ノート:一神教

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日本宗教のくだりについて[編集]

いまいち意味がつかめません。「一神教」「多神教」とは神学上の神々のシステムのことであって、「信仰」という個別の宗教実践行為とは別の次元に属する分類だと思うのですが。神に祈りを捧げるときは、それは当然祈りを捧げるところの神格しか意識しないでしょうけど、それはごく自然な実践であって、あえてそこにシステムとしての一神教を認めるのは難しいのではないでしょうか? たとえば「ただ漠然と人間を超える存在を認め、それに対して祈り願う形となっている。そのため教えも『神様は、良いことをすれば、それに報いてくれる。悪いことをすれば、罰する。』のレベルである」というのは、いわゆる普通の(日本以外の)多神教における神々の認識と同じです。「結局は、多数の神のそれぞれを、同時に両方を信じているのではなく、一種類の神、実質は同じ神を崇拝している。」も「複数の神の存在を信じる(通時的なシステム認識)」と「単一の神を崇拝[=信仰]する(個別的な実践行為)」についての議論を混同しているように思います。その前の「個々の『固有の教え』を信仰しているのではなく」から判断すると、複数の「固有の教え」を並行して信仰するのが多神教の定義ということになりますが、これも疑問です。また、具体的には、有名な七福神、道祖神のように対で祀られる神、複数が合祀されている神社、「八百万の神々」を祀る神社などはどういう位置づけになるのでしょう?toroia 2006年5月1日 (月) 05:15 (UTC)[返信]

賛成です。自宗のみが真理であるという姿勢を一神教とはいいません。突き詰めれば、たいていの宗教はそうです。日本在来の宗教では、一神教的なのは、阿弥陀信仰などの浄土教、密教のある種の(法身の大日如来など)信仰、日蓮系の日蓮本仏論系の教団などはかなり一神教的ですが、パンテオンに主神を認めるのは多神教において一般的なことであり、主神のいない多神教のほうが珍しいので、そのレベルのものはとくに言及には値しないと思います。多神教から単一神教に近づくのは、ヒンドゥーにおけるシヴァ信仰やヴィシュヌ信仰などのように、「少なくとも自分にとっては救済がその神格から排他的に与えられる」という、その神格の全能性、根源性の観念が見られる場合です。なお、エキュメニズム的、本地垂迹的な、すべての宗教の神格は結局はひとつ、という観念は、関連しつつも微妙に問題が違うようにも思います。--Clinamen 2006年5月1日 (月) 07:35 (UTC)[返信]

日本宗教のくだりについて(補足説明とご質問)[編集]

ご指摘を戴き、再考し、一部撤回しました。宜しく。

日本はアニミズムが濃厚で、現在でも大岩や巨木や神山を拝んでおり、更に、偉大な人間も神として信仰の対象にします(天神様八幡様明治神宮東郷神社)。宗教は人間と言う生物の行動形態であり、一神教か多神教かどうかは、当人が並行的に(通時的に)多数の神を拝んでいる場合は、その人は多神教の人であり(そこに多神教が信仰形態として現れている)、一つの対象だけを信仰の対象にしている場合は、一神教の人であるだけです。同様に、時々にケースケースで信仰の対象を変え、多くの対象を信仰する人も多神教の人でしょう。
その意味では、圧倒的な多神教の時代基盤の中から、鎌倉時代に、新仏教として、信仰の対象を一つに限定し、それ以外は信仰しないという宗教的天才が現れたのは奇跡と考えます。そしてこれは一神教そのものと考えます。更に、同時代の人々がその一神教の信者になっていったことも驚きです。

その意味で以下の記述は、誤っていると思います。 「日本在来の宗教では、一神教的なのは、阿弥陀信仰などの浄土教、密教のある種の(法身の大日如来など)信仰、日蓮系の日蓮本仏論系の教団などはかなり一神教的ですが、パンテオンに主神を認めるのは多神教において一般的なことであり、主神のいない多神教のほうが珍しいので、そのレベルのものはとくに言及には値しないと思います。」

(1)「一神教的」ではなく、親鸞阿弥陀佛)、道元:真理、それを体現する釈迦如来)、日蓮法華経)…のレベルでは「一神教」そのものです。 (2)現在の仏教の大部分は、日蓮宗(創価学会霊友会・・・)、浄土真宗曹洞宗臨済宗浄土教などで占められます。残りは極く少数派です。  ですので、現在の大多数の起源は一神教で、その流れにあります。ただし、時代が下り信仰の情熱が薄れるにつれ、俗世間では宗祖の信仰から逸脱して、再び多神教の世界に後退している部分が見られますが。 (3)「パンテオンに主神を認めるのは多神教において一般的なことであり」この場合は、多神教と言うからには、個人の中で、主神の他に陪神も信仰、崇拝の対象にしていることを暗黙の内に前提しています。が、親鸞(阿弥陀佛)、道元(真理、釈迦如来)、日蓮(法華経)では、陪神には眼もくれません。ですから「そのレベルのものはとくに言及には値しないと思います。」とは言えなく、これは注目すべきことと考えます。 (因みに、親鸞、道元、日蓮などの主著などを読んで判断しているのでしょうか?「日本人として彼らは例外」として扱っているのでは?) (4)密教は、仏教にヒンズー教を大々的に取り込んだものであり、インドでは最終的にはヒンズー教との違いがなくなり存在価値がなくなり、社会からは消滅して行ったものです。ですので一神教というよりは「パンテオンに主神を認める」形そのものであり、そのパンテオンは両界曼荼羅で示されています。 (5)質問ですが「日蓮本仏論」これは何なのですか?日蓮は先達(つまり先生・導師)だけであり、日蓮宗での信仰の対象はあくまで「法華経(の真理)」のはずですが。題目である「南無・妙法蓮華経」のはず。 --イエスチャン 2006年5月9日 (火)

日蓮本仏論はぐぐればいくらでも出てきますが、日蓮が久遠の仏であって、主たる本尊は釈迦ではなく日蓮であるという信仰です。なお、もちろん法華経の真理が究極の本尊ですが、宗祖として、釈迦か日蓮をあがめるという信仰もあるということのようです。
それから密教の大日如来はすべての創造者であり根源であり、無数の密教の神格はすべて大日如来のことなる顕現であるというタイプの密教の信仰はあきらかに一神教的といっていいでしょう。
で、私は大前提として、一神教・多神教というカテゴリーは、もともと、仏教を想定していないカテゴリーであり、適用すること自体意味がないと考えています。そのうえで、鎌倉仏教に代表される傾向は、たしかに拝一神教か単一神教か、これも適用するにはあいまいさが避けられないと思いますが、まあ、そういったものであるとはいえます。しかし、唯一神教ではない。
そして、第一に大いに問題にしたいのは、日本語で普通一神教とだけ言ったら唯一神教のことです。一神教とだけいってそうした他の神格の存在をいちおう認める信仰を意味するのは、大いに誤解を招く表現です。そこからいって、わたしは、「ひとつの神だけ崇拝するから一神教」という言い方には到底賛同できません。繰り返しますが、ただ説明もなしに一神教とだけいえば、「他の神格を崇拝しないだけでなく存在も認めない」という唯一神教を意味します。そこをきちんとおさえて記述しないのは問題です。
3については、鎌倉仏教などのの信仰を多神教における主神としての崇拝とみなしているわけではありません。もとの文章には書き方にあいまいさがあったようです。
「日本在来の宗教では、一神教的なのは、阿弥陀信仰などの浄土教、密教のある種の(法身の大日如来など)信仰、日蓮系の日蓮本仏論系の教団などはかなり一神教的ですが、パンテオンに主神を認めるのは多神教において一般的なことであり、主神のいない多神教のほうが珍しいので、そのレベルのものはとくに言及には値しないと思います。」
この文章で、親鸞・日蓮等の信仰を多神教と言っているわけではなくて、そういうものは一神教的だという形でとりあえず問題にすることもできる(厳密には違うが)。しかし、その他の多神教で主神としてあがめるタイプのものは言及する必要はない、という脈絡です。後段が想定しているのは、なになに神社の祭神はなになにのみことだ、というようなやつのことです。
浄土教や鎌倉新仏教が一神教的な救済宗教であったことは誰も否定してません。慎重な留保つきなら、あなたのいっていることは、理解できます。問題は、重要な差異を無視し、誤解を招く表現をしていることです。一神教的であったといっても、一神教であったとはいえません。なによりも法や真理は神ではありません。仏についてはやや微妙な問題が残りますが、やはり、法あっての仏であり、神とは性質を異にします。仏教は永遠の実体と人格の究極的な実在を否定しているのですから、人格神を範例にした概念にはそぐいません。鎌倉仏教もそうした基本教義を受け継いだ上で、それと調和する形で一神教的な説を唱えたのであり、そこにはいわば「一神教」になりきれない面、「仏教の基本教義」とのあいだの鋭い緊張関係がつねにあったのであり、それは解消されてなどいません。むしろその緊張関係に生命があったとさえいえます。また、その一神教的というのも、つねに他の「神格」がみとめられていたのだから唯一神教的ということではないのに、一神教的とだけ説明抜きでいえば、そういう意味になってしまいます。
そうした意味で、現状の記述で、十分、仏教にも一神教的な信仰もあった、ということは表現されていると考えます。--Clinamen 2006年5月9日 (火) 16:38 (UTC)[返信]

唯一神教の中の「超存在」で、多神教的とは言えない事[編集]

●「他の神の存在を認めない唯一神教でも、実際には様々な超存在を認めていることが多い。」

実際そうです。
旧約聖書では、“一民族の神ヤハウェ信仰(古代イスラエル宗教)から唯一神教を生み出して行った預言者イザヤ自身”も天的存在、天使「セラフィン:ケルビム」の存在を信じていました。 ヨブ記でも、天上の会議(地上で起こることは天上の会議で決定されると考えている)が信じられており、神と天的存在(天使)を信じています。サタンも天使の一人であり、地上の人間の悪を見張り、神に告げる役割で登場しています(後代ではその役目から人間に嫌われ、悪をそそのかすものに貶められ、悪魔の様にしか理解されていませんが、本来は悪魔ではなく、神の部下でした)。

新約聖書では、イエス自身は古代人であるため、その当時の世界観で生きていたので、「悪魔そのものであるサタン」や「悪い霊的存在」を信じています。イエスはそれらの悪の超存在と戦っていた訳です。“イエスは、天からサタンが追放され地上に落とされるのを見た”とも書いています。 イザヤやイエスの信仰は唯一神教ですので、神の外に超存在を信じる・認めるだけでは、多神教とは言えない訳です。次に・・・

●「キリスト教では、天使聖人など、イスラム教でも天使やジンなどが信仰の対象となり、絶対神よりは格下に位置付けられているものの、人々に御利益をもたらす存在として認知され、多神教における神と同様の機能を負っていることがある。」

唯一神教であるキリスト教を例にとれば、神/イエスに対しては崇拝しますが、聖母マリアは崇拝しません。それは敬愛です。マリアは我が子イエスに対しキリスト者の祈りを執り成してくれる(取り次いでくれる)だけであり、恵みそのもの(言葉は悪いのですがご利益)は神/イエスから与えられます。イエスとマリアの間には厳然とした断絶があります。それは、神と人間を峻別する宗教観から生まれます。
一方、多神教では、神と人間は程度の差、パワーの差があるだけで、人間と連続的・繋がる面があるのでは?典型的なのは菅原道真公が死んでから天神様に成り、連続しています。
イスラム教では、最初マホメットはジンに捕り付かれ、後からそれが神アッラーだと知り、それがユダヤ教の神ヤハウェでもあると知ったものです。ですから「ジン」と「神アッラー」の両方を信仰した訳ではありません。本地垂迹な訳です。「アッラーの神」が最初「ジン」として現れた訳で、実は同一の神です。後から出来たイスラム教では、寺院内には偶像崇拝になるからと人も動物も描きません。スペインのアルハンブラ宮殿でもそうでした。代わりにコーランの文章が美術化され埋め尽くしていました。その点、「全ての恵みは神アッラーからのみ」と徹底していると考えます。
ですから、その宗教の全体を見た場合は「御利益をもたらす存在として認知され、多神教における神と同様の機能」とは言えないと考えます。神は絶対として存在し、類似のものを寄せ付けません。勿論、俗信になった場合は、限りなく多神教が入り込みます。それがキリスト教か?と言えば、それはキリスト教でなく多神教でしょう。多神教の人には一神教の理解が難しいと考えます。マリアに祈る人の後ろ姿からは、多神教に見えるのでしょう。
因みに、宗教改革を行ったドイツのルターやスイスのカルバンカルビン では、マリアや聖人への祈り(信仰)はありません。多神教の傾向を排除して、「信仰は聖書からのみ」をモットーにして、原点である本来の形に戻していますので。 --イエスチャン 2006年5月10日 (水)

少しスタイルを読みやすくしました。ご了承ください。で、天使や悪魔たちの存在が唯一神教システムと無関係だ、というのは同意します。ただ、イエスチャンさんおおっしゃるこの部分が気になるのですが、
勿論、俗信になった場合は、限りなく多神教が入り込みます。それがキリスト教か?と言えば、それはキリスト教でなく多神教でしょう。
もともと学術的な意味での「一神教」と「多神教」の用法が、キリスト教徒たる西欧人が自分たちの宗教を他の宗教と区別するために作成したエスノセントリックな語彙なので仕方ない点はありますが(近年の日本では「多神教」のほうが自民族中心主義的に用いられてますがw)、いったいキリスト教の定義は誰がするのでしょう? 多神教であるならキリスト教ではない、なるほど、それならキリスト教の唯一神教としての立場は揺らがないでしょう。でも、多くの民族誌で、自らはキリスト教徒であると表明している人たちが多神教的であることが報告されています(日本国内でも東南アジア[フィリピンなど]やオセアニアの事例なら容易に入手できるでしょう)。このような事例は近代ヨーロッパにおいても確認されています。彼らは通常のキリスト教組織に属し(だからセンサスではキリスト教徒にカウントされている)、洗礼を受け、聖書を聖典と認識しているわけです。--toroia 2006年5月10日 (水) 12:32 (UTC)[返信]

拝一神教について[編集]

拝一神教の説明で、次の文をのせたいと思います。

拝一神教  特定の一神のみを崇拝するが、他の神々の存在そのものを否定せず、前提としている点で唯一神教とは異なっている。<旧約聖書における神観念は、初期には拝一神教であった。(士11:24、サム上26:19、出20:2)神の唯一性が絶対的になったのは、前6世紀のバビロニア捕囚前後からとされる。(岩波キリスト教辞典P869)>--Tokinokawa会話) 2020年8月2日 (日) 09:09 (UTC)--Tokinokawa会話2020年8月9日 (日) 02:33 (UTC)[返信]

宗教類型論上における一神教の区分[編集]

成立に関する説、の下に、下記の文を載せたいと思います。

宗教類型論上における区分[編集]

一神教は特定の一神のみを排他的に崇拝する信仰の形態をさし、無神教や多神教と対比される。汎神論(万物を神の顕れないし展開と見なす)や、万有内在神論(万物が神に内包されていると見る)においても、しばしば万物の根本的原理としての神の唯一性が説かれるが、この場合には通常は神の人格性の観念が著しく後退するので、一神教に含めることは適切ではないとされる。<岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P93、(一神教の項目 山我哲雄)>

広義の意味における一神教[編集]

唯一神教 (狭義のmonotheism)

自分たちの崇拝する神のみを唯一絶対の真の神と見なし、他の神々の存在を原理的に否定する。

拝一神教  〔英〕(monolatry) <岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P869、(拝一神教の項目 山我哲雄)>

複数の神々の存在を前提にしながらも、常に特定の一神のみを専一的に崇拝する。

交替神教 (kathemonotheism ないし hemonotheism)

機会や祭祀ごとにそれぞれ異なる特定の一神のみを交互に崇拝する。<岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P93、(一神教の項目 山我哲雄)>--Tokinokawa会話) 2020年10月20日 (火) 02:31 (UTC)--Tokinokawa会話2020年12月5日 (土) 06:26 (UTC)[返信]

非日本語の出典や一次資料[編集]

2022年5月14日 (土) 04:19‎ (UTC) から2022年5月20日 (金) 00:30‎ (UTC)まで、英語資料を元にした大量の加筆がされています[1][2]。加筆を行ったIPユーザーさんの編集傾向や文体からして、以下のIPアドレスは同一人物である可能性が高いと思われます。

これらのIPアドレスの一部は汎神論を編集した履歴があり、編集内容を比べても、一神教と汎神論を編集している方は同一人物のようです。汎神論の記事で既に指摘なさっている方がいるようですが、Wikipediaでの出典は「可能な限り日本語による情報源」であり、「常に日本語による情報源を日本語以外の言語による情報源より優先して使用すべきです」。(Wikipedia:検証可能性#信頼できる情報源)  また、出典には宗教団体などからの資料も使われていますが、宗教的資料は「宗教的信条が含まれていなくても注意して扱うべきであり、情報源として使わない理由になります」。(Wikipedia:信頼できる情報源#反体制勢力、宗教集団、過激派のウェブサイト)  「不適切な情報源に基づいた編集を行うと、異議を申し立てられたり除去されたりすることがあります」し、ルール違反者は投稿ブロックされる可能性があります。Wikipediaの方針とガイドラインを遵守することを、よろしくお願いいたします。--126.77.0.38 2022年5月20日 (金) 04:46 (UTC)[返信]

『ウィキペディア日本語版では、可能な限り日本語による情報源を示すべきであり、常に日本語による情報源を日本語以外の言語による情報源より優先して使用すべきです。これは、情報源の資料が正しく使用されていることを、日本語版の読者が容易に検証できるようにするためです。』とある通り英語の情報源を引用することは可能です。また宗教団体の資料についても記述されていますが具体的にどの資料でしょうか?ご教示いただければと思います。--2400:2410:C1A3:5300:5B65:9FA4:13A9:BC3 2022年5月20日 (金) 05:10 (UTC)[返信]

126.77.0.38さんへ。件のIPv6アドレスのユーザーさんの返答は、「可能な限り」という文字列だけを太字強調しつつ「常に」という文字列をそのままにされていますね。今までの編集態度からしても、このIPユーザーさんが非日本語出典を使いたがられている意図が見受けられます。この方の編集が一通り終わった頃(それが今年5月22日か[3]、十数年後か、それとも投稿ブロック後かは分かりませんが)、記事内容を日本語出典に基づく上部分と、非日本語出典に基づく下部分とで、上下に大別すればよろしいかと思います。日本語出典に基づく上層は通常の記事通り記述し、下層は「非日本語出典による情報」とでも節を作ってその中に入れる。そして編集していく中で、非日本語出典の内容とそぐわない誤訳や誤解、曲解や独自研究などが記事にあればその都度修正したり削除する、ということです。--202.162.137.166 2022年6月10日 (金) 12:00 (UTC)[返信]

  • 他の箇所は全て引用してるのに太字強調をしただけで個人としての編集態度が全ておかしいというのは深読みしすぎでしょう。誤解を指摘された当該人物にとっては特別で個人的に見えるかもしれませんが一般的にそれによって個人の編集態度全てが間違っているという論理的帰結には無理があると思います。利用者:126.77.0.38 」さんは、むしろ可能な限りという点を引用しないで(それが英語版の翻訳である場合も含めて)外国語の情報源を使うべきでないと主張されており、問題点を改善するために具体的な箇所を聞かれても返答しようとせず、結果として合意形成を拒否しようとする側の姿勢にも疑問が投げかけられるべきでしょう。
  • 元々「利用者:126.77.0.38 」さんはoldid=89603863で「《常に日本語による情報源を日本語以外の言語による情報源より優先して使用すべきです》」と太字強調で告知/方針テンプレートの編集をしており、私はそれに対してoldid=89604243で「ウィキペディア日本語版では、可能な限り日本語による情報源を示すべきであり、常に日本語による情報源を日本語以外の言語による情報源より優先して使用すべきです。」と編集に加えたという経緯があり、ガイドライン原文から意図的に「可能な限り」を削除した偏向的な編集を修正しなおしたという見解です。
  • 逆にお尋ねしますが利用者:202.162.137.166さんは、ノート:汎心論等では「利用者:126.77.0.38」さんと類似した主張、告知/方針テンプレートを使う同方式同じ相手に対して行っています。ことの発端はノート:汎心論で「利用者:Was a bee」さんのやや強引で攻撃的な主張に対して私が反応したことだと思いますが、「利用者:126.77.0.38」「利用者:雑用部」(利用者:雑用部さんは私のIPにブロックリクエストをしたようですが、運営に無視された模様)さんと同じようなタイミングで、同一の状況を共有しているようにも見えます。あなた(利用者:202.162.137.166)も文脈を「利用者:126.77.0.38」さんと共有してるように見えるので、同一人物なのでは?とも見えます。ただしこれは、あなたのやっている深読みと何らかわりはありません。(「Wikipedia:明白なソックパペットはすぐにわかる」)
  • 最後に「しかし外国語の情報源は、検証可能性や、日本語の情報源と同じ基準に従うという観点では受け入れられます。」「Wikipedia:信頼できる情報源」「Wikipedia:検証可能性」という点についてはお互い従うべきであると合意できるでしょう。--2400:2410:C1A3:5300:4BA1:F38E:E7B8:BADF 2022年6月12日 (日) 01:21 (UTC)[返信]

信頼できる情報源の評価[編集]

最近はガイドラインに関する編集が多いのでいくつか明確にした方が良いと思います。

  • Wikipedia:信頼できる情報源#情報源の評価は「編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、できる限りより信頼でき、よりすぐれていると一般に認められているものの中から、出典を幅広く選ぶようにして下さい。」としています。
  • 歴史分野ではWikipedia:信頼できる情報源#基本的な考え方に従うべきです。ピアレビュージャーナルに掲載された査読論文や特定のトピックについて書かれたモノグラフのような専門書が「信頼できる情報源」として認められますが、専門家の著述した一般書はピアレビュージャーナルに掲載された学術論文・専門書と比べてかなり割り引いて考える必要があります(「一般書であっても専門家によって著された本はほとんどの場合「信頼できる情報源」と認められると考えられます。ただし学術論文・専門書と比べてかなり割り引いて考えなければならないでしょう。」「Wikipedia:信頼できる情報源#基本的な考え方」)。
  • 自然科学数学医学等の分野ではWikipedia:信頼できる情報源#自然科学、数学と医学に従うべきです。科学では誤った実験結果や欠陥が避けられないため、査読雑誌に掲載された論文ではなく、「科学におけるコンセンサス」すなわち権威ある総説論文、教科書や特定のトピックについて書かれたモノグラフが「信頼のできる情報源」だと考えられます。

一神教等の宗教学比較宗教学の理論については特別な記述はありませんが、宗教学の分野には誤った実験等がないでしょうから、歴史のガイドラインに従うべきであると考えられます。 歴史のガイドラインに忠実に対応するならば、専門家によって記述された一般書の出典は信頼性は低くなり、国際会議で採用された学術論文、ピアレビュージャーナルに掲載された査読論文またはモノグラフ等の優先度が高くなります。

  • このガイドラインは外国語の論文についても同様に適用されるべきです。「しかし外国語の情報源は、検証可能性や、日本語の情報源と同じ基準に従うという観点では受け入れられます。」(Wikipedia:信頼できる情報源#日本語以外の言語で書かれた情報源)
  • また「日本語の情報源はできるだけ提供されるべきであり、外国語の情報源より常に優先して使われるべきです(同じ品質と信頼性だと仮定しています)。例えば、相当する記事が日本語の新聞にないような場合以外は、外国語の新聞を情報源として使ってはいけません。」では2つの基準が示されています(Wikipedia:信頼できる情報源#日本語以外の言語で書かれた情報源)。
  1. 日本語の情報源にない場合
  2. 日本語の情報源より品質が高い場合

つまり編集者が外国語の情報源を使う場合、両方またはいずれかの基準を満たすことになります。一神教は海外由来の理論であるため、翻訳されていない外国語の文献が多く、これらの基準は満たしやすいと考えられます。また検証可能性についてはGoogle ScholarJSTOR等にある論文や、複数学者によって査読され論文審査が行われた博論はネットでもアクセスできるため、外国語でも入手可能で検証ができます。

  • 例えばこの記事で出典としているスタンフォード哲学百科事典「一神教」の項目はGoogle ScholarWilliam Wainwright(William Wainwrightはウィスコンシン大学ミルウォーキー校宗教哲学教授、2020年11月永眠)と検索して該当URLの被引用項目をクリックすると、17件の被引用数があり「International journal for philosophy of religion, 2008」や「TheoLogica: An International Journal for Philosophy of …, 2017」、「Journal of Philosophy, Culture and Religion, 2018」等に被引用されています。もしこれを出典した内容を削除したいのであれば、日本語で少なくとも同じ品質と信頼性のある出典が必要となります。
  • The Hebrew Bible: A Critical Companion, ed. John Barton(Princeton University Press, 2016) は大学出版局で出版されている聖書のモノグラフです。作者は23人おり、各分野の専門家が集まり、学者によって編集がなされた典型的な専門書と言えるかと思います。
これらを除いた出典は英語版記事の翻訳から履歴継承したものと記憶しており、英語版の翻訳者として個人が説明・応対することがありえても、全面的に削除しようとか、残念ながら弱い信頼性の出典が多いと見られる過去の日本語版wiki「一神教」の編集(一般書に過ぎない『ブルマ, イアン、マルガリート, アヴィシャイ 著、堀田江理 訳 『反西洋思想』新潮社、2006年』が出典の大半をしめる)だけを残そうという考え方はWikipediaの信頼性を大きく後退させることになるでしょう。--2400:2410:C1A3:5300:4BA1:F38E:E7B8:BADF 2022年6月12日 (日) 06:11 (UTC)[返信]

宗教学、宗教人類学と無関係の一般書を出典する荒らし的な編集について[編集]

2022年7月2日 (土) 12:12‎ 60.116.89.253 会話‎ 118,195バイト +13,321‎の編集において追加および、ページの上位において目立つように顕示された編集内容の出典について、以下のリストにあるように宗教学宗教人類学と無関係のジャーナリズム政治学、(宗教を専門としない)歴史学の研究者の著述した一般書や記事を出典としています。本記事のタイトルは社会学政治学ジャーナリズムでなく、他の言語のWikipedia記事と同様に宗教学の用語である「一神教」であるため、宗教学宗教人類学宗教哲学の分野の研究者を専門家と考えるべきです。フィールドが異なる非専門家の一般書として、以下の本や記事は「ウィキペディアの出典としては相応しくない」と解釈できます(「Wikipedia:信頼できる情報源」、Wikipedia:信頼できる情報源#情報源の評価Wikipedia:信頼できる情報源#基本的な考え方)。

  • ブルマ, イアン、マルガリート, アヴィシャイ 著、堀田江理 訳 『反西洋思想』新潮社、2006年。ISBN 978-4106101823

『反西洋思想』(Occidentalism: The West in the Eyes of its Enemies )はタイトルの通り敵からの西洋文明の視点を提示しています。宗教学の定説が提示されるべき記事において、学術性を欠いた一般書[1]を他の専門家の論文・専門書籍と同等以上に取り扱うことは、オリエンタリズムの非学術的観点から東アジアを異質なものとして蔑視するのと同質であり、宗教学の専門家の定説を過小に評価し、珍説の価値を過剰に評価していると考えられるため、中立性の観点からも否定されるべきです(Wikipedia:信頼できる情報源#中立的な観点との兼ね合い)。

  • ヘルマント, ヨースト 著、識名章喜 訳 『理想郷としての第三帝国 ─ドイツ・ユートピア思想と大衆文化─』柏書房、2002年。ISBN 978-4760123025
  • 村瀬, 興雄「第三帝国」 『日本大百科全書(ニッポニカ)』Kotobank、2022年

ドイツ文学が専門の小黒康正 [2]の論文についても、宗教学宗教人類学とは無関係の非専門家による著述であり一般書と同様に「ウィキペディアの出典としては相応しくない」および適切な専門家の査読をうけてないためWikipedia:信頼できる情報源ではありません。

  • 小黒, 康正「第一次世界大戦期の日本とドイツにおける「第三の国」 ─イプセン,メレシコフスキー,トーマス・マン─ (特集 黙示録とユートピア)」『ドイツ文学』第15巻第4号、日本独文学会、2017年3月25日、 103-121頁、 doi:10.11282/jgg.154.0_103[3]

編集をした方は『反西洋思想』は Google Scholar による被引用数があると特に主張しているようですが[4][1]フィールドが異なる非専門家による一般書は「ウィキペディアの出典としては相応しくない」(「Wikipedia:信頼できる情報源」)ため、ある程度の猶予期間をとったのちに、他の関連する出典をベースにしたものと同様に編集内容は削除します。--2400:2410:C1A3:5300:E442:7722:F834:2687 2022年7月4日 (月) 00:46 (UTC)[返信]

提案 Wikipediaには「Wikipedia:荒らし」という方針があり、方針は「多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべき」とされています。同方針には「荒らし行為は発見され次第、対処することが必要です。 (中略) 以下に定義するような荒らしを発見したら、差し戻してください」とあります。同方針の定義に該当するような荒らしを発見した、ないしは発見したと思われる場合、まず荒らし編集を差し戻してください。次に荒らし対処用の警告テンプレートなどを使い、「荒らしを行ったユーザーの会話ページに警告メッセージを残してください」。「それでも荒らしが継続する場合、Wikipedia:管理者伝言板#投稿ブロックへ報告してください」。上記伝言板では管理者が「明らかな方針違反者」へのブロックを行います。--240D:1A:506:1700:8C42:1946:3B38:1528 2022年7月7日 (木) 14:09 (UTC)[返信]
Wikipediaガイドラインには一神教等の宗教学、比較宗教学、宗教史の理論については特別な記述はありませんが、宗教学の分野には科学に特有の誤った実験がないでしょうから、歴史のガイドラインに従うべきであると考えられます(ノート:一神教#信頼できる情報源の評価)。
一般書の中でも非専門家の手によるものは「信頼できる情報源」として認められたとしても基本的にウィキペディアの出典としては相応しくないと見做されるでしょう。 — Wikipedia:信頼できる情報源#基本的な考え方
非専門家の著述した論文は、宗教学の専門家による査読論文、モノグラフ等の専門書、大学の教科書等に書かれた定説を過小評価、珍説を過剰評価することになるため、信頼性、中立的な観点から使用されるべきでないと考えるべきです。これについては、時間のあるときにガイドラインのノートで聞いてみようかと思います。--2400:2410:C1A3:5300:7419:F031:1702:AF14 2022年8月10日 (水) 03:42 (UTC)[返信]
専門家による信頼できる二次資料がすでにある場合、特殊な主張をする非専門家の著述した論文を出典とすることは以下の方針に反するでしょう。
ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止されます。 — Wikipedia:独自研究は載せない
ごく少数の人々が主張する意見は、そのような意見を扱うのに特化した記事(地球平面説など)以外には記載すべきではありません。無視しがたい少数派の意見に不当な重み付けをしたり、ごく少数の人々の意見を含めたりすれば、論争の有様について読者を誤った方向に導きかねません。ウィキペディアの狙いは、競合する意見を、その話題に関して信頼できる情報源における表現に応じて提示することです。これは、記事本文のみならず、画像、ウィキリンク、外部リンク、カテゴリ、およびその他のすべての情報にも同様に適用されます。 — Wikipedia:中立的な観点#適当な重み付け
では研究Aに対して、同じ分野の研究B・C・Dと並べていくことは正しいでしょうか?これも不可ではありません。しかしこれもまた中立的な観点に反する可能性があります。例えば研究Aが定説として評価されており、他のB・C・Dはそれに比べれば学界での地位が低いとした場合、A・B・C・Dを並列に並べることはAの価値を過少に、B・C・Dの価値を過大に書いていることになるからです。 — Wikipedia:信頼できる情報源#中立的な観点との兼ね合い
ただ単にごく小さな少数派にしか支持されていない観点を掲載することは、独自研究に認定される場合があります。 — Wikipedia:独自研究は載せない#中立的な観点
もしあなたの考え方が多数派に属するのであれば、広く認められている参考文献を示してその観点を実証することは容易なはずだ。もしあなたの考え方が言及するのに意味があるような少数派に支持されているのであれば、同じ意見を持っている著名な支持者の名前を挙げるのは容易に違いない。もしある観点が極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派に支持されているのであれば、それが正しいかどうかに拘らず、あるいはあなたがそれを証明できるかどうかに拘らず、その内容はウィキペディアで言及するに値しない — Wikipedia:独自研究は載せない#中立的な観点
ピアレビュージャーナルに掲載された専門家の査読論文、専門書等の2次資料をガイドラインは明確に指示しており、これらの情報源がすでにある場合にわざわざ劣化した品質に落とす正当な理由があるとは思えません。
次に規則の悪用についてのおさらいです。
規則の悪用 (Gaming the system) とは、ウィキペディアの方針とガイドラインを意図的に悪用して、ウィキペディアの目的を妨害することです。規則の悪用は、手続きの乱用や、妨害的編集、あるいはコミュニティが合意したことの本質にあるものを無視することが当てはまります。規則を悪用する典型的な編集者は、腕づくで自分の意見を押し通そうとしたり、編集合戦へと発展させたり、中立的でない特定の観点を強く主張します。 — Wikipedia:規則の悪用
実際には方針に一致しない意見を裏付けるものとして、方針から都合よい文言だけを抜き出す(または、都合よくある方針を当てはめ、故意に他の方針を無視する)。 — Wikipedia:規則の悪用#方針とガイドラインの悪用Wikipedia:規則の悪用#合意形成の悪用Wikipedia:規則の悪用#制裁制度の悪用
実際には方針に矛盾する見解や立場だと知りながら、あるいはそう偽って、保護や正当化を求めたり、方針の文言に裏付けられていると主張する。 — Wikipedia:規則の悪用#方針とガイドラインの悪用Wikipedia:規則の悪用#制裁制度の悪用
個人的にはこうしたガイドラインに抵触するユーザーというのは、特定の誰かに個人攻撃する際に顕著になると思います。全体を見ずに極めて特定なことにこだわり、それをもってブロックしてやると意気込んで脅迫をするような書き込みをするかで見分けられると思います。--2400:2410:C1A3:5300:7419:F031:1702:AF14 2022年8月10日 (水) 04:13 (UTC)[返信]

──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────── コメント こんにちは、私は33メルメルと申します。この記事や汎神論汎心論などの編集に関わっている方々はIPユーザーさんが多いようですので、一旦皆さまにはこちらをご覧いただければと思います。

誰の発言かを区別しやすくするためにも、ログインすることが推奨されます。Wikipedia:説明責任も参照してください。
(方針「Wikipedia:署名」)
多くの利用者は「既存の記事を大幅に変更する際にはアカウントを取得し、ログインし、説明責任が果たせる立場になった上で編集してほしい」と望んでいます。
(ガイドライン「Wikipedia:説明責任」)

さて、ドイツ文学等についての学術論文を一神教系記事の出典に使うべきではないという2400:2410:C1A3:5300:E442:7722:F834:2687さんのご指摘は、まあ頷けます。たた、非専門家が書いた可能性がある百科事典類が一応「ウィキペディアの目的には信頼できる情報源」とガイドラインで認められていること、コトバンクの辞事典を出典とする時専用の「Template:Kotobank」が「10,000以上のページで使われてい」ること、「大学で使われる教科書」なども「もっとも信頼できる」情報源とされていることを踏まえると、学術論文を出典とする記述は削除されるべきなほど酷い記述だろうか? とちょっと疑問は残ります。例外もありますが「原則として、単に偏向しているように思われるなどという理由で、出典を明記した情報を除去しないでください。その代わりに、その一文や一節をより中立的な言い回しに書き改められないか、試してみてください」と方針にあります。

参考例として政治、歴史、天皇、日本の宗教関連の記事を挙げれば、学術論文や辞事典に基づく記述をも除去して独自研究にすげ替えたり、ニュースや新書やツイートなどに基づく記述へ書き換えるような編集が堂々と行われてきたのが実態です。この記事を歴史的観点に従って、つまり「Wikipedia:信頼できる情報源#歴史」に従って書くならば、「基本的な目安」として学術論文が大学教科書より優先されるかとは思いますが。(「学術論文であっても学界から全く顧みられずに消えていく場合もあ」ることは踏まえた上で。)

『反西洋思想』が信頼できる情報源に該当するかについては、例えば以下にどの程度該当するか次第で明確になるかなぁと思います。

個人的には、『反西洋思想』は「権威づけられた専門家による公表物」などに該当する(逆に言えば、大学教科書や査読済み論文ほどの信頼度はない)のだろうと思います。辞事典とどちらが上かは判断が難しくなりそうです。

方針の定義する「荒らし」はともかく「荒らし的」な利用者に対しては、ウィキペディアのシステムは対処し難いかと。240D:1A:506:1700:8C42:1946:3B38:1528さんのご指摘と似た話になりますが、荒らしか否かは原則的に、どのルールに違反しているかで決まるからです。利用者○○は方針の□□の部分とガイドラインの△△の部分に違反しており荒らしに該当します、といった主張の方が、管理者さんをはじめとしたウィキペディアコミュニティをより説得しやすいと思います。(「Wikipedia:投稿ブロックの方針#コミュニティを消耗させる利用者」など)

なお冒頭の話と一部被りますが、記事編集でも荒らし対処でも、IPユーザーさんよりはログインユーザーさんの方が意見が通りやすいと言えます。単にログインユーザーさんの方が方針とガイドラインに従っているというだけでなく、例えばIPユーザーさんは基本的に、投稿ブロック依頼における依頼・投票・コメントのどれも実行できません(「Wikipedia:投稿ブロック依頼#依頼・コメント資格について」)。ログインもウィキペディア編集自体も義務ではありませんが、ルールを順守しているより適切な記事、より適切な記事編集を達成するためには、IPユーザーである方々はログインして活動なさるべきであると申し上げます。--33メルメル会話2022年8月8日 (月) 10:19 (UTC)[返信]

荒らしに関する対応については了解しました。まず理解していただきたいのは、これらのコメントを書いた際に私が参考にした記事です。
個人攻撃を禁じたり、無礼な振る舞いを禁じたりする方針などが、利用者を荒らしや個人攻撃から守るためではなく、利用者の行った編集を論評から守るために頻繁に引用されています。じゃまな編集ばかりしている編集者は文字通りじゃまな編集者です。特定の観点を推してばかりいる利用者は偏向編集者です。荒らしてばかりいる利用者は荒らしです。こういった利用者に話しかける際に言葉を飾る必要はありません。ただし、ありのまま言うことはきちんとした編集者の仕事の一部ですが、その際には礼儀を忘れてはいけません。 — Wikipedia:ありのまま言う
次に33メルメルさんのご意見ですが、党派的な『反西洋思想』(Occidentalism: The West in the Eyes of its Enemies)はピアレビュージャーナルのブックレビューによると『この本は学術専門家の綿密な精査に耐える本ではなく、その精査も求めてもいない』との評価をうけており、さらにこの本は国際政治学の一般書という分類であり、明らかに宗教学等の専門分野で引用されることを想定した一般書ではありません。独立した学術専門分野である宗教史宗教哲学の用語である一神教のページで出典とするのは不適当と考えるべきです。
  • オクシデンタリズム国際政治学の記事であれば専門家の記事と言えるでしょうが、一神教は宗教史宗教学宗教哲学宗教人類学比較宗教学の専門用語であり、専門外の学者を引用した大量の投稿は該当分野の学者を軽視しています
  • 33メルメルさんは「権威づけられた専門家による公表物」と表現していますが、「権威づけられた非専門家による公表物」と混同なされていると思います。学者=専門家ではなく、宗教史宗教学宗教哲学宗教人類学比較宗教学の専門家と認められるには宗教学等を専門としたピアレビュージャーナルに掲載される等の実績が専門家として認められる必須要件かと思います。
その非専門家による一冊を出典として5-6,000字にして投稿しようという意味が分かりません。どう控えめにみてもWikipedia:中立的な観点には適合しないでしょう。ドイツ文学の論文と合わせて、13,000字も使ってページ上部に掲載するのは、他の項目・節を明らかに読みにくくしており、宗教学の専門家の定説を記事にした内容を過小に評価し、珍説の価値を過剰に評価していると考えられるため、中立的な観点からも否定されるべきです。33メルメルさんはこの点をどうお考えでしょうか?
では研究Aに対して、同じ分野の研究B・C・Dと並べていくことは正しいでしょうか?これも不可ではありません。しかしこれもまた中立的な観点に反する可能性があります。例えば研究Aが定説として評価されており、他のB・C・Dはそれに比べれば学界での地位が低いとした場合、A・B・C・Dを並列に並べることはAの価値を過少に、B・C・Dの価値を過大に書いていることになるからです。 — Wikipedia:信頼できる情報源#中立的な観点との兼ね合い
「学教科書や査読済み論文ほどの信頼度はなく……辞事典とどちらが上かは判断が難しくなりそうです」とのことですが、ここで問題点とされているのは一般論ではありません。一神教は宗教学の専門用語であり、宗教史宗教学宗教哲学を専門としないフィールドが異なる非専門家の一般書が出典となり、専門家の定説となるべき唯一神の定義となる箇所を、明らかに一般論として述べられた感想が妥当だとは思いません。
  • 私の提案はこうです。この方がどうしても投稿したいのであれば、Wikipedia:信頼できる情報源#中立的な観点との兼ね合いの観点から、信頼性の低い原書でなく宗教学のピアレビュージャーナルに掲載されたブックレビューを出典にすることです。Google Scholarには大量のブックレビューがあるため、それを引用することです。仮に宗教学のピアレビュージャーナルに掲載されたレビューが存在しないならばごく少数派の意見であり、Wikipediaに掲載するに値しない内容と認められます。またもし見つけられるならば、同内容の複数の出典を使用し、13,000字といった可読性を損じるような投稿でなく、リーズナブルに10数行以内におさめることです。--2400:2410:C1A3:5300:7419:F031:1702:AF14 2022年8月10日 (水) 02:01 (UTC)[返信]
返信 うーん、結局のところ私はIPユーザーさん(2400:2410:C1A3:5300:7419:F031:1702:AF14さん)の記事編集について、特に大きく反対してはいないんですね。それは結局、IPユーザーさんの記事編集自体には大きな問題が無いと判断しているからです。英語の学術論文を出典にして記事編集なさってきた点は、WP:RSをかなり遵守なさっているのではないかと思われます。
私の一番の主張は要約欄で記入したように、IPユーザーである皆さんに方針「Wikipedia:署名」とガイドライン「Wikipedia:説明責任」に従ってログインユーザーになってほしいということです。特に方針は(おそらくご存知の通り)、「多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべき」とされていますから。
言い換えればIPユーザーである皆さんは、皆さんが行った記事編集が素晴らしい内容か否かとは関係なく、ログインすることが推奨されているのです。--33メルメル会話2022年8月10日 (水) 16:12 (UTC)[返信]

項目の順番の変更について[編集]

項目の順番を下記のようにしたいと思います。「唯一神」の項目については、このページの下部のページに該当するように思われますので、一番最後にしました。この項目は、削除しても支障はないと考えます。また、歴史としてみるならば、「インド・ヨーロッパ語族の一神教」は、アブラハムの宗教より古いと思われますので、歴史の最初に持ってきました。

1概要 2詳説 2.1語源 2.2分類 2.2.1広義的な一神教 2.3歴史 3インド・ヨーロッパ語族の一神教 4アブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム)について 5ユーラシアの一神教 6アフロ・ユーラシアの一神教 7その他の一神教 9一神教と多神教の融合・習合 8唯一神について  --Tokinokawa会話2022年7月10日 (日) 20:28 (UTC)[返信]

順序についてですが、まずユーラシアアフロ・ユーラシアという普段使わない地理用語は使用すべきでないと思います。アフロ・ユーラシア等の地理項目名は荒らしと見られる編集(ノート:一神教#宗教学、宗教人類学と無関係の一般書を出典する荒らし的な編集について)にて導入されましたが、荒らしが書いたからという理由でなく単に分かりにくいため、分かりやすい地理分類に変えるべきです。ちなみに英語版の一神教記事では「語源」の直後に「歴史」が配置されるなど参考になるかと思います。--2400:2410:C1A3:5300:FB18:C896:B039:123E 2022年7月12日 (火) 13:48 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。確かに地理分類は解りずらいと感じました。そこで、項目を入れ替えるだけではなく、地理分類的な項目自体をやめて、「語源」の次にある「分類」の項目に沿って、「広義の意味における一神教(単一神教や拝一神教)」と「絶対的な一神教(狭義の意味における一神教)」とに分ける方向で編集したいと思いました。--Tokinokawa会話2022年7月12日 (火) 22:37 (UTC)[返信]

内容と項目をだいたい以下のように変えたいと思います。

一神教(いっしんきょう)とは、ひとつの信仰する信仰、宗教の形態のこと<広辞苑第六版【一神教】>。神や超越者(信仰、儀礼、畏怖等の対象)が単独で存在する宗教。対義語に多数の神を信仰する多神教がある。

1概要  2分類  3広義の意味における一神教  3-2その他の一神教  4狭義の意味における一神教  5歴史   --Tokinokawa会話) 2022年7月26日 (火) 00:50 (UTC) 本文の一部を修正しました。--Tokinokawa会話2022年7月31日 (日) 15:29 (UTC)   [返信]

2022年7月31日 (日) 16:16‎ Tokinokawa 会話 投稿記録‎ 82,927バイト −14,419‎ 一部修正、一部追記 での荒らし的編集に関してです。
ノート:人生等ではGLA (宗教法人)なる新興宗教団体と関連ありとして荒らし行為を批判されていますね?以前にも他の方に指摘されているように、wikipediaでの編集方針を良く読み理解してから編集するようにしてください。あなたは適切な出典のある内容を大量削除して、国語辞典の出典をもとに編集しようとしています。宗教史宗教人類学の観点からは研究史のガイドラインを参照してください。独自の知見またはガイドラインに即しない個人的な独断による取り捨ては独自研究にあたります(Wikipedia:信頼できる情報源#研究史・史学史という観点)。以後は適切な2次資料を出典にしてください。最後にWikipediaは百科事典であり国語辞典ではありません。--2400:2410:C1A3:5300:60C7:B54C:7282:4BA1 2022年7月31日 (日) 23:20 (UTC)[返信]
一応、「一神教(いっしんきょう)とは、ひとつの信仰する信仰、宗教の形態のこと<広辞苑第六版【一神教】>。神や超越者(信仰、儀礼、畏怖等の対象)が単独で存在する宗教。対義語に多数の神を信仰する多神教がある。」という風に変えます、という書き込みを、ここのノートページに書いたのですが、これについては、ノーコメントでしたので、本文に移行した次第です。百科事典であっても、国語としておかしい記述は誤っていると思われます。唯一神教が主流の国では、一神教=唯一神教という言語形態しかないように感じます。日本語での「拝一神教」という日本語を、英語に直すのは困難だったという記憶があります。日本語としてみるならば、宗教の「神」の下に、「一神(単神)」と「多神」があり、「一神」の下に、「唯一神」が位置しているように思われます。また、「宗教」の下に、「一神教」があり、一神教の中に、「単一神教」と「拝一神教」と、「絶対的一神教」とがあるように思われます。「唯一神教」は、絶対的一神教の下に位置するようです。そういう考えから、「一神教(いっしんきょう)とは、ひとつの信仰する信仰、宗教の形態のこと<広辞苑第六版【一神教】>。」という文を移行した次第です。現在の、「一神教(いっしんきょう、monotheism)とは、神は唯一であり、普遍的に神と呼ばれる至高の存在であるという信仰である」という文と比べてみて、日本語としてどう思うのかについて、聞かせていただければと思います。量の大小ではなく、誤った認識を修正するために、本文の「唯一神教」に偏った部分を修正したところ、結果的に適切でない部分が大量にあった、ということになりました。「一神教=唯一神教」という認識を、真と見るか偽と見るかで、本文は大きく変わってしまう、という状況にあるのだと思います。なお、「唯一神に偏った部分は修正します」、ということは、あらかじめ上に書いておきましたので、「荒らし的」編集というのは、該当しないと思います。2400:2410:C1A3:5300:60C7:B54C:7282:4BA1|2400:2410:C1A3:5300:60C7:B54C:7282:4BA1さん自身にそう見えるだけではないでしょうか。また、項目の入れ替えに関してはまだ実施していません。--Tokinokawa会話2022年8月1日 (月) 01:31 (UTC)[返信]
あなたの個人の知見をもとに取り捨てすることは独自研究にあたります(WP:NOR)。あなたが参考としている広辞苑国語辞典であり百科辞典であるWikipediaの出典としては適当ではありません(WP:RS)。この記事で使用されている岩波キリスト教辞典複数の宗教学の専門家の記名のある三次資料であり、一般論として使うべきではありませんが、他に2次資料がなく、より信頼性の高い2次資料と矛盾しない内容ならば使用の妥当性は認められます。あなたの編集は適切な2次資料のある内容の大量削除であり、その論拠がwikipediaガイドラインの定める信頼性のない情報源および独自研究であるため、荒らしと見なされるのは仕方ないと思います。宗教史宗教人類学で遵守すべき点については、研究史のガイドラインを参照してください。独自の知見またはガイドラインに即しない個人的な独断による取り捨ては独自研究にあたりますWikipedia:信頼できる情報源#研究史・史学史という観点)。荒らしと見なされたくないのであれば、適切な2次資料を出典にしてください(WP:RS)。再度言いますがWikipediaは百科事典であり国語辞典ではありません。もしあなたが荒らしでないのなら、宗教史宗教人類学比較宗教学宗教哲学専門家が執筆した信頼できる2次資料、つまりピアレビュージャーナルに掲載された査読論文やモノグラフ等のガイドラインで認められた信頼できる情報源を出典としてください。Wikipedia:信頼できる情報源#信頼できる情報源の発見・アクセス方法にあるように、CiNiiKAKENで情報を見つけてください。--2400:2410:C1A3:5300:60C7:B54C:7282:4BA1 2022年8月1日 (月) 02:01 (UTC)[返信]

──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────── コメント こんにちは、私は33メルメルと申します。IPユーザーさん(2400:2410:C1A3:5300:60C7:B54C:7282:4BA1さん)にはまず、この節より上の節で私が申し上げた内容をご確認いただきたく思います。方針とガイドラインで、ウィキペディア編集者はログインユーザーとして活動することが推奨されています。

また一応、方針の「Wikipedia:個人攻撃はしない」と「Wikipedia:礼儀を忘れない」(WP:CIV)、ガイドラインの「Wikipedia:善意にとる」にも軽く目を通していただければ幸いです。例えばWP:CIVでは

  • 「大きなお世話です」
  • 「不注意な誤字を修正した」
  • 「編集のしかたも知らないのか」
  • 「(こんな間違いをする人は)ウィキペディアに来ない方がいいよ」

というような発言は禁じられています。「誰かを嘘つき呼ばわりすること、相手が誹謗中傷しているといって非難すること。たとえそれが事実であっても、こうした発言は争いを解決するよりもむしろ悪化させます」ともされています。IPユーザーさんの発言内容を拝見すると、「まともな宗教学・宗教史の手順を馬鹿にしてるようにも感じられる」「荒らしと見なされたくないのであれば~」といった態度は、IPユーザーさんにとって不利な評価がコミュニティ(や管理者さん)から下される可能性があるように思われます。--33メルメル会話2022年8月8日 (月) 10:19 (UTC)[返信]

荒らしに関する対応については了解しました。まず理解していただきたいのは、これらのコメントを書いた際に私が参考にした記事です。
個人攻撃を禁じたり、無礼な振る舞いを禁じたりする方針などが、利用者を荒らしや個人攻撃から守るためではなく、利用者の行った編集を論評から守るために頻繁に引用されています。じゃまな編集ばかりしている編集者は文字通りじゃまな編集者です。特定の観点を推してばかりいる利用者は偏向編集者です。荒らしてばかりいる利用者は荒らしです。こういった利用者に話しかける際に言葉を飾る必要はありません。ただし、ありのまま言うことはきちんとした編集者の仕事の一部ですが、その際には礼儀を忘れてはいけません。 — Wikipedia:ありのまま言う(私論)
記事から全ての、あるいはまとまった部分の記述を理由もなく除去したり、ページ全体を無意味な内容に置き換えてしまうのが、白紙化荒らしです。時には、出典のある情報や重要な検証可能な参考文献が、要約欄に正当な理由を書かずに除去されることもあります。 — Wikipedia:荒らし#不当な白紙化
問題の編集には要約欄に白紙化の正当な理由が書かれていません。私は荒らしの条件を満たしているとの印象をうけました。
2022年7月31日 (日) 16:16‎ Tokinokawa 会話 投稿記録‎ 82,927バイト −14,419‎ 一部修正、一部追記
33メルメルさんの『「まともな宗教学・宗教史の手順を馬鹿にしてるようにも感じられる」「荒らしと見なされたくないのであれば~」といった態度』のコメントについては、礼儀正しくしようとは思うものの、これが例として上げられた無礼な表現に相当するかは、個人によって異なる主観的なものにも見えます。33メルメルさんの言われていることは私の態度が気に食わないとのことでしょうので、そう思われたなら申し訳ありませんが、33メルメルさんの見解を拡大するならば、「荒らしによる編集を取り消しました」との管理者の要約でさえ、個人攻撃にあたるのではないでしょうか?--2400:2410:C1A3:5300:7419:F031:1702:AF14 2022年8月10日 (水) 02:15 (UTC)[返信]
返信 Wikipedia:ありのまま言う」は、IPユーザーさんご自身が「私論」と引用されているように、ちょっと根拠としては弱いかなと思います。方針は「すべての利用者が従うべき」で、ガイドラインは「従うことが推奨され」ていると定義されていますが、私論は「内容の是非については慎重に検討してください」止まりですので。もしIPユーザーさんが荒らし報告(またはアカウント取得して投稿ブロック依頼)をなさるなら、方針とガイドラインを根拠となさることをオススメいたします。荒らし対処だけでなく、Wikipedia内のどの行動もルールは同じですから。
WP:CIVなどの方針とガイドラインについてですが、例えば「まともな宗教学・宗教史の手順を遵守していないようにも感じられる」「完璧な記事に少しでも近づけるためにも~」といった書き方の方が、IPユーザーさんにとって不利になりにくいかなと思います。
なおWikipediaの管理者さんは、強力な権限を持ってはいても私たちと同じ人間ですので、管理者さんによる方針違反も見かけます。あまりに問題がある場合、Wikipedia:管理者の解任が行われますね。(ただ私の私論ですが、管理者さんのルール違反は一般利用者さんに比べて、厳しい処分を受けない傾向が感じられることはあります。試しに「wikipedia 管理者 独裁」とググっていただくと、そういう意見も色々あることがご納得いただけるかもしれません。) いずれにせよ、Wikipediaでは方針とガイドラインがまず大前提ですね。そしてどの利用者さんを投稿ブロックするかは管理者さんが決定なさっています。--33メルメル会話2022年8月10日 (水) 16:12 (UTC)[返信]
助言については人によって主観的判断は異なり、悪く受け取りうる人もいるでしょうから参考にさせて頂きます。英語版ではWikipedia:ありのまま言うの他に私論として(33メルメルさんの意見に似た)荒らしを荒らしと言うべきでないとの記事がありますが、方針にはなっていません。荒らしを荒らしとありのまま言うべきか(または言わないべきか)の点においてコミュニティのコンセンサスは英語版でさえ取れていないようです。またWikipedia:ありのまま言うは私論であっても同一コミュニティ内の意見です。33メルメルさんはそれが正しくないと考えるなら、Wikipedia:ありのまま言うのノートであなたの私見を表明し、隠れずに堂々と彼らが方針・ガイドラインに違反していると指摘することができます。
またそれとは別に気になる事もあります。
  • 33メルメルさんはWikipediaでは方針が絶対と言いつつ、非専門家の一般書を押したり、Wikipedia:中立的な観点を無視して学術的定説と矛盾する少数派の観点の正当化を試みることで明白な方針違反を擁護しており、自己矛盾しているのではないか?つまりルールの都合の良い文言だけ抜き出して、それを適用する相手や内容を選別しているのではないかとの懸念を持っています。
  • 一部の編集者(例えば外国語の出典をしてる等の理由で個人攻撃をしているユーザー)はこのノートでも個人攻撃をしているが、33メルメルさんは当該投稿については無視しています。
実際には方針に一致しない意見を裏付けるものとして、方針から都合よい文言だけを抜き出す(または、都合よくある方針を当てはめ、故意に他の方針を無視する) — Wikipedia:規則の悪用
実際には方針に矛盾する見解や立場だと知りながら、あるいはそう偽って、保護や正当化を求めたり、方針の文言に裏付けられていると主張する。 — Wikipedia:規則の悪用
  • 33メルメルさんはWikipedia:規則の悪用を提案中であるため軽視なされていますが、その記事は英語版wikipedia(en:Wikipedia:Gaming the system)の転載であり、英語版では提案中ではありません。従ってこうした規制を悪用して新興宗教が宣伝を行う等の規則悪用が英語圏でも頻繁におきていると考えて良いでしょう。
一神教等の宗教の記事では学術的定説と真っ向から矛盾するような(少数派の)主張や、無出典または無効な出典を使った編集が頻発しています。これは(敵視する宗教を腐りきった外道が信仰する邪教、弾圧すべき悪の宗教と信じこませる等、敵対的視点で自宗教の正当性を相対的に高めようとする)新宗教の宣伝かもしれないし、日本人が西洋人より(道徳的または精神的に)優越してることの証明として用いるため等、様々な理由が考えられますが、一神教の記事にこれだけ規制の代弁者(本人の自発か、宗教宣伝側のクレームによってかに関わらず)が現れる理由の説明になると思います。--2400:2410:C1A3:5300:C409:F3EF:DCE0:621E 2022年8月14日 (日) 04:25 (UTC)[返信]
返信 私の主張は要約すれば、この編集[4]の上半分にあるコメントです。つまり、ログインユーザーとしての編集を推奨する方針とガイドラインですね。この他にも議論はしようと思えばできるとは思いますが、話題がウィキペディアにおける記事(一神教)編集の話題から遠ざかってしまうように思われます。
(もし記事の「編集」と直接関係ない事柄、例えば荒らし対処をお望みであるなら、まずは「Wikipedia:荒らしの通報」が一番手っ取り早いかなと思います。「Wikipedia:コメント依頼」は「議論に参加する人が増えれば、早期に問題が解決したり、合意が形成される可能性は高まります」としているので、コメント依頼を出して議論参加者を募るのもいいかもしれません。)--33メルメル会話2022年8月16日 (火) 04:38 (UTC)[返信]
報告 IPユーザーさんは短期間でIPが変わり会話ページへのお知らせが届かないこともあり得るため、やむを得ずこちらでもコメントいたします。「Wikipedia:コメント依頼/IP:60.117.32.138 2400:2410:c1a3:5300:xxxx 2回目」を提出しましたので、「被依頼者のコメント」の節でコメントをお願いいたします。--33メルメル会話2022年9月2日 (金) 13:14 (UTC)[返信]
コメント依頼2回目とのことですが、記憶ではもう少し出ていたはずです。引用されているXyyさんのコメント依頼には後述する小出-小坂井さんからしか反応が無く(管理者等からのコメントはなし)、33メルメルさんの依頼に反応をする方には注目しています。
  • Xyyさんについてはソックパペットとの理由でブロック依頼を出していたはずですが、管理者に無視されていたとの記憶があります。直接的な関わりとしては攻撃的な姿勢(人身攻撃)が全面に押し出されており、話しのキャッチボールが全く通じなくて困ったことと、Xyyさんが紀要論文をガイドラインに違反して出典とした事を注意したことぐらいです。当時はかなり個人的に受け取られたようで、脅迫ともとれる言動がありましたが、その後ブロック依頼等は出ていないという理解です。神道、神国思想、豊臣秀吉に関わるトピックに過敏に反応される方として覚えがあり、利用者:小出-小坂井さんに共闘を呼びかける等の書き込みがあったと記憶しています。
  • Xyyさんのコメント依頼で唯一反応した利用者:小出-小坂井さんについては「利用者:小出-小坂井さんの会話」で分かる通り最終的には諦めたという理解です。Category:小出-小坂井の操り人形だと疑われるユーザーの項目がある通り、マルチユーザーアカウントと見られる方とのやり取りは今回が初めてではありません。利用者‐会話:小出-小坂井#投稿ブロック依頼提出のお知らせによりブロックされたようですが、この方に合意形成する意志はみえず議論のための議論に終始するため、終わりが見えず対応に難儀したと記憶しています。
この二人は告知テンプレートを使った不当な規制悪用をしてはいないため、一神教汎神論汎心論の記事で不当な警告を繰り返すユーザーの特殊性を浮き彫りにしてくれる好例かと思います。
  • 汎心論については「汎心論とアニミズムを同義とする」珍説の画像を消したことで、投稿したと見られるIPユーザーが感情的になり、人身攻撃ともとれる文を含むコメント依頼が行われたはずです。依頼数にはそれも含むと良いでしょう。汎神論と似ているのは、当事者が規制警察をよそおって人身攻撃や恫喝を繰り返したり、告知テンプレートを悪用する事、新興宗教信者が宗教宣伝や勧誘のために固執するであろう特定宗教トピックの書き込みへの擁護の姿勢が顕著に見られるため、汎神論一神教のユーザーと同じグループに所属している可能性も否定できませんね。
最後に繰り返しますが、33メルメルさんは人身攻撃に逃げずに、Wikipedia:ありのまま言うのノートであなたの私見を表明し、逃げ隠れせずに堂々と彼らが方針・ガイドラインに違反していると指摘することができます。もしくは他のIPユーザーさんに対してもユーザー登録していないとの理由でルール違反であると長文で糾弾することで自己矛盾に陥らずにすむかもしれません。--2400:2410:C1A3:5300:D546:E4B:CF31:FCCF 2022年9月3日 (土) 05:59 (UTC)[返信]
返信 複数のページへ議論が拡散することを防ぐためにも、利用者についてのコメントはコメント依頼ページでお願いします。「記事のノートページは記事を改善するための議論の場」とガイドラインにもあります。--33メルメル会話2022年9月16日 (金) 14:20 (UTC)[返信]
情報 その後、コメント依頼の被依頼者であるIPユーザーさん(2400:2410:C1A3:5300:D546:E4B:CF31:FCCFさん)は2022年9月3日 (土) 05:59 (UTC) 以降、返答されていませんが、編集活動は「汎神論」などで続行されているようです[5]。なおこの「一神教」記事は、VPNのIPによる多重アカウント荒らしが続いたことで半保護されました[6][7]。--33メルメル会話2022年9月25日 (日) 13:37 (UTC)[返信]
まず「ノートページは「記事」について議論するための場」であり、ノートページ内での細かな言葉使いやアカウント登録について議論する場ではありません。33メルメルさんは今後はこの手の記事と無関係な通知文は控えて、コメント依頼で議論してください。今後そうした文章をノートページで投稿されても、返答は一切しません。
ノート:一神教#信頼できる情報源の評価で提案している通り、非専門家の一般書を出典とせず、CiNiiやKAKENで専門家の著述した信頼できる情報を見つけるようにしてください。これが私からの唯一で最終的な提案です。--2400:2410:C1A3:5300:C952:7F15:FD7:39F1 2022年9月26日 (月) 13:50 (UTC)[返信]
返信 ノートページでIPユーザーさん(2400:2410:C1A3:5300:C952:7F15:FD7:39F1)へ呼びかけたのは前述の通り"やむを得ず"な行動でしたが、井戸端で第三者の方からご提案いただいた呼びかけ方法の一つでもあります[8]
しかし以前にも申し上げたように、記事改善のための議論と直接関係の無いコメントはコメント依頼ページでお願いします(私が外国語出典に関して"コメント依頼での特殊な主張"をしている、私と多重アカウント荒らしが同一人物ではないのか、等々)。なお同依頼ページでコメントしたように、"「一神教」と「汎神論」自体に対する執筆・編集においては、依頼者(33メルメル)と被依頼者さんとで大きな対立はないと私は思っています"[9]。--33メルメル会話2022年9月30日 (金) 12:56 (UTC)[返信]
「ノートページは「記事」について議論するための場」であり、ノートページ内での細かな言葉使いやアカウント登録について議論する場ではありません。33メルメルさんは今後はこの手の記事と無関係な通知文は控えて、コメント依頼で議論してください。今後そうした文章をノートページで投稿されても、返答は一切しません。--2400:2410:C1A3:5300:776:A7C0:E15B:AF31 2022年10月2日 (日) 12:28 (UTC)[返信]
  1. ^ a b "This is not a book to withstand the close scrutiny of academic experts but then it does not really invite that scrutiny." Occidentalism: The West in the Eyes of its Enemies, by Ian Buruma and Avishai Margalit, Strategic Insights, Volume III, Issue 5 (May 2004)
  2. ^ 以下の研究活動を主として行っている。(1)トーマス・マン研究(主として『魔の山』、日本におけるマン受容)(2)インゲボルク・バッハマン研究(主として『三十歳』、『ウンディーネ行く』)(3)黙示録的アレゴリーの研究(黙示録、アレゴリー、象徴)(4)「水の女」の身体論的研究(ゲーテ、ロマン派、ハイネ、アンデルセン)(5)ルードルフ・カスナー研究(観相学、尺度、想像力)
  3. ^ この論文で大きな役割を果たしたとされるディミトリー・メレシュコフスキーは自らを預言者と自称しており、また当該編集はこの論文から、異端主義であるヨアキム主義キリスト教神学であると断定しているように見えます。近世以降のあらゆる革命とフィオーレのヨアキムを異端主義思想家として紐付ける古典的な陰謀論解釈はそれなりに一般的なようですが、この論文では『とはいえ,「第三の国」をめぐる言説が,イプセン受容とメレシコフスキー受容を経て,第一次世界大戦後の日本において民本主義と,大戦後のドイツにおいて共和国支持と結びついたということ」とし、異端主義思想家から自称預言者や文学者を通じてドイツの政治に伝播(実際の政治的影響は全く検討されていない)したというテーマを提示しており、北欧神話ゲルマン神話多神教)と結びつけられることが多いナチス・ドイツとの直接的な関係を提示しているわけではありません。一般に認知された権威ある宗教家・神学者でなく、ある種の神秘主義者、カルト宗教教祖(ディミトリー・メレシュコフスキーはナチス支持者)を通じた間接的なナチスとのリンクしか論じられておらず、大量の文字データを宗教学の専門家の著述から選ばれた出典の中で目立つ位置に投稿するのはまともな宗教学・宗教史の手順を馬鹿にしてるようにも感じられる。これによっってWikipedia:信頼できる情報源#中立的な観点との兼ね合いにあるように珍説の過剰評価、定説の過小評価が認められる。
  4. ^ Google Scholarでの被引用にあるブックレビューでは、学術的な精査に耐えられない資料との評価をうけてることが確認でき、wikipedia ではこうした特別な主張をする書籍を直接出典とせずジャーナルのブックレビューを出典とする方が適切でしょう。宗教学宗教人類学宗教哲学の専門家の著作でさえないため、土台から適切でない。