戦列歩兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
イギリス軍の戦列歩兵: 18世紀

戦列歩兵(せんれつほへい、英語: Line Infantry, フランス語: Infanterie de ligne)とは、17~19世紀の欧州の野戦軍で主流となった歩兵の運用形態のひとつである。

同様の兵科は欧州各国のみならず、中国、インド(セポイ)、新大陸(大陸軍)など、世界中で組織された。

歴史[編集]

戦列歩兵は、古代から存在した密集陣形を組んで運用される重装歩兵の系譜に連なる兵科であり、野戦軍の中核をなした兵科だった。

18世紀頃には擲弾兵(Grenadier)と呼ばれた、擲弾(手榴弾)を敵陣に投げ込む歩兵が欧州軍に存在したが、時代を経るに従って擲弾による戦闘は廃れると、戦場における機能は戦列歩兵とほぼ同じとなり、体格や武勇に優れた兵士を選抜した部隊として、社会的ステータスが若干上という扱いで、名称のみが残された。

野戦における戦列歩兵は、散兵として運用される軽歩兵猟兵騎兵砲兵といった各兵科のサポートを受けつつ、敵の主力を同じく構成している戦列歩兵を撃破する事を主な役割としていた。

米国独立戦争鎮圧に従事したヘシアン(ドイツ人傭兵)

戦列歩兵は、Musketeerという名の通りの銃隊であり、槍にかわってマスケット銃銃剣が歩兵の主装備となって職業軍人の優位が消滅した三十年戦争の頃から各国軍で一般的に編成されるようになった。傭兵として長い歴史のあるスイス傭兵や、ヘシアン [1]のような公募された傭兵(多くの場合、多額の債務を負った者や犯罪者によって構成されていた)や、徴兵された一般人を、少数の専門家による比較的短い期間の訓練によって大量に戦力として養成できる利点から、広く世界中で採用される歩兵運用方式となった。

19世紀の中頃に銃砲が飛躍的に発達してミニエー式小銃と近代的な後装式の砲が出現すると、戦列歩兵の密集陣形と派手な威嚇色を使った軍服[2]は遠距離からの射撃の良い的となって死傷者が激増したため、歩兵の運用は密集を避けて周囲の環境に隠れながら行動できる散兵による浸透戦術が中心となり、戦列歩兵は急速に戦場から姿を消して行った。

戦列歩兵の消滅以降も、駐退機の開発による火砲の連射速度向上と近代爆薬の出現による榴弾の威力の驚異的向上、機関銃鉄条網の登場により、野戦における歩兵の死傷率はさらに増加し、兵士が戦闘時に着用する軍服は目立ち難い暗色系や保護色へと変化して行き、最終的に現在のような迷彩服に至っている。

運用[編集]

戦列歩兵は士官の発する簡単な号令や太鼓による指示に従って行動し、その移動は徒歩であり、横隊の全員がほぼ同じ程度の歩幅(75cm前後)になるよう身長の基準が設けられ、一分間の歩数は70~90歩(約60m/分)が基準の歩行速度とされていた。これに太鼓による指示が与えられる事で速度が調整された。

プロシア軍の戦列歩兵(擲弾兵): 先頭を大股で歩く人物が下士官であり、馬上から指示を出す上級士官の命令に従い、敵弾に倒れた同僚の屍を踏み越えて兵士達は前進しなければならなかった

兵士達は迅速に各種の密集陣形を組めるよう日常的に訓練され、敵兵を威圧するために威圧色と呼ばれる派手な色彩の制服を着用した。 マスケット銃[3]と銃剣、自衛用の剣が主装備だった戦列歩兵(参照:ヘシアンの装備例)は、攻撃時には右の絵のように単純な3列の横隊で運用 [4] される事がほとんどで、防御時には横隊を組み替えて方陣を組む事が出来れば充分なレベルであり、その基本的な運用は以下のようなものだった。

1. 兵士達は号令に従ってマスケット銃に装填する

2. 陣形を維持したまま行進して敵陣へ接近する

3. 敵陣との距離が100mほどになった時点で、行進の速度を緩める

4. 敵陣から50mほどになった地点で停止する

5. 号令に従ってマスケット銃を敵陣に向ける

6. 列ごとに敵陣に向けて一斉射撃、再装填、再び一斉射撃 (繰り返し)

7. 敵陣が充分に混乱して陣形が乱れ始めたら、号令に従って銃剣を装着する

8. 号令に従って敵陣に突撃する

9. 敵兵に接触したら首尾よく突き殺す

当時の戦闘では、交戦中に陣形を維持できなくなった時点で、組織的な戦闘が不可能になったと判断され、崩壊した陣を指揮する士官はその時点で降伏する事が多かったため、攻守ともに相手の陣形を崩壊させる事が戦闘の主目的となった。

敵陣への攻撃は戦列歩兵による一斉射撃と着剣突撃の他に、刀・槍を持った騎兵の突入、砲兵による榴弾霞弾(砲から発射される散弾)・砲弾を地表でバウンドさせる攻撃、などといった手法が取られた。

戦列歩兵達に求められたのは、こうした正面攻撃の恐怖に打ち克って陣形を維持する事と、指揮官の命令に絶対服従する事であり、戦闘中に勝手に発砲したり、陣形を乱した者は監督者である士官から懲罰を加えられ、逃亡を図った者はサーベルで斬殺された。

日本における導入[編集]

戦国時代の鉄砲足軽: 長篠合戦図屏風より

日本では戦国時代末期に鉄砲足軽を主力とする戦列歩兵に似た兵科が世界に先掛けて存在していた。しかし、日本に渡来した火縄銃は当時の欧州で製造されていた物とは異なり、インド・東南アジアで改良された派生品であり、狙撃に適した瞬発式であったため、既存の弓術との相似性から狙撃の技を究める独自の鉄砲術が確立されて行き、鉄砲足軽も各々の武功を競い合う小集団の集合体であった事から、鉄砲足軽は戦列歩兵と本質的に異なる存在だったと現在では考えられている。農民・浪人・キリスト教・鉄砲が結合して強力な反乱に成長した島原の乱以降、徳川幕府の国内安定化政策の下で足軽の多くは帰農させられ、武士階級を意図的に銃砲から乖離させる政策がとられたため、鉄砲足軽の運用手法は形骸化した兵学としてのみ伝承され、江戸時代中期には事実上絶滅してしまう。

日本への西洋式の戦列歩兵の導入は、江戸時代後期に行われた。列強諸国との軍事的トラブルが増えはじめた江戸時代後期になると、列強との火砲の性能・運用の差を知った高島秋帆によって戦列歩兵を含むオランダ式軍制の導入が試みられ、1834年には長崎警護の任にありフェートン号事件を経験していた佐賀藩がこれを導入した。 [5]


大坂城内で撮影された“フランス式日本軍歩兵部隊の訓練風景”と題された写真: 1868年 [6]
鳥羽・伏見の戦いでの戦闘を描いた絵。伏見戦線での高瀬川付近での交戦の場面で、右側は長州藩土佐藩の兵。左側は旧幕府方で、射撃動作をする幕府陸軍歩兵のほか、和装と槍で突撃する「桑名藩兵」などが描かれている。左奥の集団も「桑名兵」とある。
フランス軍装の徳川慶喜

アヘン戦争での清国敗北の情報を得ていた徳川幕府も、1841年に武州徳丸ヶ原(現・東京都板橋区高島平)で秋帆による洋式軍制の公開演習を行わせるなどした結果、諸藩でも広く導入が検討されるようになったが、秋帆が謀反の疑いで投獄されるなどの曲折[7]を経て1862年になってようやく洋式軍制の幕府陸軍が発足したが、佐賀藩が高島秋帆の指導下で洋式軍制を導入してから約30年も後の事であり、この間に佐賀藩・薩摩藩・宇和島藩といった諸藩は初歩的な工業を有する先進的な軍事力を築き、旧態依然とした幕府との実力差は歴然としたものとなっていた。

幕府にとって運の悪い事に、この時期は火器の飛躍的発展期と重なったため、1862年発足の幕府陸軍とこれを参考とした諸藩が導入した従来のマスケット銃(日本ではゲベール銃と呼ばれた)主体の戦列歩兵方式による密集隊形での歩兵運用は、発足の時点で既に時代遅れの存在となっており、第二次長州征伐に参戦した幕府陸軍と諸藩兵は、下関戦争での惨敗から大村益次郎指導下で独自の軍制改革を実行し、長射程・高命中精度のミニエー銃(長州藩は薩長同盟により薩摩藩を経由して英国のグラバー商会からエンフィールド銃を購入していた)を装備し、散兵中心の歩兵運用をオランダ・フランス軍制の文献分析を通じて構築していた長州諸隊に惨敗を喫した。 [8]

この大敗を受けて、1866年には徳川慶喜の下で大規模なフランス式軍制への変更が実施され、幕府陸軍における戦列歩兵の運用は僅か4年で終了したが、軍事技術の多くを幕府経由で得ていた諸藩にとっては、戊辰戦争の終結まで“正当な”洋式軍制として運用され続けたため、進化した軍制・装備を有し一方的な優位を得た新政府軍に対して、これら諸藩は敗北を重ねる結果となった。

明治維新により、新制幕府陸軍と西南雄藩の混成軍だった新政府軍は統合されて日本陸軍となり、1872年になって1869年版フランス式歩兵操典が導入され、本格的な近代軍の運用が開始された。

しかし、1870年の普仏戦争でのフランス軍の敗北[9]と、フランス式陸軍の最高位にあった西郷隆盛が起した1877年の西南戦争と翌1878年の竹橋事件の影響から、フランスを導入すべき国家モデルの中心的存在とする日本政府の方針が揺らぎ、欧州で急速に台頭しつつあったプロイセンの国家モデルへの関心が高まって行く過程で、1891年にプロイセン式歩兵操典が改めて日本陸軍に導入され、以降は大日本帝国陸軍の終焉までドイツ式の歩兵運用方式が継承された。

戦列歩兵の登場する作品[編集]

映画

脚注[編集]

  1. ^ 「ヘシアン」(Hessian)はヘッセン大公国出身のドイツ人傭兵達で、アメリカ独立戦争に際してイギリスが鎮圧のために送った兵力のうち3万人にも上る大勢力だった。彼らは新大陸に移民していたドイツ系入植者達とも戦火を交える事になったが、うち5,500人ほどは独立後も新大陸に留まり米国人となった。ちなみに米国の妖怪伝説として有名なスリーピー・ホロウ(首なし騎士)の話は、この時期のドイツ人傭兵の話が元になっている。
  2. ^ 著名なスタンダールの『赤と黒』は、当時の軍服の色である赤と僧衣の色である黒を、その両者を栄達の手段として捉える青年の行動を通じて、当時の世相を描いた小説のタイトルとした作品である。
  3. ^ 19世紀初頭までイギリス軍で使用され、戦列歩兵の標準装備だった“Brown Bessマスケット銃”(銃身長:106cm・滑腔式)の有効射程は100ヤード(91m)に過ぎなかった。

    実際にBrown Bessマスケット銃を使用して行ったテストでは、密集した歩兵集団に見立てた50ヤード(45m)×6フィート/182cm高の布標的に対する100ヤードからの立射での命中率は50~75%に過ぎず、ベンチレストからの集弾は50ヤード/45mの距離で5インチ/13cmという結果が出ている。

  4. ^ 18世紀のマスケット銃に使われた燧石式発火装置は、不発の発生率が高く、素早い装填時間を加味しても充分な弾幕を形成するためには3列横隊の順次発砲が必要だった。これが雷管式に替わると不発率は低下し、再装填の速度が更に向上したため、2列の横隊が主流となった。

    しかし、雷管が使用された当初は、ニップルからの発射時の吹き戻しで雷管が破れて射手の顔面や眼に突き刺さる事故が多発し、当時の野戦外科のテキストには雷管の破片による眼の負傷への対処法に多くのページが割かれていた。

    マスケット銃の発火装置は火縄式燧石式雷管式と進歩して来たが、戦列歩兵が欧州の各国軍で主力となった18世紀に広く利用されていたのは燧石式だった。

    燧石式は裸火を露出させて使用する火縄式よりも密集陣形で利用するのに適していたが、発火させる際の強い打撃のため命中精度が犠牲にされ、このために欧州では戦列歩兵の一斉射撃により構成される弾幕で敵陣を崩す運用が一般的となった。

  5. ^ 当時の日本では足軽の大集団が既に消滅していたため、帯刀する事がステータスである武士達が戦列歩兵として訓練に参加していた。

    参加した武士達の間では、戦場での帯刀を不要とする銃剣の評判が非常に悪かったと伝えられている。

    当時の日本人の帯刀への拘りと憧れは強く、武士階級以外の人々が多く参加した長州の諸隊においてすら多くの銃隊兵士が帯刀して参戦しており、倒した相手の首級を挙げる事に執心する兵が多く、軍監だった大村益次郎が“首取り禁止”を通達するほどだった。

    戦国時代から一般兵士の主装備は槍であり、その延長にある銃剣の方が刀よりも有効に敵を倒せる事は明白だったが、やはり文化的な背景を有する刀への思い入れは、日本人の多くが共有していた感情であり、第二次大戦の戦場でも多くの日本兵が精神的な支えとして軍刀を手に戦う事を希望した。

  6. ^ 徳川慶喜は将軍就任以前の1863年から京都・大阪で政務に当たっており、江戸の将軍家よりも積極的な軍事行動を取っていた。フランスとの密接な関係を利用して軍制改革に取り組んでいた事が伺える(この時期新撰組までがフランス式調練を導入している)。
  7. ^ 公開演習の成功で幕府から重用されるようになった高島秋帆だったが、これを妬んだ鳥居耀蔵(洋学者を嫌い蛮社の獄も引き起こし『妖怪』と呼ばれた)が“謀反を企んでいる”と讒訴した事で1842年に投獄され、1853年のペリー来航によって赦され、再度幕府の講武所に登用された。

    しかし、鳥居耀蔵と同類の井伊直弼が大老に就任すると再び洋式軍制の導入は頓挫し、桜田門外の変で井伊大老が首を取られた(襲撃した脱藩者達が属していた水戸・薩摩の両藩は積極国防派の代表格であり、藩内で洋式軍制の調練や兵器の製造を行っていて、襲撃に使用された回転式拳銃も水戸藩が製造したものだった)後の1862年になってようやく幕府陸軍の発足にこぎつけたが、高島秋帆は明治の夜明けを見る事なく1866年に死去した。

    一方の鳥居耀蔵も政争に敗れて1845年から1868年まで投獄されていたが、明治となって赦免され1873年まで生きた。鳥居耀蔵は、自らが葬ろうと画策した洋式軍隊がもてはやされるのを苦々しく思っていた事が、自作の漢詩の内容によって知られている

  8. ^ ミニエー銃を装備した軍隊とマスケット(当時の日本ではゲベール銃と呼んだ)を装備した軍隊が交戦した場合、マスケット側は有効射程の100ヤード(しかも命中率は50%)まで接近するために最大で900ヤードに渡る死のロードを、友軍の屍を乗り越えつつひたすら進まねばならなかった。

    これを第二次長州征伐での交戦者双方に当て嵌めてみると、戦列歩兵として訓練された幕府陸軍の前進速度は60m/分であり、900ヤード(約800m)を進むためには13分以上かかる。

    この13分の間に、エンフィールド銃は30~40回の射撃が可能であるため、仮に1,000人の幕府陸軍を相手にする場合でも、長州諸隊は最小の場合たった25人の小部隊で、しかも自分達は無傷のままで相手を全滅させてしまう事ができた。

    勿論、幕府陸軍は砲も有していたが、連続発射速度の遅い前装砲が歩兵部隊に対して有効なのは、相手が密集して進んでくる戦列歩兵のような相手の場合であり、散兵として分散して展開している相手に対しては、榴弾(まだ近代爆薬の存在しない黒色火薬の時代である)を用いてもあまり効果は無く、逆に前装砲と同程度の最大射程を有するミニエー銃に射撃され、貴重な軍事技術者である砲兵を危険に晒すのを忌避して砲は前面から撤収されてしまった。

    尚、この戦いに際して長州諸隊は、幕府軍が遺棄して行ったマスケット(ゲベール)銃を役立たずの代物として、そのまま放置して引き揚げており、両者の性能差は長州諸隊の間で広く認識されていた。

  9. ^ プロイセン軍よりも装備や戦術で勝っていたフランス軍の敗因は、周到な戦争準備を進めていたプロイセンへの警戒を怠り、ビスマルクの罠にはまったナポレオン3世の戦略眼の無さと、大陸軍を擁する自国の軍事力への過信にあった。

参考文献[編集]

  • 『戦闘技術の歴史3 近世編』(創元社)(2010年)