エウク

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エウク
エウク湖の対岸から


紋章
エウクの位置(ポーランド内)
エウク
エウク
座標: 北緯53度49分17秒 東経22度21分44秒 / 北緯53.82139度 東経22.36222度 / 53.82139; 22.36222
ポーランドの旗 ポーランド
ヴァルミア・マズールィ県
エウク郡
基礎自治体 エウク(都市型自治体)
建設 1237年
町制施行 1445年
行政
 - 町長 トマシュ・アンドルキェヴィチ
面積
 - 計 22.07km2 (8.5mi2)
人口 (2011年)
 - 計 59,274人
 - 人口密度 2,685.7人/km² (6,956人/mi²)
等時帯 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
 - 夏時間 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
郵便番号 19-300
市外局番 +48 87
ナンバープレート NEL
ウェブサイト www.elk.pl

エウクポーランド語: Ełk[ɛu̯k] 1939年以前はウェング (Łęg) やウェンク (Łęk) とも)は、ポーランド北東部の町。ドイツ名De-Lyck.ogg リュック[ヘルプ/ファイル]ドイツ語: Lyckプロシア語:Luks)。人口6万1156人(2010年)。1999年に行政区画が再編され、スヴァウキ県からヴァルミア・マズールィ県の所属となった。エウク郡の中心地である。

市街は氷河によって形成されたエウク湖に臨み、森に囲まれている。この地方で最大、かつ最も人口密度の高い都市である。広大な森林では狩猟が営まれてきた。

歴史[編集]

エウクの古城

1283年までに、ポメラニアにおけるヨトヴィンギア人(スドヴィア人)の領袖スコマンド(リトアニア名スカルマンタス)は、この地のチュートン騎士団に降伏した。1323年にこの地方は北部がブランデンブルク管区、この町を含むそれよりも広大な地域がバルガ管区に分けられた。かつてプルーセンの開拓地であったこの町が記録に現れるのは1398年のこと、チュートン騎士団が城を築いたとある。町名の由来はさまざま言われている。ドイツ名の Lyck は、プロシア語Luksスイレンを意味する luka から)に由来するとされるが、草地を意味するポーランド語の łęg からきたとの説もある[1]。1445年に町となった。

1537年、プロイセン公アルブレヒトは重大な諸事情で[2]プロシア公領に逃れていた[3]クラクフの印刷工ヤン・マレツキに、印刷所の用地を寄進した[4]ルーテル派に改宗したマレツキは、マルティン・ルターの「小教理問答書」をポーランド語に翻訳、出版した[5]。1546年に市中に開校したマズーリ地方初の中等教育学校では、ポーランド・リトアニア共和国の貴族だけでなくプロシア公領のドイツ人もポーランド語で教えを受けた。

1709年から1710年に流行した疫病では、1300人が亡くなった[6]。1831年にはコレラが蔓延し、人口の約1割にあたる300人が犠牲となった。1837年に約80人、1852年にも333人が命を落とした[7]

1825年、リュックにはドイツ人が1748人とポーランド人が1394人いた[8]。19世紀初頭、ティモテウシュ・ギゼヴィウシュが市内にポーランド語学校を開くと[9]、1820年にそこの校長に着任したフリデリク・ティモテウシュ・クリェガーはポーランド人の母語を使用する権利を守ることに尽力した。クリェガーはまた、プロイセン当局のゲルマン化政策に抵抗して、ポーランド語の教育プログラムを作成した[10]

1840年、ドイツ語の新聞 Lycker gemeinnütziges Unterhaltungsblatt (後の Lycker Zeitung)が創刊された[11]。1842年から1845年にはマズーリ地方の新聞 Przyjaciel Ludu Łecki (ウェック人民の友)が、ゲルマン化に抵抗し、ポーランドの民俗文化を育み、農民を啓蒙することを目的として市内で印刷された[12][13]

1845年5月には、地元のポーランド人青年の決起をねらって、カズミェシュ・シュルツが市内のポーランド人の抵抗運動を組織した[14]

1896年から1902年まで市内で刊行されたポーランド語紙 Gazeta Ludowa は、ヴィエルコポルスカ地方の諸銀行から厚い支援を受けて[15][16]、マズーリにおけるポーランド国民運動の旗手となった[17]が、まもなくドイツ当局の弾圧と差別の標的となり、廃刊に追い込まれた[18]。1896年に357部あった発行部数は、世紀の変わり目には250部以下に落ち込んだ[19]ドイツ系アメリカ人の作家リチャード・ブランクは「廃刊は、マズーリにおけるジャーナリズムの橋頭堡を築こうとしたポーランド人ナショナリストの二度目の奮闘をくじくものであった」[20]

1880年に建てられた裁判所庁舎。現在は小学校
エウク大聖堂。1895年築

ドイツ当局のゲルマン化の強制に対抗すべく、ポーランド人とマズーリ人の活動家は1896年、市内でマズーリ人民党を結成した。市の中心部には今日、同党の共同設立者であるミハウ・カイカをたたえた記念碑がある[21]。結成当初から、党はプロイセン当局の過酷な弾圧と攻撃にさらされた[22]。1898年のドイツ連邦選挙でマズーリ人民党は229票を得たが、1912年には20票に激減した[23]

1910年、リュックの人口は1万3000人以上にふくらんでいた[24]。マテウシュ・シュフニニスキは1900年時点のポーランド人の比率を35.7%と算出したが、これはドイツの推計をもとにしている[25]ため信憑性に疑問が残る。第一次世界大戦ロシア帝国軍がこの地方を攻撃しはじめると、市民の多くが難民となったが、タンネンベルクの戦いとマズーリ湖畔の戦いが終わると帰還した。ヴェルサイユ条約締結後、イギリス軍イタリア軍の監視下で[26]行われた東プロイセン国民投票では、ドイツ残留が8339票、ポーランド編入が8票であった。

リュックではまた、国際的なユダヤ人ニュース雑誌 Ha-Magid が発刊されていた[27]ヴァイマル共和国では反ユダヤ感情が広まり、ナチスの権力掌握以前からユダヤ人が迫害の対象となっていた。ファシズムのシンパが集まる場所では、反ユダヤ誌 Die jüdische Überlegenheit (ユダヤの覇権)が配られた[28]。1932年には、地元の薬剤師レオ・フランケンシュタインの自宅に手榴弾が投げ込まれた[29]。1933年にナチスが権力の座につくと、反ユダヤのうねりは激しさを増し、多くの商人やユダヤ系知識人が逮捕された[29]水晶の夜には、町内でもユダヤ人商店やシナゴーグが襲撃され、荒らされた[29]。この事態に立ち至って、リュックのユダヤ人のなかには避難を決意する者もいた。ある者は外国に、ある者はベルリンに脱出し、ドイツから上海に逃れた者もいた[29]。残ったユダヤ人のうち、80人が各地の強制・絶滅収容所で虐殺された[29]

第二次世界大戦中、市内にはノルウェー兵とソビエト兵の捕虜収容所が置かれ、激しい爆撃を受けた[30][31]赤軍が進駐してきた1945年1月、リュック郡には5万3000人の住民がいた。それからポーランドの施政下に置かれた1945年4月以来、一貫してポーランドの一部をなしている。町は再建され、エウクと改称された(1939年まで、ポーランド名にはその他にウェングやウェンクがあった)。

人口の推移[編集]

人口
1499 600
1600 800
1782 2,000
1831 2,945
1875 5,912
1880 6,846
1890 9,981
1925 15,159
1933 15,512
1939 16,243
2011 59,274

一次資料をもとにしているため、偏見や先入観を含んでいる可能性がある。出典:[27][32][33][34][35][36]

地区[編集]

ツェントルム地区

エウク町は、ポーランドでオシェドラ (osiedla) と呼ばれる下記の13地区に分けられる。

  • バランキ (Baranki)
  • ツェントルム (Centrum)
  • イェジオルナ (Jeziorna)
  • コニェツキ (Konieczki)
  • オシェドレ・ボグダノヴィチャ (Osiedle Bogdanowicza)
  • オシェドレ・グルンヴァルドズキェ (Osiedle Grunwaldzkie)
  • オシェドレ・コハノフスキェゴ (Osiedle Kochanowskiego)
  • オシェドレ・ヴチャソヴェ (Osiedle Wczasowe)
  • ポド・ラセム (Pod Lasem)
  • プウノツ第一 (Północ I)
  • プウノツ第二 (Północ II)
  • シバ (Szyba)
  • ザトルゼ (Zatorze)

宗教[編集]

エウクの聖心教会
カトリック大神学校

第二次世界大戦前、町とその周辺の大多数(95%以上)はルーテル派であった[37]。戦後、ドイツ人が追放されると、多くのプロテスタントの教会が依然住民の信仰に重要な役割を及ぼしていたが、エウクではローマ・カトリックが中心的になった。プロテスタントにはメソジスト派バプテスト派ペンテコステ派アッセンブリーズ・オブ・ゴッド)、カリスマ運動(信仰のことば運動。エウクの教会はポーランドでも珍しく、女性(テレサ・オドレツカ氏)が牧師である)などがある。カトリック教会でエウクは、イェジ・マズール司祭が管掌するエウク教区の中心地である。

紋章[編集]

現在のエウクの町章は、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が訪れた後の1999年に制定された。以前の町章では緑であった地面が黄色になったほか、シカのデザインも変わった。さらに、法王の徽章が加えられた。

1967年まで、ヤーヌス神の双顔をあしらった別の紋章もあったが、その起源は定かでない[38]

ゆかりの人物[編集]

  • テオドール・シモン・フラタウ(1860年 - 1937年) ドイツ人医師
  • カロル・バールケ(1868年 - 1935年) ポーランド人活動家、ジャーナリスト、出版者
  • オットー・フォン・シュラーダー(1888年 - 1945年) ドイツ人提督
  • クルト・シュマンツィク(1923年 - 1983年) ドイツ人物理学者
  • ジークフリート・レンツ(1926年 - ) ドイツ人作家。レンツ生まれ。2011年、エウク名誉市民[39]
  • クラウス・ゲルヴィーン(1940年 - ) ドイツ人サッカー選手
  • レシェク・ブワジニスキ(1949年 - 1992年) ポーランド人ボクサー
  • ロマン・チェペ(1956年 - ) ポーランド人政治家
  • アンドジェイ・ズグトチニスキ(1958年 - ) ポーランド人サッカー選手
  • ツェザリー・ザマナ(1967年 - ) ポーランド人自転車選手
  • ミハウ・オルシェフスキ(1977年 - ) ポーランド人作家
  • パヴェウ・ソボレフスキ(1979年 - ) ポーランド人サッカー選手

歴代町長[編集]

  • アダム・プザ(1990年 - 1994年)
  • ズドジスワフ・ファドロフスキ(1994年 - 2002年)
  • ヤヌシュ・ノヴァコフスキ(2002年 - 2006年)
  • トマシュ・アンドルキェヴィチ(2006年 - )

姉妹都市[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Program Rewitalizacji Ełku, page 20 Załącznik nr 1 do Uchwały Nr LIII/493/10 Rady Miasta Ełku z dnia 25 maja 2010 roku
  2. ^ Frick, David (1989). Polish Sacred Philology in the Reformation and the Counter-Reformation: Chapters in the History of the Controversies (1551-1632). University of California Press. pp. 13. ISBN 0520097408. 
  3. ^ Kossert, Andreas (2005) (German). Ostpreussen – Geschichte und Mythos. Siedler. p. 60. ISBN 3-88680-808-4. ""Seit 1537 entfaltete der aus Polen geflüchtete protestantische Pfarrer Jan Maletius eine rege Übersetzungstätigkeit in Lyck"" 
  4. ^ *Popp, Dietmar; Suckale, Robert (2002) (German). Die Jagiellonen: Kunst und Kultur einer europäischen Dynastie an der Wende zur Neuzeit. Germanisches Nationalmuseum. p. 205. http://books.google.de/books?ei=TZQmT5roO8ju-gb3hfTjCA&hl=de&id=ZKGfAAAAMAAJ&dq=herzog+albrecht+lyck+maletius&q=maletius 2012年1月30日閲覧。. 
    *Hołd pruski Maria Bogucka, Wydawnictwo Interpress,page 137 1982
    *Archiwa, biblioteki i muzea kościelne, Tomy 69-70 Katolicki Uniwersytet Lubelski. Ośrodek Archiwów, Bibliotek i Muzeów Kościelnych, page 131 1998
  5. ^ Jakobson, Roman (1985). Selected Writings: Early Slavic Paths and Crossroads. Walter de Gruyther. p. 51. ISBN 3-11-010605-1. http://books.google.de/books?hl=de&id=2mdIpkJ5QWoC&dq=jan+malecki+luther&q=malecki#v=snippet&q=malecki&f=false 2012年1月30日閲覧。. 
  6. ^ Kossert, Andreas (2006). Masuren. Ostpreußens vergessener Süden. Pantheon. ISBN 3-570-55006-0.  (ドイツ語)
    Kossert, Andreas (2004). Mazury, Zapomniane południe Prus Wschodnich. ISBN 83-7383-067-7.  (ポーランド語)
  7. ^ Kossert, Andreas (2001). Masuren - Ostpreussens vergessener Süden. pp. 132. ISBN 3-570-55006-0. 
  8. ^ Historia Pomorza:(1815-1850),Gerard Labuda, Poznańskie Towarzystwo Przyjaciół Nauk,page 157, 1993
  9. ^ Karty z dziejów Mazur: wybór pism, Tom 1 Emilia Sukertowa-Biedrawina Pojezierze,page 68 1972
  10. ^ Tadeusz Oracki,page 173, Instytut Wydawniczy Pax, 1983
  11. ^ Weber, Reinhold (1983) (German). Masuren: Geschichte, Land und Leute. Rautenberg. p. 200. http://books.google.de/books?id=-P8rAAAAMAAJ&q=%22lycker+zeitung%22+1840&dq=%22lycker+zeitung%22+1840&hl=de&sa=X&ei=wUcmT9HtE8Hs-gb5iIXkCA&ved=0CEoQ6AEwBA 2012年1月30日閲覧。. 
  12. ^ Wielka encyklopedia powszechna PWN: Polska-Robe Bogdan Suchodolski, Państwowe Wydawnictwo Naukowe,page 566, 1967
  13. ^ Koncepcje i rozwój literatury dla ludu w latach 1773-1863 Eugenia Sławińska, Wyższa Szkoła Pedagogiczna w Bydgoszczy,page 45 1996
  14. ^ Rocznik gdański, Tom 48,Wydanie 2 Gdańskie Towarzystwo Naukowe, Gdańskie Towarzystwo Naukowe. Wydział I--Nauk Społecznych i Humanistycznych Gdańskie Towarzystwo Naukowe,page 73, 1990
  15. ^ Blanke, Richard (2001). Polish-speaking Germans? Language and national identity among the Masurians since 1871. Böhlau. pp. 65. ISBN 3-412-12000-6. http://books.google.de/books?id=vNV5uIIKJjkC&pg=PA65&dq=gazeta+ludowa&hl=de&sa=X&ei=rgYlT4CTFJDs-gazz5XKCA&ved=0CDwQ6AEwAg#v=onepage&q=%22gazeta%20ludowa%22&f=false. 
  16. ^ Kossert, Andreas (2001) (German). Masuren - Ostpreussens vergessener Süden. Siedler. pp. 210. http://books.google.de/books?id=0g5pAAAAMAAJ&q=%22gazeta+ludowa%22+lyck&dq=%22gazeta+ludowa%22+lyck&hl=de&sa=X&ei=YBolT8qbBMma-wa9-7WyCA&ved=0CD0Q6AEwAg. ""1896 wurde die Gazeta Ludowa (Volkszeitung) gegründet, die zum großen Teil von Banken aus Großpolen massiv unterstützt wurde. Nach einem Jahr hatte die hochsubventionierte Zeitung eine auflage von 2500 Exemplaren erreicht"" 
  17. ^ Zarys historii polskiego ruchu ludowego: makieta: Tom 1 Zjednoczone Stronnictwo Ludowe. Naczelny Komitet. Zakład Historii Ruchu Ludowego, Stanisław Kowalczyk, Józef Kowal, page 223- 1963
  18. ^ Szkice z dziejów Pomorza: Pomorze na progu dziejów najnowszych, Gerard Labuda Książka i Wiedza,"12.Gazeta Ludowa w Ełku", page 303 1961
  19. ^ Richard Blanke:"Polish-speaking Germans", pages 68, 72
  20. ^ Richard Blanke:"Polish-speaking Germans", page 73
  21. ^ *[1]
    *Mały słownik historii Polski Witold Sienkiewicz Wiedza Powszechna,page 59, 1991
    *Nowa encyklopedia powszechna PWN, Tom 4, Barbara Petrozoliń-Skowrońska Wydawnictwo Naukowe PWN,page 136 1996
  22. ^ Kraj a emigracja: ruch ludowy wobec wychodźstwa chłopskiego do krajów Ameryki Łacińskiej (do 1939 roku) Jerzy Mazurek, page 281, Biblioteka Iberyjska, 2006
  23. ^ Richard Blanke:"Polish-speaking Germans", page 71
  24. ^ Andreas Kossert: Masuren - Ostpreußens vergessener Süden, page 33
  25. ^ Miasta polskie w tysiącleciu: Tom 1 Mateusz Siuchniński - Zakład Narodowy im. Ossolińskich,page 275 1965
  26. ^ Butler, Rohan, MA., Bury, J.P.T.,MA., & Lambert M.E., MA., editors, Documents on British Foreign Policy 1919-1939, 1st Series, Her Majesty's Stationary Office, London, 1960, vol.x, Chapter VIII, "The Plebiscites in Allenstein and Marienwerder January 21 - September 29, 1920"
  27. ^ a b Michael Rademacher: Deutsche Verwaltungsgeschichte Provinz Ostpreußen, Kreis Lyck (2006).
  28. ^ [2] Virtual Sztetl
  29. ^ a b c d e Ełk History
  30. ^ Teczka specjalna J.W. Stalina:raporty NKWD z Polski 1944-1946, page 159 Instytut Studiów Politycznych Polskiej Akademii Nauk, 199
  31. ^ Cudzoziemcy w polskim ruchu oporu: 1939-1945, Stanisław Okęcki, page 136 "Interpress,"
  32. ^ [3] (ポーランド語)
  33. ^ [4] (ポーランド語)
  34. ^ August Eduard Preuß: Preußische Landes- und Volkskunde. Königsberg 1835, pp. 454–455, no. 65.
  35. ^ wspolczesna.pl (ポーランド語)
  36. ^ Johann Friedrich Goldbeck: Volständige Topographie des Königreichs Preussen. Part I: Topographie von Ost-Preussen, Marienwerder 1785, p. 39, no. 2).
  37. ^ historical religious statistics at verwaltungsgeschichte.de
  38. ^ Ełk - Przedwojenny herb miasta”. Castles of Poland (2003年4月30日). 2009年5月5日閲覧。
  39. ^ Siegfried Lenz zum Ehrenbürger seiner Geburtsstadt ernannt” (German). Hamburger Abendblatt. 2011年11月18日閲覧。

外部リンク[編集]