ニップル

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紀元前2千年紀のメソポタミア南部の地図

ニップル(Nippur)は古代メソポタミア都市紀元前6千年紀頃から居住が始まりシュメール時代には最高神エンリルを都市神としたことから宗教的中心地となっていた。その後もメソポタミア世界における宗教的中心地として大国の激しい争奪が繰り広げられた。

遺跡[編集]

ニップル遺跡はバグダードの南東約160キロの位置にある。古代メソポタミアの都市遺跡の中でも多くの遺構が残っている遺跡である。都市は幅1.5km前後であり、最初の発掘は1851年、19世紀の発掘家の中でも最も高名な人物の一人、オースティン・ヘンリー・レヤード卿(Austen Henry Layard)によって行われ、以後各種の研究機関によって継続的に調査されている。数万点を超える粘土板文書がこの都市から発見されており、古代オリエント史研究において無視できない価値を持っている。

歴史[編集]

最高神エンリルを都市神としていたためシュメール初期王朝時代より聖地として争奪戦が繰り広げられ、また自らの功績を誇る支配者達によって繰り返し神殿などが寄進された。アッカド帝国のサルゴンは、エンリル神殿に自分の功績を記した碑文を納めた他、ウル第3王朝時代においては、シュルギ王の治世中に市街地や神殿の整備が行われている。

イシン・ラルサ時代[編集]

ニップル市の支配権が著しく重要な意味を持ったのはウル第3王朝末期頃からのイシン・ラルサ時代である。イシンの最初の王イシュビ・エッラは独立後間もなくニップル市を支配下に置いたが、その後イシンから独立したラルサ王朝はニップルの支配を目論んで両王朝は激しく争った。これは両王朝ともウル第3王朝の(つまりはシュメールの)正統な後継者である事を王権の拠り所とし、エンリル神によって王に任じられるという体裁を取っていたため、シュメールの宗教的中心地であったこの都市の支配は、政治的に極めて大きな意味を持っていたからである。最終的にはバビロン第1王朝の王ハンムラビによってバビロンの支配下に入った。

また、イシン・ラルサ時代頃には日常語としてのシュメール語は死語となっていったが、ニップル市はウル市と並んでシュメール語継承の中心的都市となった。

しかし、紀元前1739年にバビロン第1王朝で発生した大反乱によって、シュメール地方は壊滅的な被害を受けた。ニップル市自体は残存したものの都市は著しく荒廃し、都市機能は完全に失われた。

出土している粘土板の中に医療手引書のようなものがある。

 西洋ナシの樹皮と月草の花を一緒に挽き、それにクシュンマ・ワインを注いだ後、通常の油と熱した糸杉の油を混ぜる。大工草の種をマルカズィ・レーズンおよびタイムと一緒に挽いたものをビールに入れて飲ませる。乾燥させた水蛇の粉末にアンマ・シュムカスパル草、イバラの根、ナガ草の粉末、テレビンの粉末を混ぜたものに熱湯を注ぐ・・・・・それを患部にすり込む。

復興[編集]

崩壊したニップル市はその後、バビロニアに新たに侵入したカッシート人達の支配下に入った。バビロニア文化に傾倒し、シュメール文化をも復興させようとしたカッシート人達はニップル市を復興させ、各種の宗教施設を再建し、宗教都市としての機能を再び取り戻した。だが、この時代になると宗教的にも政治的にも重要性の比重はバビロン市に移っており、一定の重要性は維持したものの、かつて程の影響力を発揮することはなくなった。

その後、この都市は紀元後8世紀まで存続した。

その他の主なシュメール都市国家[編集]