プビリウス・テレンティウス・アフェル

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プビリウス・
テレンティウス・アフェル
Terenz2.gif
誕生 紀元前195年/紀元前185年
死没 紀元前159年
国籍 共和制ローマ
ジャンル 喜劇
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プビリウス・テレンティウス・アフェルPublius Terentius Afer, 英語Terence, 紀元前195年/紀元前185年 - 紀元前159年)は共和制ローマ劇作家。テレンティウスの喜劇が最初に上演されたのは紀元前170年から紀元前160年頃である。若くして亡くなったが、その場所はおそらくギリシャ、もしくはローマへ戻る途上だろうと言われている。

テレンティウスは、元老院議員テレンティウス・ルカヌスによって奴隷としてローマに連れてこられた。ルカヌスはテレンティウスに教育を施し、その才能に感心して後には奴隷から解放した。「テレンティウス」というノーメン(氏族名。古代ローマの人名参照)は、テレンティウス・ルカヌスからつけられたものである。テレンティウスの書いた6つの戯曲はすべて現存している。

生涯[編集]

テレンティオウスの生年月日については諸説がある。アエリアス・ドナトゥスen:Aelius Donatus)は未完の『Commentum Terenti(テレンティウス注釈)』の中で、テレンティウスの生年を紀元前185年としている[1]。一方、フェネステラ(en:Fenestella)はそれより10年早い紀元前195年だと主張している[2]

テレンティウスの生地はカルタゴか、あるいは生まれはギリシア・イタリアで、奴隷としてカルタゴに連れて行かれたのだと思われる。いずれにしても、テレンティウスの第三名「アフェル」は、奴隷としてカルタゴからローマに連れてこられたことを暗示している[3]。「アフェル」という名前は共和政ローマの時代には二つの違う意味に使われていたが、テレンティウスの時代には、カルタゴを含むアフリカリビア一帯の人間を指していたからである。もっとも146年第三次ポエニ戦争以降は、カルタゴ人を指す名前は「プニカス(Punicus)」で、「アフェル」はカルタゴ人以外のアフリカ人を指すようになった[4]。古代リビア人(en:Ancient Libya[5]またはベルベル人の家系[6]だった可能性もある。

いずれにせよ、テレンティウスは6つの戯曲を書いた後、25歳でローマを離れたが、二度とローマに戻ることはなかった。古代の著述家の何人かはテレンティウスは海で亡くなったと言っている。

テレンティウスの戯曲[編集]

Homo sum, humani nil a me alienum puto
-- 「私は人間である。人間に関わることなら何でも自分に無縁であるとは思わない」。テレンティウス『自虐者』より。

プラウトゥスen: Plautus)同様、テレンティウスは後期の古代ギリシア喜劇(en:Ancient Greek comedy#New Comedy (nea))を翻案した。古代ギリシア演劇の再発見という意味で、単なる翻訳家に留まらなかったが、登場人物やシチュエーションをローマ化するのではなく、説得力のあるギリシアを舞台とした。

テレンティウスは苦労して自然でくだけたラテン語で書いた。内容も愉快でざっくばらんである。テレンティウス関する最初期の注釈者は、ヒエロニムスの師であるアエリアス・ドナトゥス(4世紀後半)である。中世ルネサンス期を通して人気があったことは、テレンティウスの戯曲の一部または全てが収められた多くの写本が証明し、学者Claudia Villaは800年以降に書かれたテレンティウスの写本は650冊あると見積もっている。中世ドイツベネディクト会律修修女で劇作家のロスヴィータは、教養ある人間は異教のテレンティウスの戯曲のキリスト教版を読むべきで、そのために自分は戯曲を書いたと言い、一方マルティン・ルターは、「人は万物の霊長である」という洞察に切り出すのにしばしばテレンティウスを引用したばかりでなく、子供の学校教育のために彼の喜劇を推薦した[7]

テレンティウスの6つの戯曲は次の通りである。

邦訳全集[編集]

  • 古代ローマ喜劇全集 第5巻 東京大学出版会 1979.12 鈴木一郎
    • アンドロスの女.自虐者.宦官.ポルミオ.義母.兄弟
  • ローマ喜劇集 5 テレンティウス 京都大学学術出版会 2002.8
    • アンドロス島の女 木村健治訳 自虐者 城江良和訳 宦官 谷栄一郎訳 ポルミオ 高橋宏幸訳 義母 上村健二訳 兄弟 山下太郎訳

作曲家フラックス(en:Flaccus (composer))がテレンティウスの『義母』の一節(1行)につけた旋律は、無傷で残っている古代ローマの音楽のすべてであると言われてきた。しかし、最近では、それは贋作であると言われている[8]

脚注[編集]

  1. ^ Aeli Donati Commentum Terenti, accedunt Eugraphi Commentum et Scholia Bembina, ed. Paul Wessner, 3 Volumes, Leipzig, 1902, 1905, 1908.
  2. ^ G. D' Anna, Sulla vita suetoniana di Terenzio, RIL, 1956, pp. 31-46, 89-90.
  3. ^ Tenney Frank, "On Suetonius' Life of Terence." The American Journal of Philology, Vol. 54, No. 3 (1933), pp. 269-273.
  4. ^ H. J. Rose, A Handbook of Latin Literature, 1954.
  5. ^ Michael von Albrecht, Geschichte der römischen Literatur, Volume 1, Bern, 1992.
  6. ^ Suzan Raven, Rome in Africa, Routledge, 1993, p.122; ISBN 0415081505から、「……2世紀に元老院議員の奴隷としてローマにやってきた劇作家テレンティウスはベルベル人だった」
  7. ^ See, e.g., in Luther's Works: American Edition, vol. 40:317; 47:228.
  8. ^ 10世紀の写本にあった、テレンティウスの戯曲『義母』につけられた旋律を、18世紀、イタリアの作曲家アルカンジェロ・コレッリ(コレルリ)がコピーした。しかし、音楽理論家トーマス・J・マティーセンはもはやそれは真作とは信じられてはいないとコメントしている。(en:Flaccus (composer)から)

外部リンク[編集]