エサルハドン

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エサルハドンEsarhaddon、在位:紀元前681年 - 紀元前669年)は新アッシリア王国時代に、その絶頂期を統治したの一人である。アッカド語ではアッシュール・アハ・イディナ(Ashur aha iddina )と表記される。

来歴[編集]

王位継承戦争[編集]

エサルハドンは、アッシリア王センナケリブの末子として王妃の一人ナキア(ザクトゥ)との間に生まれた。幼少期より病弱であったと伝えられる。紀元前694年に長兄アッシュール・ナディン・シュミエラムフンバンタラ朝ロシア語版)との戦いで行方不明になったため後継問題が生じ、ナキアの尽力によって後継者に指名されたが、これを心良く思わなかった他の兄達と対立した。

彼自身が残した碑文によれば、兄達によって盛んに讒言がなされたために身の危険を感じ、首都を脱出して身を隠した。この時恐らく現在のアナトリア南東部付近まで亡命した(追放説あり)。そして紀元前681年センナケリブが他の兄達によって暗殺されると、エサルハドンは王位継承戦争を戦い、ハニガルバトで兄達の軍を破って勝利してニネヴェに戻った。これらの6週間あまりの戦いの後アッシリア王位を獲得した。[1]

敵対した兄達を殺害した後、エサルハドンは父王センナケリブが破壊したバビロン市の再建に取り組んだ。現在残されているバビロンの遺跡は殆ど彼が再建した後のバビロンである。このバビロン再建はバビロニアとの緊張緩和を齎し、バビロニア地域の反乱は彼の治世中目立って発生することはなかった。そして彼もまた歴代のアッシリア王と同じく盛んに軍事遠征を起こした。

征服活動[編集]

エサルハドンは即位直後、南部メソポタミアの流浪民を討伐した。

紀元前679年キンメリア人と戦ってこれを破り、北部の国境を安定させた。 紀元前676年頃にはザグロス山脈タウロス山脈方面に遠征して現地を押さえ、更にイシュクザーヤ(スキタイ)の王バルタトゥア英語版[2]に娘を嫁がせて遊牧民との関係改善を図り、同時期にバビロニアに侵攻したエラム軍を破った。 紀元前673年ウラルトゥの王ルサ2世(ルシャス2世)と戦った。

エサルハドンの軍事遠征の中でも最大のものは紀元前671年ユダヒゼキヤエジプトタハルカ英語版が結んだのに対しておこしたエジプト遠征である。この戦いでアッシリア軍は当初水不足に苦しみエジプト軍に敗れたが、最終的にはエジプト軍を破りタハルカは逃亡、アッシリアはその後メンフィスを占領した。エジプト征服はかつてアッシリアが初めてバビロニアを征服したことと並ぶ歴史的偉業として大きく記録された。また彼は自分の功績を更に誇張し「上下エジプトとエチオピアの王」を称した。

しかし、彼のエジプト支配は安定せず、紀元前669年フェニキアの都市ティルスがエジプトと結んでアッシリアに反逆したためこれを討伐。更にエジプトの反乱を鎮圧するためにエジプトへ再遠征を行うも、その途中で陣没した。

エサルハドンの病[編集]

上記のような華々しい戦績と裏腹に、エサルハドン自身は非常に迷信深くまた病弱な王であった。エサルハドンは占いに関する史料を多く残している人物である。彼は多数の祈祷師占星術師を周囲においており、あらゆる行動に関してその吉凶を占わせて確認を取っていたほか、悪霊払いの儀式をたびたび行っていた事が、彼に宛てられた部下の書簡から確認される。他に彼の時代からアッシリアで盛んに行われるようになった占いとして、生贄の動物を殺して内臓を取り出し、その内臓の状態によって未来を予測する内臓占いがある。また、古来よりメソポタミアで王にとって不吉とされた日食月食を恐れており、彼の寵臣にはアダド・シュマ・ウツルやマール・イシュタルなどの占星術師が名を連ねた。

こうした占いはもちろんいつの時代も行われていたが、エサルハドンの占いに関する残存史料は歴代王の中でも群を抜いている。また彼は発熱を繰り返していたらしく、病気治癒のための儀式も繰り返し行われている。こういったことから、エサルハドンが神経症を患っていたと考える学者もいる。真実神経症であったかどうかは不明であるが、そう考えられるほどに彼は悪霊や凶兆を恐れていた。

王位継承問題[編集]

エサルハドンは自らの王位継承の経緯から、自分の息子達の王位継承に関して生前に様々な方策を講じた。自分の息子達のうち、長男のシャマシュ・シュム・ウキンバビロニア王とし、別の息子アッシュールバニパルをアッシリア王としアッシュール・バニパルを上位とした。そして有力臣下等を集めて王位継承に関する取り決めを遵守する事を誓わせる誓約の儀式を大々的に執り行った。この誓約に関する残存史料はかなりの数にのぼり、属国に対しても条約の形で要求された。これは属王条約と呼ばれ中でもメディアに対する属王条約はアッシリアにおいて現存する最長の条約文書である。これらからもエサルハドンが如何に気を砕いたかが推察される。またこれらの決定には彼の母ナキアが関与していたと言われる。

彼の死後しばらくの間この誓約は守られたが、やがて二人の兄弟は内戦を起こし、シャマシュ・シュム・ウキンは敗死する事となる。

脚注[編集]

  1. ^ Ernest A. Budge, "The History of Esarhaddon, King of Assyria, B.C. 681-688", (2010) ISBN 110801710X
  2. ^ バルタトゥア英語版古代ペルシア語英語版: *Partatava)は、ヘロドトス歴史』に登場する「プロトテュエス」(古典ギリシア語: Προτοθύες - Protothyes)とされる。林俊雄『興亡の世界史02 スキタイと匈奴』(講談社、2007年、ISBN 9784062807029),p92-93
先代:
センナケリブ
新アッシリア王
前681年 - 前669年
次代:
アッシュールバニパル
先代:
センナケリブ
バビロニア王
109代
前681 - 669
次代:
シャマシュ・シュム・ウキン