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* [http://allabout.co.jp/children/infanteducation/closeup/CU20011225A/ 雅子さまが受けられた小和田家の教育方針 - [幼児教育]All About]
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2008年12月5日 (金) 18:45時点における版

小和田 恆(おわだ ひさし、1932年9月18日 - )は日本外交官チッソ元会長・江頭豊の女婿であり、徳仁親王の岳父にあたる。称号は、早稲田大学名誉博士(法学)。敬和学園大学名誉博士(哲学)。バーナラス・ヒンズー大学名誉法学博士(Doctor of Laws)。

経歴

1932年新潟県新発田市に教育者小和田穀夫、静の次男として生まれた。本籍地は新潟県村上市

旧制新潟県立柏崎中学校2年のとき、同校の校長を務めていた父穀夫が旧制新潟県立高田中学校の校長に赴任するために同校に転校した[1]新潟県立高田高等学校を経て、1955年 東京大学教養学部卒業。

同年、外務省に入省する。外務大臣秘書官事務取扱、1977年 福田赳夫内閣総理大臣秘書官に。秘書官には他に福田康夫保田博棚橋祐治らがいる。以後、駐アメリカ公使、外務省条約局長、外務大臣官房長、OECD代表部大使、外務審議官、外務事務次官国連大使などを歴任。2002年 広島大学学術顧問。 1991年湾岸戦争の際には、自衛隊の派遣に反対の立場をとった。

ハーバード大学客員教授、コロンビア大学法学部教授、ニューヨーク大学法学部客員教授などとして海外の大学の教壇に立った。 2004年現在、国際司法裁判所判事、日本国際問題研究所理事長で、放送大学での講義も受け持っている 。 国際法に通じ、外交関係の著作も多い。2008年脳梗塞で倒れる。

家族・親族

系譜

小和田家は江戸時代、越後村上藩(現・新潟県村上市)の下級武士だった。[4]。村上市に残る記録では、小和田姓の藩士名が散見される。それらの者は、下横目、同心、郡方懸りといった役であった。 しかし、それら小和田姓の藩士と恒の父祖との繋がりは明確にされていない。[5]。その理由のひとつに、対外的に公表されている小和田家の系図が恒の祖父である金吉以降のものである、というものがある。

一般的には、金吉は村上藩の下級武士である小和田匡利という人物の三男とする説が有力である[6]。 早世した金吉の職業が税務署員という公務員であり、また、村上藩「種川の制」の収益で創設された旧藩士子弟の育英制度の一員であったこと、下級武士の名簿でもある村上鮭産育養所の漁業権者名簿に金吉の名前が明記されている[7]こと、恒の父の穀夫が 国立高等教育機関であり、広島大学教育学部の前身である広島高等師範学校に進学しているという事実からもこの説が妥当ではないかと考えられている。

毅夫は広島高等師範学校を卒業後、旧制福島県立相馬中学校を皮切に各地の旧制中学高等女学校で教鞭をとり、1958年新潟県立高田高等学校校長を最後に勇退。その後、新潟県高田市教育委員長を務めるなど一貫して教育者として活躍した。


小和田金吉
 ┣━━━━毅夫 ┏顕
竹野     ┣━━┫
       ┃  ┣━━━━━━━━恆  ┏雅子
      ┃  ┃        ┃  ┃┣━━━━━━━敬宮愛子内親王     
田村又四郎━静  ┗統       ┃  ┃皇太子徳仁親王
                  ┃  ┃ 
                  ┣━━╋礼子    
江頭安太郎┏━━━━━━━━豊   ┃  ┃┃
 ┃   ┃        ┃   ┃  ┃池田祐久
 ┣━━━╋古賀博     ┃   ┃  ┃
 ┃   ┃        ┣━━優美子  ┗節子
 米子  ┗江頭隆━江藤淳 ┃               ┃
              ┃            渋谷健司       
山屋他人━━━━━━━━━寿々子

参考文献

  • 河原敏明 『皇太子妃雅子さま』 1993年
  • 川口素生 『小和田家の歴史 雅子妃殿下のご実家』 2001年 68-71頁
  • 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 2002年 394-401頁

関連項目

脚注

  1. ^ 『小和田家の歴史 雅子妃殿下のご実家』 69頁
  2. ^ 田村又四郎 - 村上藩嵩岡可笑の3男として生まれ、田村寛一郎の養子となる。旧制新潟中学校に国語・漢文の教員として勤務した
  3. ^ 村上市観光協会=武家屋敷
  4. ^ 村上藩において徒士、足軽、中間、若党は家中の外の存在であり、常雇いせず、臨時雇いで藩や主人と雇用関係を結んだ『村上藩』141頁-143頁
  5. ^ 皇太子妃殿下雅子様ゆかりの地 村上市郷土資料館HP
  6. ^ 『小和田家の歴史 雅子妃殿下のご実家』 37-40頁 - 小和田匡利は明治7年(1874年)7月28日に没するが 墓碑は村上にはなく新潟市泉性寺にある。泉性寺の匡利の墓碑には「新潟県貫族 士族村上住 小和田匡利」と刻まれている
  7. ^ 名簿は村上城址保存育英会が保存。現存する名簿に小和田金吉の名前もある

外部リンク

先代
栗山尚一
外務省事務次官
1991年 - 1993年
次代
斎藤邦彦