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[[2000年]]から[[2001年]]まで[[ガス]]企業・[[ガスプロム]]の取締役会議長(会長)を務める。2001年から[[2002年]]まで副会長。2002年[[6月30日]]から再びガスプロム会長に就任した。
[[2000年]]から[[2001年]]まで[[ガス]]企業・[[ガスプロム]]の取締役会議長(会長)を務める。2001年から[[2002年]]まで副会長。2002年[[6月30日]]から再びガスプロム会長に就任した。


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[[2003年]]10月[[アレクサンドル・ヴォローシン]]の跡を襲って大統領府長官に就任する。さらに、[[2005年]][[11月14日]]第一副首相に任命される。第一副首相就任に伴い、[[セルゲイ・イワノフ]]、[[ヴィクトル・ズブコフ]]などとともにプーチン後継の最有力候補の一人と取りざたされてきた。そして[[2007年]][[12月10日]]、[[ウラジーミル・プーチン]][[大統領]]は[[2008年]][[3月2日]]実施予定のロシア大統領選挙で自身の後継者としてメドヴェージェフを指名した。また政権与党である[[統一ロシア]]や、[[公正ロシア]]、[[ロシア農業党]]、[[市民勢力]]、[[緑の党 (ロシア)|緑の党]]、[[ロシアの愛国者]]などの諸政党も大統領選挙の候補者にメドヴェージェフを擁立することを決定した。[[2008年]][[3月2日]]、[[2008年ロシア大統領選挙]]で下馬評通りに圧勝し、5月7日にロシア連邦第3代大統領に就任した。


大統領就任後、かねてから言及していたとおり、プーチン前大統領を[[ロシアの首相|首相]]に指名した。2008年7月[[第34回主要国首脳会議]](北海道洞爺湖サミット)に出席するため訪日した。サミットの合間に[[福田康夫]]首相と個別に日露首脳会談を行ったが、その際、「[[北方領土]]問題が解決されれば、両国関係が最高水準に引き上げられることに疑いはない」などと述べ、北方領土問題の解決に意欲を示した。またプーチン首相、[[セルゲイ・イワノフ]]副首相、[[セルゲイ・ラヴロフ]]外相らの訪日で合意した。
メドヴェージェフは、プーチンを[[ロシアの首相|首相]]に指名した。


== 人物 ==
== 人物 ==

2008年7月9日 (水) 12:47時点における版

ドミトリー・メドヴェージェフ
Дмитрий Анатольевич Медведев


ロシアの旗 ロシア
第3代 大統領
任期 2008年5月7日

出生 (1965-09-14) 1965年9月14日(58歳)
レニングラード
政党 無所属(統一ロシア公正ロシアロシア農業党市民勢力緑の党ロシアの愛国者が支持)
配偶者 スヴェトラーナ・メドヴェージェヴァ(メドベージェワ)

ドミトリー・アナトリエヴィッチ・メドヴェージェフメドベージェフロシア語: Ru-DmitryMedvedev.ogg Дмитрий Анатольевич Медведев[ヘルプ/ファイル]IPA: [ˈdmʲitrʲɪj ɐnɐˈtolʲjɪvʲɪtɕ mʲɪˈdvʲedʲɪf]Dmitrii Anatolievich Medvedev1965年9月14日 - )は、ロシア政治家で第三代ロシア連邦大統領(在任2008年 - )である。

経歴

1965年9月14日ソビエト連邦レニングラードに生まれる。1987年レニングラード大学法学部を卒業し、同大学院に進学する。1990年には専門の私法分野で博士号を取得した。

1990年レニングラード市ソビエト人民代議員機関に勤務する。その傍らで、1991年から1999年まで母校のサンクトペテルブルク大学で非常勤講師として教壇に立つ。同じ時期にサンクトペテルブルク市と市長のアナトリー・サプチャークの法律専門家として勤務し、その後、サプチャークの補佐官となったプーチンと出会う。1991年から1990年代半ばまでサンクトペテルブルク市対外関係機関に勤務し、プーチンが議長を務めた対外経済関係委員会の法律専門家となっている。さらに1994年プーチン議長の顧問に就任する。1999年11月、ウラジーミル・プーチン首相によってサンクトペテルブルクからモスクワに移り、ロシア連邦政府に官房次長として勤務する。同年12月大統領府第一副長官に任命される。

2000年ロシア大統領選挙において、プーチン陣営の選挙対策本部責任者としてプーチンの大統領当選に貢献し、ロシアにおいて最も有力な政治家の一人に台頭する。

2000年から2001年までガス企業・ガスプロムの取締役会議長(会長)を務める。2001年から2002年まで副会長。2002年6月30日から再びガスプロム会長に就任した。

2003年10月アレクサンドル・ヴォローシンの跡を襲って大統領府長官に就任する。さらに、2005年11月14日第一副首相に任命される。第一副首相就任に伴い、セルゲイ・イワノフヴィクトル・ズブコフなどとともにプーチン後継の最有力候補の一人と取りざたされてきた。そして2007年12月10日ウラジーミル・プーチン大統領2008年3月2日実施予定のロシア大統領選挙で自身の後継者としてメドヴェージェフを指名した。また政権与党である統一ロシアや、公正ロシアロシア農業党市民勢力緑の党ロシアの愛国者などの諸政党も大統領選挙の候補者にメドヴェージェフを擁立することを決定した。2008年3月2日2008年ロシア大統領選挙で下馬評通りに圧勝し、5月7日にロシア連邦第3代大統領に就任した。

大統領就任後、かねてから言及していたとおり、プーチン前大統領を首相に指名した。2008年7月第34回主要国首脳会議(北海道洞爺湖サミット)に出席するため訪日した。サミットの合間に福田康夫首相と個別に日露首脳会談を行ったが、その際、「北方領土問題が解決されれば、両国関係が最高水準に引き上げられることに疑いはない」などと述べ、北方領土問題の解決に意欲を示した。またプーチン首相、セルゲイ・イワノフ副首相、セルゲイ・ラヴロフ外相らの訪日で合意した。

人物

政治姿勢

メドヴェージェフはプラグマティストであり、有能な行政手腕の持ち主である。その経歴からシロヴィキには含まれないが、シロヴィキの路線に同調し、プーチンに対して常に忠実な支持を与えてきた。その一方で、ロシア国内外で比較的、自由主義的な政治観を持った政治家と見なされており、ウラジスラフ・スルコフ大統領府副長官などが提唱する「主権民主主義」にはリベラル派として「批判を許さない民主主義はない」と異議を唱えたとも伝えられる。

しかし、2008年のロシア大統領選挙では、多くの自由主義的、ないし政権に批判的な政党、候補者が立候補を阻止されたことに対しては何ら批判的な見解を述べておらず、国内外にリベラル派としての知見が真実なのか疑念を持たせている。また、メドヴェージェフのこれまでの経歴が補佐役としての域を出ていないことから、大統領退任後も首相に就任し政治的影響力を維持したプーチンとの二頭政治(双頭政治)の推移とともに指導力を発揮できるかが今後の焦点とされる。

私生活

私生活はあまり明らかにされていない。家族は、1989年に結婚したスヴェトラーナ夫人とは小中学校時代の同級生であり、1996年に長男をもうけている。また、ロック音楽を好み、その中でもピンク・フロイドブラック・サバスがお気に入りのバンドである。プーチン同様スポーツマンとして知られており、学生時代は重量挙げの選手だった。 また、サンクトペテルブルグのサッカークラブ・ゼニト・サンクトペテルブルクのファンであることを公言している。 第34回主要国首脳会議(洞爺湖サミット)の際には日本に親しむ為、毎日緑茶を飲み、村上春樹の小説を読んでいる、と報道された。

関連項目

外部リンク


先代
ウラジーミル・プーチン
ロシアの旗 大統領
第5代: 2008 - 現在
次代
現職
先代
アレクサンドル・ヴォローシン
ロシアの旗 大統領府長官
第10代: 2003 - 2005
次代
セルゲイ・ソビャーニン