ヴラジーミル・モノマフ (装甲巡洋艦)

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Vladimir Monomakh cruiser 01.jpg
艦歴
起工 1881年2月10日 バルト工場
進水 1882年10月10日
就役 1883年7月1日
戦没 1905年5月15日
除籍 1905年5月19日
性能諸元
排水量 設計時:5,593トン
常備:5,683トン
全長 90.3m
全幅 15.83m
吃水 8m
機関 ベルヴィール式石炭専焼水管缶28基
+直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸推進
出力 10,000hp(設計)
速力 15.2ノット(設計)
燃料 687トン(常備)
1,135トン(満載)
航続距離
乗員 560名
兵装 203mm砲4基
152mm単装砲6基
ほか
装甲 あり

「ヴラジーミル・モノマフ」ロシア語: «Влади́міръ Монома́хъ»)は、ロシア帝国が建造・保有した装甲巡洋艦броненосный крейсеръ)である。ロシア帝国海軍では当初は半装甲フリゲートполуброненосный фрегатъ)、1892年2月1日からは1等巡洋艦крейсеръ I-ранга)に分類した。艦名は、キエフ・ルーシヴラジーミル・モノマフ大公に由来する。

19世紀、ロシア帝国が外洋進出を目指した時期に主力艦として整備された「大洋巡洋艦」(«Океанскій крейсеръ»)の 1 隻で、その時代には地中海ならびに太平洋方面のロシア艦隊の中核的役割を担う軍艦のひとつであった。日露戦争中には第3太平洋艦隊に編入され、その後第2太平洋艦隊ロシア語版の巡洋艦支隊に加わってウラジオストクに向かったが、その途上の日本海海戦で戦闘のすえ自沈した。

概要[編集]

「ヴラジーミル・モノマフ」は、「ドミートリー・ドンスコイ」級の 2 番艦として設計された。この艦級は、「ヴラジーミル・モノマフ」の建造がネームシップの「ドミートリー・ドンスコイ」より先になったため、しばしば「ヴラジーミル・モノマフ」級とも呼ばれる。建造当時、ロシア帝国海軍にはこのクラスの艦船に適した艦種の候補に「フリゲート」と「巡洋艦」という正式分類があったが、「ヴラジーミル・モノマフ」は姉妹艦とともに前者へ分類された。設計上の特徴から、「半装甲フリゲート」とも呼ばれた。1892年2月1日付けで帆船時代からの分類法が改定されると、「ヴラジーミル・モノマフ」はほかのすべての大洋巡洋艦とともに、新設された1等巡洋艦を構成した。

その全盛時代にはバルト艦隊地中海艦隊バルト艦隊太平洋艦隊の中心的存在として、バルト海から太平洋までの広い海域を行き来した。関与した最も大きな歴史的事件は、1895年三国干渉1897年ウラジオストク開設、そして1900年義和団の乱である。

ロシア帝国海軍が艦隊主力を艦隊装甲艦とする方針転換をすると、1901年12月に本国へ引き揚げた。巡洋艦としての役目も、次世代の1等巡洋艦に譲った。20世紀初頭には、専ら練習艦隊で士官候補生水兵の養成に貢献した。

1903年から1904年にかけて、練習艦への改修工事が行われており、第2太平洋艦隊への編入は見送られた。しかし第3太平洋艦隊としての増派が決定し、工事が完了しないうちに前線への復帰が命ぜられた。工事は最低限のもので終えられ、スエズ運河経由で極東へ向かった。第2太平洋艦隊に合流後は巡洋艦支隊に編入された。

1905年5月14日ユリウス暦)には、V・A・ポポーフロシア語版1等佐官の指揮の下、艦隊を追尾してきた日本海軍の巡洋艦「和泉」に対し激しい砲撃を加えた。「ヴラジーミル・モノマフ」の報告によればこの戦闘で「和泉」に損害を与え、自艦は無傷のまま戦闘を終了した[1]。ただし「和泉」側の報告ではこの戦闘においての損害は記録されていない。主力決戦と平行して行われた日本の巡洋艦隊との戦闘では16時に重量砲弾を受け、火災を生じた。夜間戦闘ではみたび敵の水雷艇の攻撃を撃退したものの、21時にはついに船首第2石炭庫に魚雷が命中した。老朽化していた水密隔壁は海水の流入に耐え切れず、崩壊した。これによって両ボイラー室と右舷機関室が浸水し、排水ポンプへの電気供給が止まって排水ができなくなった。ポポーフ艦長は艦を座礁させるために朝鮮半島沿岸まで航行させようとしたが対馬まで辿り着くのがやっとであった。そこで、日本海軍の駆逐艦不知火」と仮装巡洋艦佐渡丸」からの攻撃を受けた。「ヴラジーミル・モノマフ」の傾斜は 18 度に達し、反撃に使用できる武器は 75 mm 砲しか残っていなかった。「ヴラジーミル・モノマフ」が絶望的状況にあるのを見て、日本艦隊は自ら砲撃を中止した。

1905年5月15日午前10時20分、「ヴラジーミル・モノマフ」はキングストン弁を開き、急速に沈没した。乗員は、「佐渡丸」と「満州丸」に救助された。

1905年9月19日、「ヴラジーミル・モノマフ」は海軍から除籍された。

出典[編集]

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参考文献[編集]