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2018年6月11日 (月) 19:49時点における版

座標: 北緯34度30分04.2秒 東経135度29分59.7秒 / 北緯34.501167度 東経135.499917度 / 34.501167; 135.499917

陶邑窯跡群の位置(大阪府内)
陶邑窯跡群
陶邑窯跡群
※座標は現地保存されている
高蔵寺73号窯・74号窯の地点

陶邑窯跡群(すえむらようせきぐん/すえむらかまあとぐん)は、大阪府南部に分布する古墳時代から平安時代初頭にかけての須恵器窯跡日本三大古窯の1つに数えられている。

概要

TK73(大阪府指定史跡)
TG61(移築復元)

大阪府南部の丘陵地帯(堺市和泉市岸和田市大阪狭山市)に多数の窯跡が分布する。上記の丘陵地一帯に広がることから大阪府南部窯址群(阪南窯址群)とも呼ばれる[1]古墳時代朝鮮半島から導入された窖窯を使い、1000度以上の高温で焼成する須恵器の生産地として最大規模であり、初期須恵器の段階から須恵器を継続的に生産した所として著名である。

陶邑の名称は崇神天皇の時、倭迹迹日百襲媛命神懸りして受けた託宣により茅渟県陶邑において大田田根子を探し出し、大和三輪山の神、大物主を祭る神主(三輪山の麓にある大神神社の始まりとされる。実は大田田根子は、大物主が人間の娘、生玉依媛のもとに通って産ませた隠し子であったとする。)とし、それまで続いていた疫病や災害を鎮めたとする日本書紀の記載がある。しかし、古代において、この窯業生産地全体を指す呼称であっかたかどうかは不明である。

陶邑窯一帯の生産は、7世紀以降衰退が始まる。衰退の原因の一つは、燃料となる森林資源を消費しつくしたためと考えられている。少なくなりつつある燃料材をめぐる争いは、日本三代実録の中で「陶山の薪争い」として記録されている[2]ほか、時代が経るにつれ使用される木炭の樹種が、更新可能な広葉樹から荒廃地でも生育するアカマツに変化していることからも裏付けられている[3]

初期須恵器窯と畿内政権(ヤマト王権)

1991年平成3年)、陶邑窯北部に位置する堺市大庭寺遺跡の発掘調査により、古墳時代の集落の遺構等とともに明らかにされたTG232号窯およびTG231号窯からは朝鮮半島の陶質土器の影響が色濃い初期須恵器が大量に出土している。また、そこから1キロ余り西の地点で先の2つの窯跡よりやや遅れる段階に操業を開始したと思われるON231号窯が発掘され、ここからも大量の初期須恵器が出土している。さらにここから2キロ西に離れた和泉市内において1966年昭和41年)に調査されながら、1999年(平成11年)に正報告がなされた濁り池須恵器窯もTG232窯にすぐ後続する段階のものであり、須恵器生産の最古の段階(4世紀末 - 5世紀初頭)から陶邑で、かなりの規模の生産が継続的に行なわれていたことを示している。これらの初期の窯跡は陶邑でも北部の平野部に近い場所にあり、丘陵の入口部から須恵器窯としての開発が始められ、時期が下るとともに丘陵の奥に窯が設けられるようになっていったようである。

なお、当古窯跡群の北方数キロには5世紀に造営された大仙陵古墳を始めとする百舌鳥古墳群が展開しており、陶邑窯の創設当初、巨大古墳群の造営主体である初期畿内政権(ヤマト王権)中枢と直接の関わりがあったことが想定されている。こうして、5世紀以降、時期ごとに営まれた窯の数の増減はあるものの平安時代まで日本最大級の窯業生産地として栄えた。我国の窯業生産発祥地の1つと言える。

遺跡の全貌と陶邑編年

遺跡全体の規模としては、上記の丘陵地帯に1000ヶ所前後もの窯跡が点在したとされるが、その多くは、1960年代以降、泉北ニュータウン等の建設で破壊された。しかし、400ヶ所以上もの窯跡が発掘調査され、その出土資料は全国各地で出土する、古墳時代から古代にかけての須恵器の年代を推定するための編年の基準となっている(陶邑編年)。陶邑窯出土須恵器による編年は、1958年(昭和33年)に森浩一により示され[4]、その後田辺昭三[5][6]中村浩[7]など多くの研究者の発掘調査と研究によって、より精緻な編年案として構築された[8]

専門書などではしばしば、「TK73型式の須恵器が出土した」とか、「MT15型式」とかあるいは、「TG232号窯と同時期」といった記述がみられる。これは陶邑窯の調査が始まった時期に窯跡群が分布する丘陵地が地形的に、いくつかの小河川によって区分されていることから、調査の便宜上、「陶器山地区(略称MT)」、「高蔵寺地区(略称TK)」、「栂地区(略称TG)」、「光明池地区(略称KM)」、「大野池地区(略称ON)」、「谷山池地区(略称TN)」という地区名を与えて、その地区ごとに窯址の番号を付け、「TK73号窯」、「MT15号窯」などと呼称し、この窯跡の略称が須恵器の時期ごとの型式名にも使用されたことに由来するものである(一般には田辺昭三や中村浩によるⅠ-Ⅴ期の型式区分が用いられる事が多い[9])。

例えばTG232号窯(この窯が発見された堺市大庭寺遺跡は地形的に陶邑窯の栂地区に属する)は現時点では陶邑窯最古段階または揺籃期(Ⅰ期1段階前期)の4世紀末前後、TK73とTK216はそれに後続するⅠ期1段階後期とし、5世紀初頭、その後にTK208、TK23、TK47と5世紀末前後まで変遷し、Ⅱ期ではMT15、TK10、TK43、TK209という順に6世紀代を推移して行ったと考えられている。

ところで、窯址の呼名として、そのそれぞれに、「高蔵寺○号窯(TK○)」、「陶器山○号窯(MT○)」といった正式名称があるのにもかかわらず、ローマ字表記の略称が優先して使用されていることには批判がある。こういったローマ字表記の略称は本来、研究機関内の出土遺物の整理作業などの効率をはかる便宜のためのものにすぎず、正式名称に取って代わって使用されるべきではないという意見である[10]。しかしながら、このローマ字表記の呼称は1966年(昭和41年)刊行の平安高校(現龍谷大学付属平安中学校・高等学校)考古学クラブによる陶邑窯の初期の調査報告書などに於いて既に使用されており、学界においてはこのローマ字表記の呼称はすっかり定着してしまった観はある(先述の陶邑窯出土の須恵器の編年の大筋もこの報告書のなかで既に示されており、高校のクラブ活動が残した偉業の1つと言える)[11]。また、この際に行った発掘調査で出土した遺物は、現在も龍谷大平安高校が保管している。

なお、陶邑窯の編年の基準となった出土資料の一部は泉北ニュータウン内にある堺市立泉北すえむら資料館(旧大阪府立泉北考古資料館)に収蔵、展示されていたが、2016年(平成28年)9月末を持って閉館したため、堺市博物館で保管されている。

文化財

重要文化財(国指定)

  • 大阪府陶邑窯跡群出土品 一括(考古資料) - 内訳は以下。堺市博物館保管。2005年(平成17年)6月9日指定[12]
    • 須恵器 2572点
    • 窯道具類 3点
    • 瓦塼類 10点
国の重要文化財「大阪府陶邑窯跡群出土品」画像

いずれも堺市博物館展示。

大阪府指定文化財

  • 史跡
    • 高蔵寺73号窯、74号窯 - 1993年(平成5年)3月31日指定[13]

脚注

  1. ^ 森(1978)pp.758-778
  2. ^ 陶邑窯跡群-泉北丘陵周辺の遺跡と古墳 堺市ホームページ 2017年12月1日閲覧
  3. ^ 太田猛彦『森林飽和』p94 NHK出版 2012年
  4. ^ 森(1958)
  5. ^ 田辺(1966)
  6. ^ 田辺(1981)
  7. ^ 中村(1978)『陶邑Ⅲ』
  8. ^ 大阪府立近つ飛鳥博物館(2006)『年代のものさし-陶邑の須恵器-』pp.60-65、pp.74-77
  9. ^ 大阪府立近つ飛鳥博物館(2006)『年代のものさし-陶邑の須恵器-』pp.60-65、pp.74-77
  10. ^ 山田(1998)pp.11-12
  11. ^ 田辺、平安学園考古学クラブ(1966)pp.11-79
  12. ^ 大阪府陶邑窯跡群出土品 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  13. ^ 大阪府内指定文化財一覧表(大阪府ホームページ、平成29年6月7日更新版)の堺市ファイルより。

参考文献

  • 森浩一「和泉河内窯出土の須恵器編年」『世界陶磁全集』第1巻 河出書房 1958年
  • 田辺昭三 他 『陶邑古窯址群I』 平安学園考古学クラブ 1966年
  • 森浩一「第三節 生産の発展とその技術」『大阪府史 第一巻』 大阪府史編集専門委員会 1978年 768頁ー782頁
  • 田辺昭三 『須恵器大成』 角川書店 1981年
  • 『陶邑I』 - 『陶邑VIII』大阪府教育委員会 大阪文化財センター 1976年 - 1995年
  • 『陶邑 ・大庭寺遺跡IV』 大阪府教育委員会 財団法人大阪府埋蔵文化財協会 1995年
  • 『陶邑 ・大庭寺遺跡V』 大阪府教育委員会 財団法人大阪府文化財調査研究センター 1996年 
  • 中村浩 『須恵器集成図録 第一巻 近畿編1』 雄山閣出版 1995年
  • 山田邦和「須恵器編年論の前提」『須恵器生産の研究』株式会社 学生社 1998年 11-21頁
  • 『年代のものさし ― 陶邑の須恵器』 大阪府立近つ飛鳥博物館 2006年
  • 中村浩 『泉北丘陵に広がる須恵器窯・陶邑遺跡群』 新泉社 2006年

関連項目

外部リンク