考えていたが、父親の一喝で関わることになる。中坊公平は「法廷外戦術も駆使することにした。それは、森永製品の不買運動である」[1]「同時に森永製品の組織的な不買運動も収束させました」[2]、和解交渉の局面に触れて「被害者たちとの対面を渋る国と森永を引っ張り出すために水面下で動き続けていた」[3]「森永がけしからんという人は、本当に誰一人いわない」[4]「被害者というものは…(中略)…森永もやってくれたということについて、やっぱり、それなりに感謝もしてますよね」[5]といった説明をしている。

これについて、当時をよく知る関係者は「中坊は当時の救済運動の指導者ではないので不買運動は指揮していない。和解交渉にあたっては、追い詰められた森永のほうが国を通じて被害者との面会を切望したというのが事実である」と指摘する。もちろん中坊氏が不買運動を指揮していたわけではない。中坊氏は被害者団体である守る会と緊密な連携をとって、守る会と一致した方針で不買運動を法廷闘争が有利に進行するように取り組んだのである。現在でもほとんどの被害者は中坊氏の功績は認め感謝している。 また同事件では重症者も多いが、ほとんどの被害者が森永に感謝している事実はないと被害者家族は指摘している。という人もいるが、実際は、40年近く誠実な救済への協力が続くなか、被害者と森永との関係は明らかに敵対関係から協力関係に変化している。重度の障害を有する被害者のなかには「森永はよく責任を果たしてくれている」と評価する者が多いというのが、実態を知っている被害者・親族のほとんどの思いである。

◇故岡崎哲夫[1]が事務局長を務めていた時期、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」は機関紙「ひかり」の第11号(1970年4月20日付)に次のような主張を掲載し、森永乳業への警戒を呼びかけていた、 「事実、森永は15年前(=事件が起きた1955年のこと)にも、そのような人を利用して、事件をヤミに葬る手段に使いました。曰く『森永の処置に十分満足している』『森永に感謝している人が沢山いる』『騒いでいるのは一部の人たちだけである』と」。 なお、岡崎は「守る会」の生みの親とも言える人物だが、同協会の体質や財務上の問題点を指摘するなかで1986年(昭和61年)に除名された。残念なことに、岡崎氏は、守る会と別組織を結成した中心メンバーの一人となってしまい、それが規約違反であるとされ、反省を求められたが反省せず、反駁しつづけた。岡崎は反論書を提出したが総会で読み上げられることもなかった。それ以降「守る会」「ひかり協会」は急速に変貌を遂げていく。岡崎氏の除名は全都府県本部が賛成し、全会一致であり、守る会やひかり協会が変貌することなどはなかった。(「こどもを守る会」は「被害者を守る会」へ名称を変更。被害者が30代になっており、被害者自身も入会できるようにし、やがて運動を担えるように「こども」から「被害者」へと名称を変えた。現在は名実ともに被害者が担っている)

なお、近年になっても、救済のあり方を問題視する被害者家族が現「守る会」内で発言機会を奪われる言論制限事件が明るみに出ている。(出典:2003.6.25付山陽新聞報道)また、重症被害者の親が現「守る会」「ひかり協会」を相手取って人権救済の訴えを起こしていた[6]。(しかし、結果はすべて不採用となった。つまりひかり協会や守る会が被害者の親の人権侵犯をしたとはいえないと人権擁護委員会は判断したのである)なお、現「守る会」は人権救済申し立てを行った岡山県倉敷市在住の重症被害者の父親を、その後、無期限の権利停止処分にした。しかし、権利停止処分の理由は、人権擁護委員会に申し立てをしたことではない。

2009年平成21年)2月、岡山市の自営業・能瀬英太郎は、「守る会」を相手取って、名誉毀損の損害賠償請求訴訟を提起した(「平成21年(ワ)第249号損害賠償等請求事件」岡山地方裁判所 第2民事部2A1係)同氏は、かつて「守る会」運動を支えた市民ボランティアの一人(被害者や親族など当事者ではない)だが、最近、“現救済団体は、恒久救済を十分実施しておらず、運営にも大きな闇がある”として数々の論文(「紙のいしぶみ」(「週刊 金曜日」第10回ルポルタージュ大賞 報告文学賞受賞作品、「森永ヒ素ミルク中毒事件 発生から50年」(自費出版)[2]など)を発表し続けていた。また、被害者の親からの要望で、被害者家族の支援を行っていた。

2007年(平成19年)8月20日、現「守る会」は機関紙「ひかり」(第460号)の第1面を全面使って、「被害者運動の変質と救済事業の破壊をねらう能瀬英太郎氏(元「森永告発」)の動き 2007.7.29守る会常任理事会声明」と大見出しを打って同氏批判のキャンペーンを展開。これは、守る会運動とひかり協会事業を、能瀬氏からの攻撃から守るために必要な措置であったと守る会側は主張している。これに対して、能瀬氏はその紙面内容が事実無根の羅列であるとして、名誉回復の訴訟に踏み切った。能瀬からは既に岡山地裁に相当量の証拠文書が提出されている(同地裁で閲覧可能)。その中には、財団法人職員から被害者へ発せられた「ひかり協会職員の暴言の数々」といった文書や、被害者の親への行動監視記録らしき文書も含まれている。しかしその文書の出所や信憑性については不明である。いずれにしても、この能瀬氏が起こした訴訟は係争中である。ちなみに能瀬氏らが結成した「森永告発」は、被害者の会総会などに暴力的な行為を行ったため、30年前に守る会から「支援者でなく妨害者」として絶縁された。なお、能瀬氏自身が暴力的行動を行ったわけではない。

「森永事件はまだ終わっていない」として恒久的な社会的監視が必要だとの意見もある。[7]

事件の震源地となった徳島工場は粉ミルクの製造を中止した上で操業を続けていたが、2011年1月、同年9月の閉鎖が決定された[8]

[編集] グリコ・森永事件

1984年昭和59年)のグリコ・森永事件では、森永乳業と関係が深い森永製菓をターゲットにした理由が「森永 まえに ひそで どくの こわさ よお わかっとるや ないか」と挑戦状で記されている。また、読売新聞社への挑戦状で森永乳業が引き合いに出され「森永乳業は せいかと違う あんぜんやで」と記されている。

[編集] 参考文献・注

  • 第24回自治体に働く保健婦のつどい実行委員会編『私憤から公憤への軌跡に学ぶ 森永ひ素ミルク中毒事件に見る公衆衛生の原点』せせらぎ出版、1993年1月、ISBN 4915655415
  • 滝川恵清著『十七年目の訪問 森永ヒ素ミルク中毒のこどもたち 滝川恵清写真集』柏樹社、1972年
  • 田中昌人、北条博厚、山下節義編『森永ヒ素ミルク中毒事件 京都からの報告』ミネルヴァ書房、1973年
  • 長谷川集平『はせがわくんきらいや』すばる書房、1984年3月 / ブッキング、2003年7月、ISBN 4835440587、(絵本)
  • ひかり協会編『ひかり協会10年の歩み : 恒久救済の道を求めて』ひかり協会、1985年3月、(非売品)
    • 協会前史年表・協会史年表: p291 - 324
  • 森永ミルク中毒事後調査の会編『14年目の訪問 森永ひ素ミルク中毒追跡調査の記録』(復刻版)、せせらぎ出版、1988年6月、ISBN 4915655164
  • 森永砒素ミルク闘争二十年史編集委員会編『森永砒素ミルク闘争二十年史』医事薬業新報社、1977年2月
    • 森永砒素ミルク中毒事件関係資料・森永砒素ミルク闘争二十年史年表: p.343 - 380
  • 森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会編『守る会運動の歴史から「三者会談方式」を学ぶ 守る会運動の歴史学習版』森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会、1991年6月、(非売品)
    • 事件史年表: p123 - 164
  • 森永ヒ素ミルク中毒「被害者」の会編『太陽の会の歩み17年 事業と運動の発展をめざして 解散記念文集』太陽の会、1988年10月、(非売品)
  • 吉田一法著『エンゼルの青春 森永ヒ素ミルク中毒事件被災児の記録 吉田一法写真集』草土文化、1973年
  1. ^ 今井彰・首藤圭子『野戦の指揮官・中坊公平』 日本放送出版協会、2001年1月・第1刷、p82
  2. ^ 中坊公平『中坊公平・私の事件簿』 集英社新書2000年12月・第4刷 p. 58
  3. ^ 今井・首藤(2001)、p. 96
  4. ^ 今井・首藤(2001)、p. 88
  5. ^ 今井・首藤(2001)、pp. 103-104.
  6. ^ 2003年6月24日の岡山県における人権救済申し立て事件(岡弁庶第33-1号)及び、2003年7月8日の広島県における人権救済申し立て事件(広弁第57号)
    2003年6月25日付読売新聞岡山版報道
  7. ^ 東海林吉郎/菅井益郎著「砒素ミルク中毒事件」『技術と産業公害』宇井純編、国際連合大学、1985年
  8. ^ “森永ヒ素ミルク事件の徳島工場、閉鎖へ”. 読売新聞. (2011年1月26日). http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110126-OYT1T00819.htm 2011年1月26日閲覧。 

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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