アマトリーチェ

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アマトリーチェ
Amatrice
アマトリーチェの風景
行政
イタリア国旗 イタリア
Flag of Lazio.svg ラーツィオ
Blank.png リエーティ
CAP(郵便番号) 02012
市外局番 0746
ISTATコード 057002
識別コード A258
分離集落 #行政区画参照
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
公式サイト リンク
人口
人口 2,635 [1](2012-01-01)
人口密度 15.1 人/km2
文化
住民の呼称 amatriciani
守護聖人 santa Maria di Filetta
祝祭日 昇天祭後の日曜日
(domenica dopo l'Ascensione)
地理
座標 北緯42度38分0秒 東経13度17分0秒 / 北緯42.63333度 東経13.28333度 / 42.63333; 13.28333座標: 北緯42度38分0秒 東経13度17分0秒 / 北緯42.63333度 東経13.28333度 / 42.63333; 13.28333
標高 955 (750 - 2458) [2] m
面積 174.43 [3] km2
アマトリーチェの位置(イタリア内)
アマトリーチェ
アマトリーチェの位置
リエーティ県におけるコムーネの領域
リエーティ県におけるコムーネの領域
Flag of Italy.svg ポータル イタリア
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アマトリーチェイタリア語: Amatrice)は、イタリア共和国ラツィオ州リエーティ県にある、人口約2600人の基礎自治体コムーネ)。

アペニン山脈中の盆地に所在する町で、アドリア海に注ぐトロント川の上流域にあたる。代表的なパスタソースの一つであるアマトリチャーナAmatriciana)は、この町の名に由来する。

名称[編集]

標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。

地理[編集]

位置・広がり[編集]

リエーティ県北東部のコムーネで、ラクイラの北北西約31km、アスコリ・ピチェーノの南西約37km、県都リエーティの東北東約42km、州都・首都ローマの北東約104kmに位置する。コムーネの東と南はアブルッツォ州に接している(東にテーラモ県、南にラクイラ県と隣接)。アマトリーチェも1927年まではラクイラ県に属していた。

トロント川英語版流域のヴァッレ・デル・トロント (it:Valle del Trontoの中でも最上流域で、アルタ・ヴァッレ・デル・トロント(Alta Valle del Tronto)とも呼ばれる。

隣接コムーネ[編集]

隣接するコムーネは以下の通り。AQはラクイラ県(アブルッツォ州)、TEはテーラモ県(アブルッツォ州)所属。

地勢[編集]

アペニン山脈の中の盆地に所在する町で、町の東にはモンティ・デッラ・ラガ (it:Monti della Lagaの山々が聳えている。アドリア海に注ぐトロント川英語版は、モンティ・デッラ・ラガの西麓に源を発して北に流れる。アマトリーチェの中心集落はトロント川のほとりにある。

モンティ・デッラ・ラガには、モンテ・ゴルツァノ (it:Monte Gorzano(2458m)などがある。アブルッツォ州との境界にあるモンテ・ゴルツァノは、ラツィオ州の最高峰である。町域には、トロント川の支流スカンダレッロ川を堰き止めたスカンダレッロ湖 (it:Lago di Scandarelloがある。

グランサッソ・エ・モンティ・デッラ・ラガ国立公園 (it:Parco nazionale del Gran Sasso e Monti della Lagaに含まれる。

スカンダレッロ湖 
アマトリーチェの街並み 

歴史[編集]

先史時代以来、この地には人々が暮らしていたことが考古学的な調査からわかっており、ローマ時代の墓地や建築物の遺跡も残っている。

西ローマ帝国の崩壊後、この地域はランゴバルド人スポレート公国の支配下に入り、アスコリ管区(Comitato di Ascoli)に含まれることとなった。1012年のファルファ大修道院英語版の文書で、トロント川とカステッラーノ川 (it:Castellano (torrente)の合流点の川上にある Matrice という名の町が登場する。

1265年、シチリア王マンフレーディのもと、アマトリーチェはシチリア王国(のちのナポリ王国)に組み込まれる。1266年、マンフレーディを破ったアンジュー家(アンジュー=シチリア家)のシャルル・ダンジュー(カルロ1世)がシチリア王に即位する。アマトリーチェの街はカルロ1世に反旗を翻したが、1274年に制圧された。しかしながらこの経緯により、アマトリーチェはウニベルシタス (it:Universitasとして一定の自治権を維持することができた。

14世紀から15世紀にかけてアマトリーチェは、ノルチャアルクアータラクイラといった近隣の都市と抗争を繰り返した。アマトリーチェの兵士はコンドッティエーレ(傭兵隊長)ブラッチョ・ダ・モントーネ英語版の軍勢に参加し、ラクイラの包囲戦に加わっている(この戦いは1424年にブラッチョの戦死で幕を閉じた)。

ナポリ王国の継承をめぐり、アンジュー家とアラゴン家が対立すると、アマトリーチェはアラゴン家支持の立場を取った。1529年、神聖ローマ皇帝カール5世(ナポリ王としてはカルロ4世)に従うオランジュフィリベール・ド・シャロン英語版によってアマトリーチェは襲撃され、その部将であるアレッサンドロ・ヴィテッリ (fr:Alessandro Vitelliに与えられた。

その後、アマトリーチェはオルシーニ家や、フィレンツェメディチ家トスカーナ大公国)の支配下に置かれた。メディチ家の支配は1737年の断絶まで続いた。この間、1639年には地震によって甚大な被害を受けている。

イタリア統一後、アマトリーチェはアブルッツォ州の一部となったが、1927年にラツィオ州に編入された。

行政[編集]

山岳部共同体[編集]

広域行政組織である山岳部共同体イタリア語版「ヴェリーノ山岳部共同体」 (it:Comunità montana del Velino(事務所所在地: ポスタ)を構成するコムーネの一つである。

行政区画[編集]

アマトリーチェには、以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。

  • Aleggia, Arafranca-Pinaco, Bagnolo, Capricchia, Casale Bucci, Casale Celli, Casale, Casalene, Casale Masacci, Casale Nadalucci, Casale Nibbi, Casale Sanguigni, Casale Sautelli, Casale Zocchi, Casali, Cascello, Castel Trione, Collalto, Collecreta, Collegentilesco, Collemagrone, Collemoresco, Collepagliuca, Colletroio, Colli, Conche, Configno, Cornelle, Cornillo Nuovo, Cornillo Vecchio, Cossara, Cossito, Crognale, Domo, Faizzone, Ferrazza, Filetto, Fiumatello, Francucciano, Le Forme, Moletano, Musicchio, Nommisci, Osteria della Meta, Pasciano, Patàrico, Petrana, Pinaco, Poggio Vitellino, Prato, Preta, Retrosi, Roccapassa, Rocchetta, Saletta, San Benedetto, San Capone, San Giorgio, San Lorenzo a Pinaco, San Sebastiano, Santa Giusta, Sant'Angelo, San Tommaso, Scai, Sommati, Torrita, Torritella, Villa San Cipriano, Villa San Lorenzo e Flaviano, Rio, Voceto, Varoni

文化[編集]

食文化[編集]

アマトリーチェの食文化の伝統は長く深い。モンティ・デッラ・ラガ (Monti della Lagaの豊かな牧草地や豊かな水、肥沃な土壌のために、アマトリーチェでは品質の高い肉やチーズが生産される。この都市からは、教皇に仕えた料理人も多く出ている。

アマトリチャーナ[編集]

ブカティーニ・アッラマトリチャーナ

アマトリーチェの名は、パスタに用いられる「アマトリチャーナ・ソース」(sugo all'amatriciana、アマトリーチェ風ソース)で知られている。アマトリチャーナは、スパゲッティヴェルミチェッリブカティーニなど各種パスタに合わされ、ローマ料理 (it:Cucina romanaの代表的なソースとして[5]、世界的によく知られている。

もともとアマトリーチェでは、"unto e cacio"(脂とチーズ) と呼ばれる料理が作られていた。牧人たちが山で放牧を行う際に携行できる材料、すなわち賽の目状あるいは薄切りにされたグアンチャーレ(豚頬肉の塩漬け)、チーズ、スパゲッティから作られたものである。その後、トマトやごく少量のオリーブ油がレシピに加えられるようになり、洗練されることとなった。

アマトリチャーナが広く知られるようになったのは、19世紀のことである。牧畜不況のために、多くのアマトリーチェ出身者が職を求めてローマに移住したが、料理人の職に就いた人々はその料理を「アマトリーチェ風」l'amatricianaと呼ぶようになったのである。アマトリーチェ料理レストランの歴史に残る最初の店は、1860年に Luigi Sagnotti がローマに開いた Il Passetto で、この店は高い評判をとった。20世紀に入ると、ローマ出身の俳優アルド・ファブリツィイタリア語版がラジオやテレビなどで「アマトリチャーナ」についてしばしば触れ、そのレシピが全国的に知られるようになった。

今日、レストランで供される「アマトリチャーナ」のレシピには、トマトを加えるものと加えないものの、大きく2種類がある。トマトを加えない古い形のものは、一般にグリーチャ(gricia)と呼ばれる。グアンチャーレの代わりにパンチェッタを入れたり、玉ねぎ、オリーブ油を用いたレシピでも作られている。

ニョッキ・リッチ[編集]

Nuvola apps kview.svg 画像外部リンク
ニョッキ・リッチ
Searchtool.svg [1] ニョッキ・リッチ(イタリア語版Wikipedia)
Searchtool.svg [2] 調理前のニョッキ・リッチ(イタリア語版Wikipedia)

ニョッキ・リッチGnocchi ricci)は、アマトリチャーナほどの知名度はないものの、アマトリーチェの名物料理の一つである。水と小麦粉、卵から作られるニョッキダンプリング)で、巻いた形が特徴的である。アマトリーチェと郊外の集落で代々伝えられてきた料理で、アマトリーチェ料理の最も古い形を伝えているとされる。

交通[編集]

道路[編集]

国道

首都ローマからアドリア海に面したポルト・ダスコリ(アスコリ・ピチェーノ県サン・ベネデット・デル・トロント)まで、イタリア半島を横断する国道4号線が村内を通過している。スカンダッレ湖のほとりで、国道4号線から国道260号線が分岐し、アマチャトリーナの集落内を通過してラクイラに至る。また、アマチャトリーナの集落で国道260号線から国道577号線が分岐し、南東にカンポトスト湖イタリア語版カンポトスト村内)に至る。

姉妹都市[編集]

人物[編集]

著名な出身者[編集]

ゆかりの人物[編集]

脚注[編集]

「※」印を付したものは翻訳元に挙げられていた出典であり、訳出に際し直接参照してはおりません。

  1. ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Total Resident Population on 1st January 2012 by sex and marital status” (英語). 2013年9月16日閲覧。
  2. ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Popolazione residente - Rieti (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年9月16日閲覧。
  3. ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Rieti (dettaglio comunale) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年9月16日閲覧。
  4. ^ AA.VV. (1996). Dizionario di toponomastica. Storia e significato dei nomi geografici italiani. Milano: GARZANTI. p. 26. 
  5. ^ アマトリチャーナ”. 和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典(コトバンク. 講談社. 2013年9月17日閲覧。

外部リンク[編集]