「共同被告同志に告ぐる書」の版間の差分

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佐野学と鍋山貞親は検挙後、共産主義に疑念を抱くようになった。そこで検察は二人を対面させて議論させた。議論を通じて両者の見解は一致し、1933年6月10日に「共同被告同志に告ぐる書」と題する声明書を公表した。既に獄中にあった党員に対しても、[[刑務所]]を通じて彼らの転向声明書が配布された。
佐野学と鍋山貞親は検挙後、[[共産主義]]に疑念を抱くようになった。そこで検察は二人を対面させて議論させた。議論を通じて両者の見解は一致し、1933年6月10日に「共同被告同志に告ぐる書」と題する声明書を公表した。既に獄中にあった党員に対しても、[[刑務所]]を通じて彼らの転向声明書が配布された。


この声明書の効果は絶大で、一ヶ月もしないうちに幹部の[[高橋貞樹]]・[[三田村四郎]]・[[中尾勝男]]が転向、学者の[[河上肇]]も転向宣言をし、以降雪崩を打ったかのように転向が相次いだ。転向せずに終戦を迎えたのは[[宮本顕治]]など少数のみであった。
この声明書の効果は絶大で、一ヶ月もしないうちに幹部の[[高橋貞樹]]・[[三田村四郎]]・[[中尾勝男]]・[[風間丈吉]]・[[田中清玄]]が転向、学者の[[河上肇]]も転向宣言をし、以降雪崩を打ったかのように転向が相次いだ。転向せずに終戦を迎えたのは[[宮本顕治]]など少数のみであった<ref>[[保阪正康]] 昭和史の大河を往く 第251回 [[サンデー毎日]] 2011年3月27日特大号 pp.52-55</ref>


==要旨==
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==参考文献==
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*『'''日本共産党の研究 下'''』(立花隆 1978年)
*『'''日本共産党の研究 下'''』(立花隆 1978年)

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2011年3月21日 (月) 03:25時点における版

共同被告同志に告ぐる書(きょうどうひこくどうしにつぐるしょ)とは、1933年6月10日日本共産党幹部の佐野学鍋山貞親が公表した転向宣言。俗に「佐野・鍋山転向声明」・「転向声明」という。

概要

佐野学と鍋山貞親は検挙後、共産主義に疑念を抱くようになった。そこで検察は二人を対面させて議論させた。議論を通じて両者の見解は一致し、1933年6月10日に「共同被告同志に告ぐる書」と題する声明書を公表した。既に獄中にあった党員に対しても、刑務所を通じて彼らの転向声明書が配布された。

この声明書の効果は絶大で、一ヶ月もしないうちに幹部の高橋貞樹三田村四郎中尾勝男風間丈吉田中清玄が転向、学者の河上肇も転向宣言をし、以降雪崩を打ったかのように転向が相次いだ。転向せずに終戦を迎えたのは宮本顕治など少数のみであった[1]

要旨

  • 共産党が急進的小ブルジョア政党と化し、労働者大衆から遊離したことに対する批判
  • 共産党がコミンテルンの下部機関と化したことに対する批判
  • 天皇制廃止を掲げた32年テーゼの批判
  • 社会主義は、各国の事情に応じた形で取り入れるべきである
  • 天皇制廃止論は、ツァーリと同一視したコミンテルンの誤りであり、国民一般の皇室尊崇の念をありのままに認めるべきである
  • 戦争一般は否定されるものではなく、「進歩的戦争」は肯定されるべきである
  • 民族自決の原則を批判し、アジアの社会主義大国を目指すべきである
  • コミンテルンは将来起こるであろう世界大戦で瓦解するとの予測
  • 労働問題・農業問題に対する認識は従来のまま
  • 同志は自分達の問題提起を受け止めてほしい

参考文献

  • 日本共産党の研究 下』(立花隆 1978年)

脚注

  1. ^ 保阪正康 昭和史の大河を往く 第251回 サンデー毎日 2011年3月27日特大号 pp.52-55

関連項目