花山院兼定
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時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 建武5年/延元3年1月2日(1338年1月23日) |
死没 | 永和4年/天授4年11月30日(1378年12月20日) |
官位 | 正二位権大納言左大将、 |
主君 | 光明天皇→崇光天皇→後光厳天皇→後円融天皇 |
氏族 | 花山院家 |
父母 | 父:花山院長定、母:不明 |
兄弟 | 兼定、定尊 |
妻 | 九条光経の娘 |
子 | 基定、通定、定助、行伊、永伊、行雅、尊雅 |
花山院 兼定(かさんのいん かねさだ)は、南北朝時代の公卿。内大臣・花山院長定の子。官位は正二位・権大納言、左近衛大将。花山院家11代当主。
若くして花山院家を継ぐ
[編集]父・長定が若くして出家したため[1]、兼定は若年ながら急速な昇進を遂げて23歳で権大納言となる。33歳で右近衛大将を兼ね、長くその地位にあったが左大将に転任後、大臣に昇進することなく薨去してしまう。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 建武5年/延元3年(1338年)1月5日、叙爵[2]。
- 暦応2年/延元4年(1339年)1月5日、従五位上に昇叙。
- 暦応4年/興国2年(1340年)1月6日、正五位下に昇叙。同年12月22日、侍従に任ぜられる。
- 暦応5年/興国3年(1342年)1月5日、従四位下に昇叙。
- 康永2年/興国4年(1343年)1月5日、従四位上に昇叙。同月28日、右中将に転任。
- 康永3年/興国5年(1344年)1月24日、紀伊介を兼ねる。
- 貞和2年/正平元年(1346年)2月21日、正四位下に昇叙。
- 貞和4年/正平3年(1348年)、紀伊介を止める[3]。同年10月7日、左中将に転任。
- 貞和5年正平4年/(1349年)11月25日、従三位に叙される。左中将は元の如し。
- 文和3年/正平9年(1354年)4月15日、参議を経ず権中納言に任ぜられる。
- 延文元年/正平11年(1356年)1月16日、帯剣を許される。
- 延文2年/正平12年(1357年)4月15日、正三位に昇叙。
- 延文4年/正平14年(1359年)4月21日、従二位に昇叙。
- 延文5年/正平15年(1360年)4月16日、権大納言に任ぜられる。
- 貞治元年/正平17年(1362年)5月7日、正二位に昇叙。
- 応安3年/建徳元年(1370年)11月19日、右近衛大将を兼ねる。
- 永和4年/天授4年(1378年)4月27日、左近衛大将に転任。同年8月27日、左大将辞任。同年11月30日、薨去。