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松平憲良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平 憲良
時代 江戸時代前期
生誕 元和6年(1620年
死没 正保4年8月13日1647年9月11日
改名 八五郎(幼名)、憲良、忠憲
別名 五郎
戒名 月山宗江高樹院
墓所 東京都板橋区小豆沢の総泉寺
長野県小諸市荒町の宗心寺
官位 従五位下因幡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光
美濃国大垣藩藩主信濃国小諸藩藩主
氏族 久松松平家[1]
父母 父:松平忠良、母:酒井家次
兄弟 金田房能室、忠利梅渓院松平直政室、佐久間勝友正室、憲良善福寺永海室、土屋外記某室、康尚、喜太郎[2]
正室永井尚政の娘
娘(松平隆政正室)
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松平 憲良(まつだいら のりよし[2])は、江戸時代前期の大名美濃国大垣藩の第2代藩主、のち信濃国小諸藩藩主。官位従五位下因幡守[2]通称は五郎[3][2]。はじめ憲良、のち忠憲を名乗る[2]。妻は永井尚政の娘[2]

生涯

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元和6年(1620年)、美濃大垣藩の初代藩主・松平忠良の次男(嫡男)として大垣で誕生[2]。母は酒井家次の娘[2]

寛永元年(1624年)6月、父の死去により5歳で家督を相続し、遺領を継ぐ[3][2]。しかし幼少のため、同年9月、信濃国小諸に移封された[3][2]。所領は、佐久郡の北半分、小県郡内23か村、および北沢村内で1万石(現・佐久市)、計5万石だった[1]。このうち、庶兄・忠利に、小県郡3000石、佐久郡2000石、計5000石を分知した(祢津知行所)[4][3][2]

寛永11年(1634年)12月、従五位下・因幡守に叙位・任官する[2]。寛永18年(1641年)、はじめて小諸城に入った(それまで生活の中心は江戸にあった)[1][2]。藩政では、荒れ地の再開発や新田開発に特に力を入れた[5]。また、寛永年間に検地を行ない、5カ所の寺を開基するなどして治世の安定に努めた[4]

正保4年(1647年)8月13日、死去した[3][2]。享年28[6][2]。法名は月山宗江高樹院[2]総泉寺に葬られた[2]

嗣子がなかったため改易となった[6][3]慶安元年(1648年1月20日、弟・康尚が憲良の名跡を継ぎ、下野国那須郡内に1万石を与えられた[5][2]

系譜

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脚注

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参考文献

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外部リンク

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