小笠原忠脩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原忠脩
時代 江戸時代初期
生誕 文禄3年12月25日1595年2月4日
死没 慶長20年5月7日1615年6月3日
改名 幸松丸(幼名)、忠脩
戒名 法性寺殿正甫宗中大居士
墓所 長野県松本市の御殿山
長野県松本市の広沢寺
官位 従五位下信濃守
主君 徳川家康秀忠
信濃松本藩世嗣[疑問点]
氏族 小笠原氏(秀政系府中小笠原氏)
父母 父:小笠原秀政、母:登久姫
兄弟 忠脩忠真敬台院保寿院忠知松平重直忠慶長俊溝口政房原昌行
円照院
齢昭院長次
テンプレートを表示

小笠原 忠脩(おがさわら ただなが)は、江戸時代初期の武将信濃国松本藩世嗣[疑問点]官位従五位下信濃守徳川家康の外曾孫に当たる。

生涯[編集]

小笠原秀政の長男として下総国栗橋城にて誕生。元服の際、大叔父でもある2代将軍・徳川秀忠から偏諱を受けて忠脩と名乗った。慶長12年(1607年)、出家した父から家督を譲られる[疑問点]

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では小笠原軍を率いて出陣したが、軍費に窮し、困り果てたと言われている。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では父が小笠原軍を率いて出陣した。このとき、忠脩は松本城の守備を任されていたが、幕府に無断で出陣し、父と合流した。これは一つ間違えれば、家康の外曾孫といえども許される行為ではないが、家康は処罰も恐れずに出陣してきた曾孫の忠脩を大いに評価し、従軍を許したという。

天王寺・岡山の戦いで父と共に豊臣軍と戦うも討死した。享年22。

長男の長次が出生したのは忠脩の死の18日後であったため、小笠原家の家督は弟の忠真が継ぐこととなり[疑問点]、忠脩の正室・円照院(亀姫)は家康の命で忠真に再嫁した。

系譜[編集]