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菊川君子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
菊川 君子
きくかわ きみこ
生年月日 1905年9月18日
出生地 日本の旗 日本 北海道亀田郡戸井村
(現・北海道函館市
没年月日 (1990-10-17) 1990年10月17日(85歳没)
出身校 函館大谷女学校卒業
前職 東京家庭裁判所調停委員
所属政党日本社会党→)
右派社会党→)
(日本社会党→)
民主社会党
配偶者 菊川忠雄

選挙区 旧東京4区
当選回数 1回
在任期間 1958年5月22日 - 1960年10月24日
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菊川 君子(きくかわ きみこ、1905年明治38年)9月18日[1] - 1990年平成2年)10月17日[2])は、日本の婦人運動家、政治家衆議院議員(1期)。旧姓・巽[1]

経歴

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北海道亀田郡戸井村汐首(現函館市)で生まれる[1]1924年函館大谷女学校を卒業した[1][3]

その後上京して、看護婦見習いなど多くの職業に従事し、社会運動に関わるようになった[1][3]全国婦人同盟無産婦人同盟の結成に加わり、無産婦人同盟常任委員、同財務部長を務めた[1][3]1931年中野区中野組合病院の設立に尽力し、会計を担当した[1][3]

戦後、日本社会党の結党に加わる。1947年の衆院選に夫の菊川忠雄旧東京4区から社会党公認で立候補し初当選した。君子は党の婦人部員として運動を推進し、婦人問題研究会常任理事、東京家庭裁判所調停委員を務めた[1][3]

1954年9月26日、夫の忠雄が洞爺丸事故で死去。菊川は洞爺丸事故遺族会の会長に就いた。

1955年の第27回衆議院議員総選挙に旧東京4区から右派社会党公認で立候補するも次点で落選。

1958年第28回衆議院議員総選挙で得票数1位で初当選した。

1960年1月24日、社会党を離党した西尾末広らによって民主社会党(民社党)の結党大会が開かれ、菊川を含む衆議院議員38人、参議院議員16人が結党に参加した[4][1][3]

同年11月の衆院選に民主社会党公認で立候補するも次点で落選。1963年の衆院選も落選した。

この間、日本社会党政策審議会運輸副部長、民主社会党院内幹事、同生活協同組合連絡会議副議長などを務めた[3]

1990年10月17日、死去。墓所は多磨霊園

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『市民・社会運動人名事典』137頁。
  2. ^ 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』196頁。
  3. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』211頁。
  4. ^ 中部日本新聞』1960年1月24日付夕刊、1面、「民主社会党が発足」。

参考文献

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  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056
  • 『市民・社会運動人名事典』日外アソシエーツ、1990年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。