木戸松子

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木戸松子

木戸 松子(きど まつこ、天保14年(1843年) - 明治19年(1886年4月10日)は、幕末から明治時代初期にかけての女性。京都三本木(現、京都市上京区三本木通)の芸妓幾松(いくまつ)として知られる、幕末の維新三傑・桂小五郎(後の木戸孝允)の恋人。明治維新後、正妻となり「木戸松子」となる。幼少時の名は(かず)もしくは計子(かずこ)、号は翠香院(すいこういん)。

目次

[編集] 生涯

木戸松子の生い立ち、幼少期、芸妓時代に関しては諸説ある。

[編集] 生い立ち

父は若狭小浜藩木崎(生咲)市兵衛(きざき いちべえ)、母は三方郡神子浦の医師細川益庵(太仲)(ほそかわ えきあん)の娘・末子(すみ)[1]。 兄弟姉妹に関する記述は、

  • 男4人に女3人の次女
  • 男4人女2人の長女
  • 姉1人弟1人の長女

など諸説があるが、『木戸日記』に基づき、弟1人(政太郎)姉1人とみるのが最も有力であると思われる。

父・木崎市兵衛は、若狭小浜藩主酒井忠義に仕える。元来弓師の浅沼忠左衛門の次男であったが、木崎家の養子となった。町奉行の祐筆であったが、藩内の事件から罪を引き閉門を申しつけられる。その後、妻子を残し京都へ出奔。母・末子は子供を連れ実家の細川家に戻ったため、神子浦で幼少期計約5年間を過ごす。

その後、嘉永4年(1851年)あるいは同5年(1852年)、若狭小浜から上洛する。これにも、

  • 父出奔後、父らしき人を京で見かけたと伝え聞いた母が子供達を連れて共に京都へ向かった。
  • 出奔した父を追って母が先に他の兄弟姉妹を連れて京都へ向かい、暫く母方実家細川の家に預けられていた計が両親の後を追い、行商人に助けられ京都へ向かった。
  • 両親の後を追い、兄弟と共に向かった。

という諸説がある。

その後の父の消息にも、

  • 嘉永4年(1851年)に他界し、その後母は京都御幸町松原下るの提灯屋に嫁いだ。
  • 父は他界しておらず家族と共に暮らした。

との説がある。『木戸文書』によると後に土手町別邸に留守居役として父、母、姉、弟が同居している。その記述の父が実父であるか義父であるかは定かではない。

[編集] 三本木芸妓時代

一条家諸大夫の次男難波常二郎(恒次郎)[2][3]の養女となる。難波の妻は元々三本木の芸妓であり、初代「幾松」を名乗っていた。

安政3年(1856年)、14歳[4]で三本木「吉田屋」[5]から舞妓に出た。美しく利発で、芸事にも秀でた計は二代目「幾松」を襲名することとなり、瞬く間に有名な芸妓へと成長していった。幾松は笛と踊りを得意としたと伝えられる。

幾松の在籍した置屋は「瀧中」といい、後に「瀧中」は木戸所有となっている。土手町留守居役の木崎家は、月々木戸より送金される6両と三本木からの家賃収入でやりくりをしている。彼女の養父であった難波常二郎は、主に木屋町別邸のやりくりを任されており、その他京都での木戸の周りの様々な雑用を引き受けている。

[編集] 桂小五郎との出会い

文久元年(1861年)から同2年(1862年)にかけて桂小五郎と出会ったと推測される[要出典]。以後、桂が命の危険に晒されていた最も困難な時代に彼を庇護し、必死に支えつづけた。

元治元年(1864年)6月、池田屋事件が起こる。続いて起こる禁門の変以降、長州藩が朝敵とされ、桂は幕府に追われる身となる。二条大橋周辺に乞食の姿となって隠れ潜んでいた桂に、幾松はよく握り飯を持っていったと言う逸話はその頃の事であると考えられる。但し、実際に潜んでいたのは5日ばかりと伝えられる。また、新撰組局長近藤勇に連行され、桂の居場所を聞かれたこともあったと伝えられている。

桂は、その元治元年(1864年)8月から慶応元年(1865年)4月にかけての間、商人・廣戸家の援助を受けながら出石に潜伏する。名前を廣江孝助と変え、ある時は荒物屋主人、ある時は寺男となり、転々と名所を変えながら潜伏し続けた。この潜伏中、幾松がある会津人に侵されかけた[6]ことがあり、その際三味線を折って投げつけ対馬藩邸に助けを求めたという伊藤博文の直話が残っている。

桂が逃れた後、幾松は長府藩奥善五六郎と、京師東山の割烹店のあるじ曙久斎の三名で対馬藩濱屋敷に匿われていたが、次第に幕府の探索が厳しくなってきたため、対馬藩士多田荘蔵が大坂より下関馬関へと逃した。出石ではなく馬関へと向かわせたのは、幾松の身の危険を案じての事と思われる。

その後、出石潜伏中の桂を迎えに行ったのも幾松である。

[編集] 日本最初の「新婚旅行」

この出石からへ帰国する際に城崎温泉などに立ち寄るが、その時の旅行が日本最初の新婚旅行とも言われている[要出典](慶応元年(1865年)4月8日出石発~同4月26日馬関着)。坂本龍馬の新婚旅行の話は有名であるが、これは慶応2年(1866年)なので、こちらの新婚旅行の方が1年早いといわれる。

いずれにしても現在の新婚旅行とは異なり、常に反勢力より命を狙われている立場にあり、またいずれの場合も正式に婚姻はしていない。

[編集] 明治維新後

二人の新婚生活は木戸の実家のある現在の山口県糸米で過ごされたと解釈されている[要出典]。明治元年の頃から友人達と婚姻の方法について相談をしているやりとりが、木戸文書の中から読み取れる。

二人が正式に婚姻したのは、明治3年(1870年)に木戸が参議になってからという説が有力である[要出典]。幾松は長州藩士岡部富太郎[7]の養女となり、木戸と婚姻、正式に「木戸松子」と名乗る。身分差を超えた初めての正式な婚姻であったと言われる。

[編集] 晩年

明治10年(1877年)5月6日、木戸孝允危篤の報を聞き、松子は東京を出発、馬車を乗り継ぎ10日には京都へ到着。京都土手町の別邸(現在・京都市職員会館かもがわ 現住所:京都市中京区土手町夷川上る末丸町284番地)で日夜熱心な看病を続けた。5月26日、木戸は原因不明の脳病の発作及び胃病の為病死。その後、松子は薙髪し「翠香院」と号し京都木屋町へ転居。二人の想い出深い京都にて木戸の墓を護った。

[編集] 死去

木戸松子の墓、霊山護国神社、京都市東山区

明治19年(1886年)4月10日午前4時、上京31組上樵木町(現住所:京都市中京区木屋町通御池付近)18番地の寄留所[8]にて、胃病により病死。享年44。

明治19年4月13日、木屋町宅より出棺される。出棺ルートは木屋町宅→南三條→東縄手→南祇園町→東八軒→南禅寺道を東へ下川原より高臺寺霊山へ至る。葬儀喪主は侯爵木戸孝正(夫・孝允の甥で養子)。宗派は本派本願寺派。会葬者は長州出身の紳士、京都裁判所の官吏等の1,000余人。

現在は洛東霊山墓地の夫・木戸孝允の墓の北隣に眠る。法名は翠香院釈貞秀大姉。

[編集] 翠香院墓誌

「君名松子京都人也為人貞順婉淑文久慶応之際与贈正二位木戸孝允鞅掌知其為人可潔相結託扶之於流離難中終為配 後禍乱戡定立廟堂参与枢機者君貞烈之徳為之補翼居多焉 及公薨薙髪法諱称翠香院寡居木屋町別邸奉仕公廟十年如一日 明治十九年二月罹胃病四月十日終不起享年四十四嵯呼哀哉」

[編集] 補注

  1. ^ 書籍により「幾松は洛北賀茂村の住人の娘やすの娘「幸(ゆき)」である」というものまであるが、若狭出身であると考えるのが妥当である
  2. ^ 難波家は木戸文書によれば九条家諸大夫とされているが、地下家伝をはじめとする諸記録では一条家諸大夫とされており、こちらが正しいと思われる。
  3. ^ また、別の説では摂家諸大夫ではなく、夷川富小路西入るの箱職・難波越後との説もある。
  4. ^ 幕末維新研究家の長屋芳恵の著述では9歳の頃という説もある。
  5. ^ 通説では、吉田屋の推移は、吉田屋→清輝楼→大和屋と伝えられているが、当時の新聞や、仙台藩士の回想録、昭和の初めまで存命した三本木芸妓の証言、三本木の土地所有者の変遷などで考証すると、吉田屋→月波楼であると考えるのが妥当である。吉田屋が月波楼の店であった可能性もある。しかし、現在の通説であるように吉田屋が後の清輝楼であると仮定すると、その場所自体が北に数十メートル移動していることとなる。何故か元々京都市が建てていた駒札は現在は撤去されている。
  6. ^ 前記述文に「犯」では無く、「侵」の文字を敢えて使用している理由は、決して誤字ではなく伊藤博文の直話内の文字を忠実に表現したものである。二つの文字の持つ異なる意味合いを含んだものであるという事をここに追記しておきたい。
  7. ^ 岡部富太郎は長州藩士であり、松下村塾生。木戸孝允の妹・来原治子の義姉である阿喜久の父である。
  8. ^ 18番地の寄留所については現在特定されていないが、「木戸翠香院の葬送」を伝える明治19年4月14日水曜日日出新聞で「上來三十一組上樵木町十八番地の寄留所にて療養せられしが去る十一日午前四時遂に死去され」と報じられている。
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