「剛竜馬」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Bio8310 (会話 | 投稿記録)
98行目: 98行目:
[[Category:全日本プロレスに所属したプロレスラー]]
[[Category:全日本プロレスに所属したプロレスラー]]
[[Category:国際プロレスに所属したプロレスラー]]
[[Category:国際プロレスに所属したプロレスラー]]
[[Category:プロレス・エグゼクティブ]]
[[Category:日本の俳優]]
[[Category:日本の俳優]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:東京都出身の人物]]

2009年10月21日 (水) 16:48時点における版

剛 竜馬
プロフィール
リングネーム 剛 竜馬
本名 八木 宏
ニックネーム プロレスバカ
身長 185cm
体重 108kg
誕生日 1956年3月23日
死亡日 (2009-10-18) 2009年10月18日(53歳没)
出身地 東京都新宿区
スポーツ歴 野球
アマチュアレスリング
デビュー 1972年9月9日
テンプレートを表示

剛 竜馬(ごう りゅうま、1956年3月23日 - 2009年10月18日)は、東京都新宿区出身、神戸育ちのプロレスラー俳優。本名は八木 宏(やぎ ひろし)。

人物と戦績

国際プロレス時代

中学生時代に日本プロレスで練習生をしていたが、1970年国際プロレス新人選手公募に14歳で合格し、卒業後正式入門。1972年9月に群馬県藤岡市立体育館の米村勉戦でデビュー。1973年鶴見五郎と共に海外武者修行に出され、カナダでは同じく海外派遣されていた長州力と3,4ヶ月間タッグを組んだこともある。1976年に凱旋帰国し、国プロと東京12チャンネルのファン公募によってリングネームを「剛竜馬」と名乗る。若く容姿にも恵まれた人気者で、次代の国プロを背負う期待の星と目されていた。

新日本プロレス時代

1978年に突如フリーを宣言して国際プロレスを退団し、当時売り出し中の藤波辰巳を中心にジュニアブームを起こしていた新日本プロレスに参戦、藤波との対戦を直訴する。この時の意気込みを「Do my Best!」と語り、藤波が保持するWWWFジュニア世界王者タイトルに同年7月と11月の2度挑戦したが、良いところなく連敗。1979年10月、3度目の挑戦で藤波に「逆さ押さえ込み」で初勝利しタイトル奪取するも、リマッチに敗れ2日天下に終わった。

1981年ANN系列の連続ドラマ『警視庁殺人課』に菅原文太鶴田浩二梅宮辰夫東映豪華配役陣と共に刑事役でレギュラー出演したが、余りの大根役者振りにシリーズ途中で降番させられ、俳優業はこの1作のみに留まった。

1982年5月には、国際プロレスの崩壊後「はぐれ国際軍団」として新日本に参戦して来た、先輩のラッシャー木村の渡米に帯同。木村と「ライジング・サンズ」を組み西海岸を半年余り転戦したが、帰国後は軍団入りも認められず、タイトルに絡むこともなく新日本の前座戦線に定着してしまい、同世代の長州、藤波、木村健吾らから大きく遅れを取った。新人の高田伸彦山崎一夫らを道場でしごき、鬼教官として怖れられていたという。

全日本プロレス時代

新日本の内紛から、1984年第一次UWFの旗揚げメンバーに名を連ねたが、ラッシャー木村と共に在籍4ヶ月で退団。理由は「路線を巡る対立」とも「外国人レスラーのブッキング窓口を巡るトラブル」とも言われているが、真相は不明。同年11月には全日本プロレスに転出し、ジャイアント馬場と仲間割れしたラッシャー木村以下、鶴見五郎、アポロ菅原高杉正彦国際血盟軍を結成したが、ラッシャー木村の試合後のマイクパフォーマンス以外に華のないファイトスタイルで次第に目立たなくなり、またジャパンプロレスの大量移籍で全日本における日本人選手が飽和状態となったため、1986年3月をもって整理解雇された。全日本在籍中にはタイガー・ジェット・シンハーリー・レイスらにシングルマッチで挑んでいるが、未勝利に終わっている。

その後、全日本の1987年7月のサマーアクションシリーズに1シリーズだけ復活招聘され、アジアタッグ争奪リーグ戦に鶴見五郎とのコンビで参戦したが、三つ巴の最下位に終わった。なお、ピンフォールを取られたのは総て剛である。最終戦の7月30日、東村山スポーツセンター大会の対谷津嘉章仲野信市組との対戦(パートナーはラッシャー木村)をもって、全日本マットから再び去った。心肺能力などは高い評価を受けていたが、体の硬さと不器用さが響き、第一線に出ることなくメジャー団体から放逐されることとなった。

パイオニア戦志時代

新間寿寿恒親子の新団体構想に、主要メンバーとして当初大仁田厚らと名が挙がっていたが、バブル景気に乗じて単独スポンサー獲得に成功したため、全日本リストラ組で元同僚の高杉、菅原と1988年11月に「パイオニア戦志[1]を旗揚げした。独自興行の傍ら、翌1989年4月からは「パイオニア軍団」の名で青柳政司栗栖正伸らと共闘し、新日へも再参戦。ヘビー級転向後の藤波と念願のシングルマッチも実現したが、実況の辻義就に「プロレスバカというよりもプロレスカバですね」と蔑まれた。営業面でも苦戦し、1990年10月には移動中に交通事故にも遭い、パイオニア戦志は同年12月に消滅した。

オリエンタルプロレス時代

パイオニア戦志崩壊後にはSWS入りの報道もあったが、多くの選手から猛反対を喰らい立消えになったため、新スポンサーを獲得して1992年7月に再び自らの団体「オリエンタルプロレス」を組織した。実力派外国人レスラーの参戦や金網デスマッチW★INGとの団体交流戦、「出前プロレス」「ほっかほかビデオ」などユニークな企画で滑り出しは好調だったが、外部から招聘したフロントが次々と去っただけでなく、4か月後の同年11月の千葉県船橋市大会を最後に、代表の剛本人までもが突如退団。これは若手との軋轢と報じられたが、実際には売り上げを巡って広報担当やスタッフと揉めたためとされる。

剛軍団時代

フリーランスとなった剛は渡米し、忍者ギミックの「THE NINJA GO」のリングネームでAWAに遠征し、設立間もないECWではハードコアマッチにも挑んだ。

帰国後の1993年8月に一人一党の「剛軍団」を旗揚げ。主にジェシー・バーを相方に、理想とするクラシカルな正統派プロレスリングを志向した、自主興行を地元で細々と展開していた。

そんな中で1994年、自らの志向とは正反対の怪奇派レスラー・宇宙魔神Xとのシングルマッチが決定。「あんなオモチャ野郎に負けるわけにはいかない」と昔ながらの山篭り特訓に励み、試合当日は場外乱闘で何度も「ショア!」と叫び、椅子やモップ、観客が弁当代わりに持参していたバナナなどを掲げながらアピールしての攻撃に、会場のファンは大声援。プロレスバカなるニックネームが定着したのは、この試合の前後である。

同年には、先輩のアニマル浜口とのタッグでWARにも参戦し、リング内外で「気合いダー!」「ショア!」 の応酬を展開。余勢を駆って『リングの魂』(テレビ朝日)にも連続出演した。これは同番組で注目を集めていたアニマル浜口に挑戦する企画で、「出演を直訴する手紙を自筆して送った」ものだったが、宛先には『リングの』と書かれていた。こうしたエピソードがプロレスバカのキャラクターを浸透させ、マニアだけでなく一般のプロレスファンの間にも人気や認知度が高まった。

1995年4月2日に週刊プロレスの発行元ベースボールマガジン社が主催した、東京ドームでのオールスター興行「夢の懸け橋 〜憧夢春爛漫〜(どうむはるらんまん)」の第4試合に参戦した際には、6万人の観客席から「ショア!」の掛け声が鳴り響いた。

この勢いで新スポンサー[2]も獲得し、「冴夢来プロジェクト[3]を立ち上げ、妻と2人の子供と共にポスター貼りをする姿が専門誌やテレビ東京の番組でも取り上げられたが、杜撰な経営と人気低迷で崩壊した。この時代に入門した美濃輪育久は剛の最後の弟子である。

その後

2000年にはミスター・ポーゴWWSのリングに上がったが、体調不良が顕著になったため解雇された。新日本再々参戦説も立消えになり、マット界からフェードアウトしかかっていたため、2001年12月には鶴見五郎の主催で引退試合を組まれたが、ギャラに納得できない剛本人が会場入りを拒否するという、前代未聞の引退セレモニーとなった。

また同2001年ゲイビデオ『格闘家〜燃える肉弾〜』に偽名で出演していたことが発覚。また同年中に『極太親父』『でかんしょ旋風児』『野郎四人衆』『侍、一本』などのホモビデオにも出演した。この件に関して、本人は「自分の体で稼ぐことの何が悪いのか」と事実を認めている。

2003年1月、JR新宿駅の自動券売機前にて69歳の女性の財布をひったくり、逃亡するも会社員らに取り押さえられ、188日間の拘置所生活を送る[要出典]。ただし本人は否定(不起訴処分)。この事件の影響で離婚にも至っている[要出典]

釈放後の2004年瀬戸本敏彦が立ち上げたNPO法人レッスルエイド・プロジェクト」(WAP)のエース格になり、若手有望外国人レスラーとの熱戦で一部マニアの注目を集めたが、不可解な顛末で自然消滅。半引退状態を経た2006年7月、DDTにて復帰戦が行われたが、無惨なほど衰えており、あまり話題にはならなかった。

2008年12月18日、「昭和プロレス 第2弾興行」後楽園ホールで第4試合バトルロイヤルに出場した。

2009年8月30日、ユニオンプロレスにて竜剛馬とタッグを組み、小笠原和彦(元極真)・松崎和彦のダブル和彦組と対戦。なお、竜剛馬は東大卒の唯一のプロレスラーで、本名「八本宏」が剛竜馬の本名と一字違いであり、その誼で、剛に敬意を表して一字違いのリングネームを名乗っている。9月3日新木場1stRING宮本和志自主興行が最後の試合になった。

2009年10月15日夜に神奈川県厚木市の自宅で倒れているところを長女が発見し、病院に搬送されたが、3日後の10月18日午前1時11分に敗血症のため死去した[4][5][6]。53歳没。

自転車を運転中の交通事故により開放骨折(かねてから患っていた過度の飲酒が原因の肝硬変による体力低下が原因[7])した、右手首の傷口から細菌が入り込み[8]、全身に感染したことによるものと見られている[9]

死去当日の通夜には、アニマル浜口、鶴見五郎、三宅稜松崎駿馬、宮本和志らが[8]、10月19日の告別式には浜口ら約30名のプロレス関係者が参列した[10]。浜口は葬儀後、「彼(剛)はね、早く両親を亡くしたために、自分で妹さんの進学費用も出していた心優しい男だったんですよ」と涙ながらに想い出を語った。

得意技

  • ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ
  • サイド・スープレックス
  • リバース・スープレックス

主要獲得タイトル

  • CWUSAタッグチャンピオン
  • アメリカスタッグチャンピオン
  • WWWFジュニアヘビー級チャンピオン

ドラマ出演

脚注

  1. ^ 団体名は菊池孝の発案
  2. ^ 藤拓地所
  3. ^ 当て字で「さむらい」と読む。間もなく「冴夢来プロレス」に改称
  4. ^ “プロレスバカ”として一世を風靡した剛竜馬さん死去 kamipro.com 2009年10月18日
  5. ^ 剛竜馬さん急死…昭和の“プロレスバカ”53歳早すぎる スポーツ報知 2009年10月19日
  6. ^ 剛竜馬さん死去…国際、新日などで活躍 デイリースポーツ 2009年10月18日
  7. ^ 「プロレスバカ」剛竜馬さん敗血症で死去 日刊スポーツ 2009年10月19日
  8. ^ a b サムライTVニュース 2009年10月19日
  9. ^ 東京スポーツ・2009年10月20日付 6面
  10. ^ 剛竜馬さん棺に「プロレス馬鹿」Tシャツ 日刊スポーツ 2009年10月10日閲覧

関連項目