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[[東北帝國大学]][[教授]]、[[宮城県知事]]、[[東北工業大学]][[学長]]などを歴任した。 |
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{{jdate|1883}}、[[埼玉県]]出身。{{jdate|1908}}、[[東京帝国大学]]卒業。 |
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[[仙台高等工業学校]](現・[[東北大学]][[工学部]])教授となった後、{{jdate|1917}}から翌年にかけて[[アメリカ合衆国]]に留学した。帰国後は東北帝国大学の工学部長などを務めて{{jdate|1945}}に退官、1946年から1950年までは宮城県仙台第一中学校(現・[[宮城県仙台第一高等学校]])の校長を務めた。 |
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{{jdate|1952}}から1956年まで、[[宮城県知事]]を一期務めた。{{jdate|1964}}には[[東北工業大学]][[学長]]に就任、{{jdate|1967}}に[[腸閉塞]]で死去した際には、同大学による大学葬が営まれた。 |
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== 親族 == |
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*兄 [[宮城長五郎]]([[検察官]]・[[法務大臣|司法大臣]]・[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]) |
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*義姉 [[宮城タマヨ]]([[参議院議員]]・兄長五郎の妻) |
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{{歴代知事_(日本)|[[画像:Shadow picture of Miyagi prefecture.png|20px]]|宮城県知事|2|佐々木家寿治|3|1952年|1956年|4|大沼康}} |
{{歴代知事_(日本)|[[画像:Shadow picture of Miyagi prefecture.png|20px]]|宮城県知事|2|佐々木家寿治|3|1952年|1956年|4|大沼康}} |
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{{宮城県知事}} |
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{{DEFAULTSORT:みやきおところう}} |
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[[Category:宮城県知事]] |
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[[Category:埼玉県の政治家]] |
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2010年10月5日 (火) 07:12時点における版
宮城 音五郎 みやぎ おとごろう | |
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生年月日 | 1883年8月3日 |
出生地 | 埼玉県 |
没年月日 | 1967年9月14日(84歳没) |
死没地 | 宮城県仙台市 |
出身校 | 東京帝国大学(現・東京大学) |
前職 |
仙台高等工業学校教授 東北帝国大学教授・工学部長 宮城県仙台第一中学校校長 東北工業大学学長 |
所属政党 | 無所属 |
公選第3代 宮城県知事 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1952年10月5日 - 1956年10月4日 |
宮城 音五郎(みやぎ おとごろう、1883年8月3日 - 1967年9月14日)は、日本の学者であり、政治家である。
東北帝國大学教授、宮城県知事、東北工業大学学長などを歴任した。
人物
1883年(明治16年)、埼玉県出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学卒業。
仙台高等工業学校(現・東北大学工学部)教授となった後、1917年(大正6年)から翌年にかけてアメリカ合衆国に留学した。帰国後は東北帝国大学の工学部長などを務めて1945年(昭和20年)に退官、1946年から1950年までは宮城県仙台第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)の校長を務めた。
1952年(昭和27年)から1956年まで、宮城県知事を一期務めた。1964年(昭和39年)には東北工業大学学長に就任、1967年(昭和42年)に腸閉塞で死去した際には、同大学による大学葬が営まれた。
親族
2代 佐々木家寿治 |
宮城県知事 3代:1952年 - 1956年 |
4代 大沼康 |