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'''レビラト婚'''(レビラトこん)は、[[寡婦]]が死亡した夫の兄弟と結婚する慣習。レビラトは、[[ラテン語]]で夫の兄弟を意味するレウィル(levir)に由来する。'''レビレート婚'''とも。
'''レビラト婚'''(レビラトこん)は、[[寡婦]]が死亡した夫の兄弟と結婚する慣習。レビラトは、[[ラテン語]]で夫の兄弟を意味するレウィル(levir)に由来する。'''レビレート婚'''とも。


死亡した妻の代わりにその姉妹が夫と結婚する慣習のことは[[ソロレート婚]]という。
死亡した妻の代わりにその姉妹が夫と結婚する慣習のことは[[ソロレート婚]]という。
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中国では[[同姓不婚]]と[[儒教]]の観点からタブーとしており、周辺国のレビラト婚を蛮族の風習として非常に嫌った<ref>司馬遷著『史記』巻110匈奴列伝</ref>。また実の兄弟の妻のみならず一門の妻も受け入れられていない。[[劉備]]と同族の[[劉瑁]]の未亡人の結婚などもそのような例が見られる。
中国では[[同姓不婚]]と[[儒教]]の観点からタブーとしており、周辺国のレビラト婚を蛮族の風習として非常に嫌った<ref>司馬遷著『史記』巻110匈奴列伝</ref>。また実の兄弟の妻のみならず一門の妻も受け入れられていない。[[劉備]]と同族の[[劉瑁]]の未亡人の結婚などもそのような例が見られる。


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[[日本]]では'''[[逆縁]]婚'''、'''もらい婚'''と言う。かつては[[武家]]の間でも見られたが、[[儒教]]の価値観が浸透した[[江戸時代]]中期以降は、武家社会の人々の間ではひどく嫌われるようになっていった。しかし、一般的な庶民の間では受け入れられていた慣習であった。武家社会への配慮から、逆縁婚は1875年([[明治]]8年)12月8日の[[太政官]]指令で禁止されたが<ref>{{Cite journal|和書|author=福島正夫 |title= 青年小野梓の家族制度論 ー『羅瑪律要』纂訳附註を通じてー |journal=早稲田法学 |ISSN=03890546 |publisher=早稲田大学法学会 |year=1973 |month=nov |volume=49 |issue=1 |pages=55-106 |naid=120000788991 |url=https://hdl.handle.net/2065/1916 |accessdate=2021-10-01}}</ref>、その後成立した[[民法 (日本)|民法]]に逆縁婚の禁止規定は盛り込まれなかった。近代の日本では、[[第二次世界大戦]]後、夫が出征して戦死、あるいは行方不明となり妻が戦争未亡人となった場合、夫の兄弟と再婚するという事例も散見された。これは、夫が将校でない場合は[[遺族年金]]が支給されないために、妻が経済的に困窮するのを防ぐ一面もあった。


== 歴史上の人物の例 ==
== 歴史上の人物の例 ==
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== 出典 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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*{{Cite book|和書| author = フラウィウス・ヨセフス| translator = 秦剛平| year= 2002| title= [[ユダヤ戦記]]1| publisher= 筑摩書房| isbn = 4-480-08691-9| ref = ヨセフス2002/2}}
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*椎野若菜寡婦が男を選ぶ時, ケニア・ルオ村落における代理夫選択の実践アフリカ研究 59:71-84(2001)。https://www.jstage.jst.go.jp/article/africa1964/2001/59/2001_59_71/_pdf 
* {{Cite journal|和書|author=椎野若菜 |title=寡婦が男を選ぶとき:ケニア・ルオ村落における代理夫選択の実践 |journal=アフリカ研究 |ISSN=0065-4140 |publisher=日本アフリカ学会 |year=2001 |volume=2001 |issue=59 |pages=71-84 |naid=110000105634 |doi=10.11619/africa1964.2001.59_71 |url=https://doi.org/10.11619/africa1964.2001.59_71 |ref=harv}}


== 関連項目 ==
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*[[ルツ記]]
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*[[テレゴニー]] 
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*[[近親婚]]
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2021年10月19日 (火) 13:46時点における版

レビラト婚(レビラトこん)は、寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する慣習。レビラトは、ラテン語で夫の兄弟を意味するレウィル(levir)に由来する。レビレート婚とも。

死亡した妻の代わりにその姉妹が夫と結婚する慣習のことはソロレート婚という。

概要

レビラト婚の目的は、最初の婚姻で結ばれた両親族集団の紐帯を維持し続けようとすることにある。ユダヤパンジャブモンゴル族匈奴チベット民族などで一般的である。兄弟が寡婦の権利・義務を受け継ぐ場合も含めると、世界中に広く見られる。

なお、古代のユダヤではレビラト婚は禁止と義務の双方の定めがある。律法の『レビ記18章16節20章21節では兄弟の妻と肉体関係を結ぶことをタブーとしている。例外的に、子供がいないまま夫が死亡した場合は、『申命記25章5節にあるように、逆に「夫の兄弟が未亡人と再婚する」ことが義務とされた [1]。このあたりのことを考えないと、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』2巻7章4節 [2]や『ユダヤ古代誌』17巻12章1・4節 [3]で、ヘロデ大王の息子アルケラオスが異母兄アレクサンドロスの未亡人[4]グラフュラを娶ったことが「我々(ユダヤ人)のしきたりに反する」と批難されているくだりは理解しがたい[5]

中国では同姓不婚儒教の観点からタブーとしており、周辺国のレビラト婚を蛮族の風習として非常に嫌った[6]。また実の兄弟の妻のみならず一門の妻も受け入れられていない。劉備と同族の劉瑁の未亡人の結婚などもそのような例が見られる。

日本では逆縁もらい婚と言う。かつては武家の間でも見られたが、儒教の価値観が浸透した江戸時代中期以降は、武家社会の人々の間ではひどく嫌われるようになっていった。しかし、一般的な庶民の間では受け入れられていた慣習であった。武家社会への配慮から、逆縁婚は1875年(明治8年)12月8日の太政官指令で禁止されたが[7]、その後成立した民法に逆縁婚の禁止規定は盛り込まれなかった。近代の日本では、第二次世界大戦後、夫が出征して戦死、あるいは行方不明となり妻が戦争未亡人となった場合、夫の兄弟と再婚するという事例も散見された。これは、夫が将校でない場合は遺族年金が支給されないために、妻が経済的に困窮するのを防ぐ一面もあった。

歴史上の人物の例

ヨーロッパ

中東

中国

  • 煬帝が父文帝の姫妾(陳氏)を後宮に入れている。遊牧民の風習であるレビラト婚を行っている事実から隋の帝室の楊氏を鮮卑とする説がある[10]
  • の太宗李世民は、玄武門の変で同母弟の斉王李元吉を殺害した後にその妃の楊氏(楊雄の従孫娘)と関係して、李明をもうけた(しかし正式な側室にはされていない)。
  • 高宗が父李世民の姫妾武照後宮に入ている。遊牧民の風習であるレビラト婚を行っている事実から唐の帝室の李氏を鮮卑とする説がある[10]
  • の太祖阿骨打の次男繩果の妃蒲察氏は、繩果の死後にその異母兄斡本と再婚した。斡本は繩果と蒲察氏の子である熙宗の養父となり、その即位に貢献した。
  • の世祖順治帝の生母孝荘文皇后は、太宗ホンタイジの側室の一人であったが、太宗の死後に世祖の摂政となった太宗の異母弟ドルゴンと再婚したという説がある。レビラト婚は満州族女真)の古来の風習では普通に行われていたが(上述した金の皇族はその一例)、儒教では不義にあたるとされ、ホンタイジはこれを禁じており、実際にこの結婚が行われたか否かについては議論が分かれている。

日本

レビラト婚を扱った作品

出典

  1. ^ (ヨセフス2002/2)p.274訳注
  2. ^ (ヨセフス2002/2)p.273
  3. ^ (ヨセフス2000/2)p.385・360-361
  4. ^ 厳密には彼女は一度別人と再婚しているが、そちらとも死別している
  5. ^ 本文中にもアレクサンドロスの亡霊の声という形で「お前(グラフュラ)は子供がいるのに私の兄弟(アルケラオス)と再婚した」とグラフュラを批難する記述がある。
  6. ^ 司馬遷著『史記』巻110匈奴列伝
  7. ^ 福島正夫「青年小野梓の家族制度論 ー『羅瑪律要』纂訳附註を通じてー」『早稲田法学』第49巻第1号、早稲田大学法学会、1973年11月、55-106頁、ISSN 03890546NAID 1200007889912021年10月1日閲覧 
  8. ^ 実父と同名だが、ヘロデ大王の息子である彼の母はサマリア出自で、カッパドキア王と特に血縁関係はない。
  9. ^ (ヨセフス2000/2)p.136・385
  10. ^ a b 塚本靑史『四字熟語で愉しむ中国史』PHP研究所〈PHP新書〉、2010年7月16日、142頁。ISBN 4569779565 

参考文献

関連項目