クルト・ツァイツラー

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ツィイツラー大佐(1941年)

クルト・ツァイツラーKurt Zeitzler, 1895年6月9日1963年9月25日)は、ドイツ軍人第二次世界大戦中に陸軍総司令部参謀長を務めた。

経歴[編集]

ブランデンブルク州ゴスマー(現ハイデンブリック市)生まれ。第一次世界大戦勃発直前の1914年3月にドイツ帝国陸軍に入る。大戦中、抜群の勇敢さを賞され士官に任官。ヴァイマル共和国では国防軍で参謀将校となる。1937年までに中佐に昇進。のち陸軍総司令部に転属となり、1939年6月に大佐に昇進。

第二次世界大戦勃発とともに第14軍第22軍団参謀長となり、ポーランド侵攻に従軍。翌年フォン・クライスト将軍のA装甲集団参謀長となり、西方電撃戦バルカン半島の戦いバルバロッサ作戦に従軍。1941年5月、戦功により騎士鉄十字章。同年10月、第1装甲軍参謀長。翌1942年2月、少将に昇進。4月、フォン・ルントシュテット元帥のD軍集団参謀長に転じる。同年9月、一足飛びに歩兵大将に昇進し、ヒトラーと対立し更迭されたフランツ・ハルダーの後任として陸軍総司令部参謀長に任命される。

ツァイツラーの参謀長大抜擢は、彼の報告が楽観的な調子に満ちていることをヒトラーに買われてのもので、序列からいえばきわめて異例な人事だった。これは国防軍の「プロ」の軍人が主張する手堅い戦略に不満を持っていたヒトラーが、自ら戦略に容喙してよりリスクの大きい作戦を押し付けることと表裏一体だった。直後のスターリングラードの戦いにおいては、ツァイツラーはスターリングラードに包囲されたパウルスの第6軍の脱出を具申し、心労のあまり飢える第6軍の兵士たちと同量の食事しか摂らず痩せ細ったが、ヒトラーは最後まで第6軍の撤退・救出を拒み、マルティン・ボルマンから彼がダイエット中と説明されたため、「ダイエット」をやめるよう命じたという。しかし第6軍の降伏後、モスクワおよびレニングラード前面からの後退を勧めたツァイツラーの具申は受け入れられた。

ベルヒテスガーデン、オーバーザルツベルクに残る地下壕(現在は現代史博物館)

1944年1月、上級大将に昇進。しかし彼が担当する東部戦線の戦局は日に日に悪化し、クリミア半島を失いクルスク攻勢も成功しなかった。また、西部戦線でも6月6日、連合軍ノルマンディーに上陸した。強気のヒトラーとは対照的に、戦線維持に悲観的だったツァイツラーは自らの参謀長解任を申し出たが、ヒトラーに拒まれた。1944年6月9日、ベルヒテスガーデンのベルクホーフ山荘でヒトラーと戦況を協議していたツァイツラーは発作で倒れた(神経衰弱に陥ったツァイツラーが無断でベルクホーフを立ち去ったため、病気ということにされたともいう)。翌月10日にツァイツラーは(希望通り)解任され、後任にハインツ・グデーリアンが任命されるまでアドルフ・ホイジンガーが職務を代行した。

ちょうどその頃、副官のギュンター・スメントde:Günther Smend)がツァイツラーにヒトラー暗殺計画に加わるよう説得していたが、彼は拒んだ。スメントは7月20日の計画失敗後に逮捕され処刑されている。1945年1月、ドイツ国防軍を退役。終戦後はイギリス軍の捕虜となり、1947年2月に釈放された。バイエルン州キームガウ地方のホーエンアシャウで死去。


先代:
フランツ・ハルダー
陸軍総司令部参謀長
1942年-1944年
次代:
ハインツ・グデーリアン