大韓航空機銃撃事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
大韓航空 902便
Korean Air Lines Boeing 707 Fitzgerald.jpg
大韓航空のボーイング707型機(同型機)
概要
日付 1978年4月20日
原因 コンパスの故障が原因とされる領空侵犯
場所 Flag of the Soviet Union.svgコラ半島上空
死者 2
負傷者 13
航空機
機体 ボーイング707-321B
運用者 Flag of South Korea.svg大韓航空
機体記号 HL7429
乗客数 108
乗員数 5
生存者 111
テンプレートを表示
902便の当初予定された飛行経路(青)と予想される飛行経路(赤)
ソ連防空軍のSu-15TM(同型機)

大韓航空機銃撃事件(だいかんこうくうじゅうげきじけん)は、1978年4月20日韓国大韓航空機が誤ってソ連領空を侵犯したため、ソ連防空軍機の攻撃を受けた事件である。事故機は不時着には成功したが、乗客のうち15人が死傷した。

事故機が不時着した地から「ムルマンスク事件」と呼ばれることもある[1]。なお、「銃撃事件」と呼ばれるが、実際は銃撃ではなく、空対空ミサイル攻撃である。

経緯[編集]

出発[編集]

1978年4月20日、大韓航空902便(機体記号 HL7429、ボーイング707-321B、金楊圭機長、乗客乗員113名)は、フランスパリオルリー空港を離陸し、経由地であるアメリカアンカレッジ)を経てソウルに向かう北周り定期便であった。

領空侵犯[編集]

パリからアンカレジにかけては北極圏を経由することになっていたが、902便の使用機材であるボーイング707-321Bには、極地飛行における航法装置として有効で当時新鋭機を中心に導入が進んでいた慣性航法装置 (INS) が装備されておらず、磁針方位計も極地のため使用できず、北極圏でソ連領土にも近く地上航法施設も少なかったため、李根植航空士航空機関士ではなく、太陽恒星の位置から航路を観測する運航乗務員)により旧来行われていた、太陽の位置で方位を決定する天測航法で飛行していた。

902便はアイスランド上空で、大気が不安定になるトラブルに遭遇し地上との交信ができなくなり、さらにコンパスが故障した上に、航空士が誤った針路を指示した結果、グリーンランド手前から航路を逸脱、4時間後にソ連領空へ侵入した。

攻撃[編集]

ソ連防空軍機に攻撃される902便(想像図)

機長は太陽の位置がおかしいことに気づいたが、そのとき902便はすでにソ連を領空侵犯し、ソ連の北方艦隊が駐留しているコラ半島上空を南に(つまり内陸に向かって)飛行していた。このため、ソ連防空軍のスホーイSu-15迎撃戦闘機2機に迎撃され、威嚇射撃を受けた。

戦闘機の接近に気付いた902便は、威嚇射撃を受けた際に「戦闘機との交信をしようとしたが出来なかった」と主張したが、ソ連側は反対に「交信が無視された」と主張した。どちらにせよ、902便はその後も南に向かって飛行を続けた。

威嚇射撃を行った直後に、スホーイSu-15から発射された赤外線誘導式R-98Tミサイル1発が、902便の左翼外側エンジン付近に命中し、主翼先端が吹き飛ばされた。同時に飛散した破片によって客室の一部も破壊され、エコノミークラスに搭乗していた日本人と韓国人の乗客2名が死亡し、13名が重傷を負った。また、本体から主翼先端が分離する様子は地上レーダーにも捉えられており、ミサイル発射と勘違いされている。幸運にも機体のダメージが軽かったため、当初はミサイル攻撃ではなく機関砲攻撃だと言われ、それが「銃撃事件」と言う名前の由来でもある。

不時着[編集]

攻撃を受けた902便は、客室が破壊され与圧が失われつつあったこともあり、巡航高度の3万5000フィートから5000フィートまで急降下した。しかし、機体の制御がまだ可能だったために、不時着できそうな場所を探す戦闘機の誘導のもとに2時間ほど飛行した。しかしこの時に客室乗務員より、「(アラスカの)アンカレッジの近くです」というアナウンスがあったと言われ、運航乗務員から客室乗務員には状況が伝わっていなかった、もしくは運航乗務員も状況を把握していなかった可能性がある。

現地時間の午後6時45分に、ムルマンスク郊外のケミ市にある凍結したイマンダラ湖に不時着(胴体着陸)した。幸いにも右翼が木に激突する寸前で止まったために不時着の際に火災などは発生しなかった[2]。胴体着陸後一旦は機外へ脱出するために機首及び後部の脱出シュートが展開されたものの、電源が停止し、寒さから身を守るために乗客乗員は機内に留まり続けた。

その後[編集]

不時着から約2時間後に現地当局及びソ連軍が現場に到着し、乗客乗員はヘリコプター装甲車で地元の政府施設に収容され、けが人は即座に病院に収容された。なお、乗客乗員に対する待遇は悪くなく、即座に温かい食事が用意され、時間つぶしのために映画の上映まで行われた。

当時、韓国とソ連との間に国交がなかったことから、韓国政府の代理として事件機体の製造国アメリカが間に立ち、ソ連との協議により23日に金機長と李航法士以外は解放されフィンランドヘルシンキモスクワ経由で帰国の途についた。金機長と李航法士は取り調べのためにレニングラードに移送された後、ソ連共産党書記長へ向けた領空侵犯に対する謝罪文に署名させられた上で、1週間後に解放された。

影響[編集]

1983年に起きた大韓航空機撃墜事件では、当初はこの事件の例から、ソ連はサハリンへ強制着陸させようとしたのではないかとの憶測があった。1991年になり、ソ連軍戦闘機のパイロットが「即座に撃墜せよ」との命令に背いて威嚇銃撃をしていたことが判明した。そのため当時のソ連国防当局は、侵犯機が軍用機または旅客機のいずれなのか区別が付かない状態で撃墜を指示する、国際慣習を無視した対応を現場に指示していたことが明らかになった。

事故原因[編集]

事件後の大韓航空の公式発表では「コンパスが故障した」ことが航路逸脱の原因とされている。しかし、コンパス以外の計器で現在地を確認することが可能な上、航法士が乗務していたこともあり、単なる計器故障で航路逸脱する可能性は低いとの指摘がある。そのため、パイロットや航空機関士、航法士らの運航乗務員の注意力が散漫で針路を誤った職務怠慢説が有力である。また事件直後は、冷戦下であることもあり大韓航空機がスパイ活動のために領空侵犯したのではないかとの指摘もあった。

しかし、事件後に機体を調べた上に運航乗務員を取り調べたソ連当局は、大韓航空機がスパイ活動を行ったと認識していない上に、多数の乗客が搭乗している定期便旅客機でスパイ活動をする理由もない(乗客が搭乗していない貨物定期便で行った方が機内スペースを有効に使える上に、情報漏洩の可能性も減る)ことから、スパイ活動説を唱える者はその後いなくなった。また、事件後韓国国内で運航乗務員の飲酒疑惑が取りざたされた上に、不時着後に日本人乗客が客室乗務員から「ごめんなさい、カード(ゲーム)をしていました」という謝罪を受けたという証言がある[3]こともあり、職務怠慢説が有力となっている。

機体[編集]

事故機は1967年に製造され、パンアメリカン航空にN428PAとして納入された。事件前年の1977年大韓航空にリースされた。事件後ソ連当局に押収された後に解体された。

脚注[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]