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ノート:日中戦争/過去ログ2

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三光作戦について

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三光作戦が行われたと言う説がある出典を明記したのにも関わらず削除を行った方がいますが、三光作戦は本当に存在しないのでしょうか? この記事の日中戦争年表でも「1940年(昭和15年)10月 - 日本軍、燼滅作戦(三光作戦)開始。」という記述が存在しているのですが。そして、仮に三光作戦は実在しない中国のプロパガンダだとしても、それがあったという説そのものを日中戦争に記事から削除するのではなく、三光作戦の記事に誘導したり三光作戦論争という記事でも作成しそこで存在の是非の論争は譲り、この記事では三光作戦が日中戦争時に行われたという説が存在するということを記述してもかまわないと思うのですが。--パンダ三郎 2011年4月27日 (水) 06:22 (UTC)

化学兵器及び細菌戦について

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ここでは、"化学兵器及び細菌戦"項目や、731部隊について、いくつかの出典に基づき、
追記するべき事項であるか、そしてそれらの内容について議論させて下さい。
○日本国内外に於ける、裁判所の判決
 ・日本国 東京地方裁判所 1997年8月11日~2002年8月27日 判決は原告団側の請求を棄却したが、
  731部隊の存在と細菌戦の実施が証言によって認定されました。
 ・日本国 東京最高裁判所 2007年5月9日 最高裁判決は地裁判決の事実認定を覆し、
  高裁判決の化学兵器及び細菌戦の事実を認定したが、最高裁判決で上告棄却・不受理となっています。
 ・ロシア ハバロフスク裁判で、本部隊がペスト・コレラ・性病などの生物兵器、
  びらん性・腐食性の毒ガスを用いた化学兵器の"研究"に携わっていた特別の部隊であったと認定されました。

ところが、これらの事実関係は米公文書からは現在も見つかっていない。
実際に、731部隊についてもwiki内外で現在も結論に至らぬまま、議論されています。

この"情報"について、"日中戦争"内に追記するべきか、またそれら内容についての提案と議論をお願いします。
現在、英語版wiki内"Second Sino-Japanese War"では、
"Use of chemical and bacteriological weapons"と題され、その事実があったと書かれています。
出典
  ^ Y. Yoshimi and S. Matsuno, Dokugasusen Kankei Shiryō II
 ^ Yoshimi and Matsuno, idem, Herbert Bix, Hirohito and the Making of Modern Japan, 2001, p.360–364
 ^ Japan triggered bubonic plague outbreak, doctor claims, 
[2], http://www.scaruffi.com/politics/wwii.html, A time-line of World War II,
 Scaruffi Piero. Prince Tsuneyoshi Takeda and Prince Mikasa received a special
 screening by Shirō Ishii of a film showing imperial planes loading germ bombs
 for bubonic dissemination over Ningbo in 1940. (Daniel Barenblatt, 
A Plague upon Humanity, 2004, p.32.) All these weapons were experimented with on
 humans before being used in the field. 

[[利用者:Hideax|Hideax]] 2011年8月27日 (土) 17:04 (UTC)

追記 2011/08/28 出典54 平成14年8月27日判決言渡第1事件・平成9年(ワ)第16684号 損害賠償
         請求事件第2事件・平成11年(ワ)第27579号 損害賠償等請求事件
         これらの判決文より認定された内容について、年表に加える事としますが、
          "化学兵器及び細菌戦"項目追加やその他の出典は議論継続中としますので、宜しくお願いします。

Hideax 2011年8月27日 (土) 20:20 (UTC)

可読性向上(特に年表について)

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可読性向上の観点から編集しました。これまで前史の1905年の孫文の動きから年表が開始されていましたが、「経緯ー前史」節と重複しておりますし、また可読性を著しく損ねていました。日中戦争に到る経緯は確かに複雑で、年表による一覧は欠かせないにしても、単に事件名が羅列されても、文脈がつかめないと、理解をはばみます。できるかぎり、経緯は本文として組み込む必要があります。また日中全面戦争以降についても節化し、戦局その他を本文として記述するべきだと思います。--西方 2011年9月4日 (日) 16:18 (UTC)

出典の「置き換え」

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利用者:Zakincoさんの出典の「置き換え」ですが、信頼性を満たした出典を削除し、別の出典に置き換えられています。そして詳説世界史研究を出典とされていますが、高校教科書よりも学術論文の方が一般に精度も高く、信頼性も高いです。信頼性を満たした出典にもとづく過去の編集を改善ならまだしも改悪されませんようお願いします。--さんぽーる会話2014年2月5日 (水) 14:23 (UTC)

ご指摘の論文は近代中国の経済発展が主題なので、日中戦争の「遠因・背景」を俯瞰した記述をするには、ちょっと範囲が狭いだろうと思いましたので、より平易な教科書を載せました。今、Wikipedia:信頼できる情報源を読みましたら、

大学の教科書は、数年ごとに更新され、多くの専門家に評価されており、学問水準から離れないような努力が払われています。しかし、脚注がなかったり、史学史論上の議論がなかったりします。K-12水準の教科書は権威があるようには作られておらず、ウィキペディアの編集者は避けるべきです。

とあり、教科書を出典として使うことは避けるべきとありましたので、この出典は使わないようにします。他の信頼性の高い出典を探してみます。ご指摘ありがとうございました。--Zakinco会話2014年2月5日 (水) 15:47 (UTC)

経緯について

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ノートの過去ログに

日中戦争を理解するには、それ以前の日中関係をどうしても視野にいれる必要がある

日本と中国にとっての「近代」とはなんだったか、といった事柄抜きに、日中戦争を理解できない

利用者:西方会話 / 投稿記録さんが書かれていますが、1937年からの日中戦争とそれ以前の出来事が密接に関連していると述べている文献はどの程度あるのでしょうか?どの事件も多少は関連があるとは思いますが、現状の「経緯」でのそれらの記述は日中戦争自体についての理解を深めるのに役に立っているようには思えません。 盧溝橋事件から全面戦争の部分が日中戦争の主要部分で、それに至る経緯について述べている部分は関連度に応じて除去や要約して調整すべきだと思います。脚注もあまり付いていないので出典が示されていないのと同じですし、「経緯」部分を大幅に削減して見通しを良くしたいと考えています。ご意見いただければと思います。記事の改善にご協力をお願いいたします。--Zakinco会話2013年9月23日 (月) 06:50 (UTC)

Zakinco氏の大量除去は理由が不明瞭です。問題とされた「経緯」節は不十分なれど出典があるものもあるし(出典がないから除去という見解についても特殊な記述であればそれに該当するが、一般的な教科書にも記載されてある記述に対していうのは過剰) 、また履歴をみても執筆者は西方氏のみではありません。ご指摘の通り、現在の経緯節はいさかか過大ではありますが、短縮編集で対応可能。「1937年からの日中戦争とそれ以前の出来事が密接に関連していると述べている文献はどの程度あるのでしょうか?」とのご質問ですが、ここは質問サイトではありませんので、ご自身で出典または関連文献をお調べください。なお、大杉一雄「日中十五年戦争史」中央公論社などでも前史として山東出兵、満蒙問題から叙述されています。よって、差し戻します。--さんぽーる会話2013年12月2日 (月) 16:13 (UTC)

記事の改善にご協力いただきありがとうございます。「1937年からの日中戦争とそれ以前の出来事が密接に関連していると述べている文献」を出典として示す必要があるのは、記述を残したいと考える利用者:さんぽーる会話 / 投稿記録さんの方です。幸い大杉一雄「日中十五年戦争史」という出典があるそうなので、手を抜いた一括での記述の差し戻しをせずに、これを出典として前史をきちんと書いてください。出典を付けて記述を復帰させることには異論はありませんので。--Zakinco会話2013年12月2日 (月) 22:59 (UTC)
差し戻しが手抜きですか?Zakinco氏が問題とされたのは各文の出典ではなく「前史」との関連性ですが、アヘン戦争から中国、日本の近代化から日中戦争の経緯について述べられた本は無数にあります。図書館や書店で数冊でもご覧になるといいです。猪木正道『軍国日本の興亡 : 日清戦争から日中戦争へ』中央公論社では、中国と日本の近代化〜日清戦争〜日中戦争という流れを押さえてあり、現在の記事と矛盾もありません。--さんぽーる会話2013年12月3日 (火) 14:14 (UTC)
出典が付いていない記述の復帰は手抜き以外に表現しようがないでしょう。出典の付いている箇所の復帰は日中戦争との強い関連性があると書かれているならかまいませんが、出典が付いていない箇所の復帰は止めてください。どのような出典が日中戦争自体とその前後の事件との関連性について説明しているかは知りませんが、あくまでこの記事では日中戦争自体の記述が主で、それ以外の事件についてはそれぞれのWikipedia記事があると思いますので詳細はそちらに任せるべきです。ご指摘の「日清戦争〜日中戦争という流れ」に関する記述にふさわしいページは日中関係史#近代ですので、どうぞそちらに記述をお願いします。--Zakinco会話2013年12月3日 (火) 22:35 (UTC)
大杉一雄著「日中十五年戦争史」を見ましたが、山東出兵、満蒙問題については「日中十五年戦争」という括りの中で書かれています。それらについては十五年戦争という記事がありますので、そちらに記述していただくことが望ましいです。この本では、盧溝橋事件から始まる「日中戦争」の前史として1935年の事件から書かれていますので、それ以前の事件の記述についてはこの出典からは書くべきではないでしょう。記事日中戦争には、十五年戦争と重複しますが、主に盧溝橋事件から太平洋戦争の終了までを記述すれば良いと考えます。
利用者:さんぽーる会話 / 投稿記録さんのように「日中十五年戦争」という括りで記事を成長させたい場合は、十五年戦争の方に記述をお願いいたします。--Zakinco会話2013年12月4日 (水) 06:34 (UTC)
まず、Zakinco氏が行った編集を再確認しておきます。「出典がない」ことを金科玉条の理由にされていますが、どの文についてなのか指摘をしましょう。指摘をせずに漠然と前史節全体が不要として削除するのは問題のすりかえですし、横暴です。そういう基準だと第一次世界大戦からは背景節は削除、太平洋戦争からは開戦前史は削除で、戦争関連の記事は開戦日から執筆すべきいうことになっちゃいます(いずれの記事もあなたの基準での全体的な関連性についての出典が個々の文章であげられていません)。実際、あなたは満州事変〜開戦の経緯さえ削除しました。たしかに以前に執筆された方が何にもとづいて執筆したのかについては不備があります(そうであるとしてもそれはどの文か指摘すべき)。しかし満州事変から日中戦争の経緯については関連文献を読めば関連性は自明なことです。「日中戦争との強い関連性があると書かれているならかまいません」とおっしゃいますが、「背景」「前史」として列強の東アジア進出(起点はアヘン戦争)、そして近代日本の大陸進出(日清戦争を起点)についてはすでにあげた文献等にも記載されています。Zakinco氏は分量のバランスを気にされているのでしょうか?しかし、開戦後の戦況の推移についてはスタブなのでまずはそちらを執筆してから全体のバランスという順番になるのではないでしょうか。
日中関係史は二国間関係の通史です。日中戦争の前史は、日中全面戦争にいたる日中摩擦・日中対立の歴史に絞って概括するもので、記事の性格が異なります。
十五年戦争への移動ですが、手続きにもとづいて移動提案すべきでしょう。私は十五年戦争は「日中十五年戦争」ならまだしも「日中」が消えているので不明瞭と考えます。日中戦争は太平洋戦争、および第二次世界大戦の極東戦線でもあるし、また大東亜戦争は支那事変〜対英米戦争を包含するもので、どの記事にどの記載があるべきかについて不変的な基準があるわけでもなく、混乱を避けるためにも私はむしろ十五年戦争は日中戦争に統合した方がいいと思います。--さんぽーる会話2013年12月4日 (水) 16:15 (UTC)
私が除去を行った理由は、現状の記述では「盧溝橋事件から全面戦争の部分が日中戦争の主要部分」であるのに前史の記述が長すぎて見通しが悪いこと、が主な理由です。もちろんこれらの記述が、日中戦争の前史として記述されるべきということが分かる出典が多数付いていたなら除去はしていないと思います。除去に関するコメント依頼は出していませんが、ノートで議論を呼びかけ一定期間待った上で除去の編集をやりました。「理由が不明瞭」と言われるほど不明瞭ではないと思います。
現在「経緯」節に付いている出典は、
  • 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史11>(講談社、2004年)58頁
  • 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史11>(講談社、2004年)61頁
  • 臼井勝美 (1995). 張学良の昭和史最後の証言
  • 阿羅健一『日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』小学館、2008年,28頁
  • 『幾山河 : 瀬島龍三回想録』 産経新聞ニュースサービス、1996年、ISBN 4-594-02041-0
  • 『東京朝日新聞』1935年10月27日付朝刊 2面
  • 『東京朝日新聞』1935年10月24日付夕刊 1面
  • North-China Daily News, October 23 1935, p.9
  • 『東京朝日新聞』1935年10月22日付朝刊 2面
ですが、これらの出典が付いてない箇所はすべて出典なしです。出典に目を通したわけではありませんが、日中戦争(1937-)という視点からの記述がありそうな出典は、阿羅健一『日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』のみで、他の文献はタイトルや日付から判断すると、単独で日中戦争前史として記述するには関連性の説明が不足していると予想されるので、他の文献で出典を補う必要があるように思います。記述を残したい側が記事の主題との関連を示す出典を提示すべきです。
十五年戦争は「日中十五年戦争」に記事名を変更すべきという主張はあちらの記事で試みてください。あと、私は「十五年戦争への移動」を主張していません。
編集方針の相違について、二者間で話し合って解決することは無理だと思いますので、コメント依頼をするために論点を整理します。--Zakinco会話2013年12月5日 (木) 01:18 (UTC)
出典不足については互いに合致してますから、それでは出典を補いましょう。あと、↓の論点整理ですが、こういうコメント依頼のためのノートはサンドボックスを利用するといいです。我々の議論は普通に読めるもので特段難解なことを話しているわけでもないので、こういう整理は重複になり、他の方は読みにくいと思います。↓は削除する方がいいと思います。(あなたも移動提案されないようですし、私もいまは統合提案するつもりもないです)--さんぽーる会話2013年12月5日 (木) 13:15 (UTC)

論点整理をサブページに移動しました。/記事「日中戦争」の編集方針について。出典不足の現状をご理解いただきありがとうございます。日中戦争の前史をどこから記述すべきかという点について合意はできていないので、コメント依頼を出して意見を募りたいと思います。--Zakinco会話2013年12月5日 (木) 23:22 (UTC)

報告 世界大百科事典(2007年版、改訂新版)の日中戦争の項目では、前史として1931年の満州事変から記述されていました。ご参考ください。--Zakinco会話2013年12月11日 (水) 11:42 (UTC)
コメント コメント依頼からきました。手元の事典では以下のようになっています。
  • 『Encyclopædia Britannica』(Ultimate Reference Suite,2012)では、"World War II"(大項目)の項に日中戦争前半"The war in China, 1937–41"の節があり、全体の1/3を満州事変からの経緯の説明にあてています。 "Sino-Japanese War(1937–45)"(小項目)の項では、"Sino-Japanese War(1937–45), conflict that broke out when China began full-scale resistance to the expansion of Japanese influence in its territory (which had begun in 1931)." と定義文で満州事変に言及しています。
  • 『角川世界史事典』『角川日本史事典』の日中戦争の項では、いずれも満州事変に言及しています。なお、両事典とも十五年戦争は別項目です。
--Yhiroyuki会話2013年12月15日 (日) 08:20 (UTC)
Yhiroyukiさん、コメントありがとうございます。--Zakinco会話2013年12月16日 (月) 14:55 (UTC)

上のほうに「大杉一雄『日中十五年戦争史』中央公論社などでも前史として山東出兵、満蒙問題から叙述されています」という記述がありますが、I章の1は"ポスト満州事変"で塘沽停戦協定から始まっています。なので山東出兵はないのでは? この記事で山東出兵に言及するのはアリだと思いますけど。なお、I章の2は"満蒙問題とその「解決」"です。この記事では、満州事変への記述は外せないと思います。Takabeg会話2015年6月26日 (金) 14:08 (UTC)

カール・カワカミ『シナ大陸の真相』

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この記事だけではなく他の記事 (例えば、第二次上海事変)でも利用されていて気になっていたのですが、 大筋ではそれほど間違ってはいないのでしょうが、微妙に違う部分が結構あります。もしかしたら翻訳が悪いのかもしれませんが、この本は同時代に書かれたものなので「一次資料」に入ってしまうと思います。当時の新聞もそうですが、単独で用いるのではなく、「二次資料」で傍証する必要があるものと考えます。Takabeg会話2015年6月23日 (火) 23:22 (UTC)

記事の信頼性向上に必要な改善案だと思います。--Zakinco会話2015年6月24日 (水) 09:22 (UTC)

教科書

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「日本軍による三光政策南京事件などにより、」から始まる部分ですが、ソースが教科書のようです (正確には『もういちど読む山川世界史』)。Wikipedia:信頼できる情報源によると「K-12水準の教科書は権威があるようには作られておらず、ウィキペディアの編集者は避けるべきです」とあるので、「歴史教科書問題と日中戦争」のようなサブタイトルのもとで記述されるのはよいのでしょうが、現在の形では利用不可能です。また、世界史の教科書も山川世界史だけではないので、「歴史教科書問題と日中戦争」に関する記述に書き換えるにしても、貧弱すぎて百科事典的ではありません。とりあえず、隠しておきます。Takabeg会話2015年6月26日 (金) 14:26 (UTC)

「遠因・背景」の部分が冗長

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記事の冒頭には、「日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1937年から1945年まで、」とあるのに、1937年の事件がなかなか出てこないので、最初に読んだときには、途中で嫌になって最後まで読めませんでした。「時代区分」というから、積極攻勢期とか攻勢抑制期とか、長期にわたる戦争を幾つかの時期にわけるものも出てくるかと想像していたら、それが無くて、トホホ。「江口圭一は日露戦争から太平洋戦争直前までの期間を三つの時期に区分している」以下の部分は、めちゃくちゃ長いので、江口圭一に移せばいいような気がします。江口氏には『十五年戦争小史』という著書もあるので、ぶれてるのかなぁとも感じますし。

とにかく「遠因・背景」の部分が冗長すぎて、「日清戦争の遠因・背景」か?、とか、「満州事変の背景」ではないのか?などと思える事件とほとんど関係なさそうな事件とが延々と羅列してあるだけで、非常に冗長になっています。参考までに、他言語ウィキペディアを覗き見してみました。

例えば、英語版 (冒頭写真に村瀬守保氏のものが使用されているのはさすがプロパガンダ戦争の舞台となっている英語版)では、「名称」、「背景」(日清戦争中華民国二十一か条要求済南事件易幟満州事変)のあと「戦況」に入っています。

また、中国語版では、「名称」、「戦争背景」 (明治維新から済南事件までを簡潔に説明) の次に、「背景」ではなく「局部戦争」という扱いで、日軍侵占東北 (満州事変に相当)、上海事變 (第一次上海事変)、華北危機 (綏遠事件、北支自治運動)、中國共產主義的興起 (中華ソビエト共和国)、中國的救亡運動 (一二・九運動)、西安事變を説明し、全面戰爭に入っています。

良質な記事に選出されている独語版 (以前は冒頭写真のキャプションが瓦斯攻撃とされていた)ではというと、「背景」の直後、「(戦争の) 経過」に入っています。

肝心な日中戦争そのものに関する記述が充実しているならばバランスがとれていたのかもなぁ、という感じもしましたが、それらの記述は年表に毛が生えた程度で貧弱このうえありません。いずれにしても、「遠因・背景」のうち、一部は要約し、大部は日中関係日中関係史#近代に移すべき内容であると考えます。というわけで、今すぐにこれらを修正する時間と気力とソースを持ち合わせていませんので、とりあえず{{内容過剰}}を付けておきます。Takabeg会話2015年6月22日 (月) 22:39 (UTC)

Takabegさん、ご指摘ありがとうございます。私も減らした方が良いと思っていますので、お時間ができましたら修正作業をお願いします。念のため修正前に過去の議論に目を通しておいてください。冗長な記述になっている理由が書かれています。ノート:日中戦争#経緯についてノート:日中戦争/記事「日中戦争」の編集方針について。--Zakinco会話2015年6月23日 (火) 00:57 (UTC)
Zakinco さんも、お時間ができましたら修正作業をお願いします。「ノート」を読みました。圧縮した要約を作りつつ「尾ひれ」の部分を他のより相応しい記事に移しましょう。それと、ついでになってしまって申し訳ありませんが、この箇所を明瞭化していただけませんか?いずれは、立作太郎 (著書『戦時国際法論』この辺りの論争で利用 (悪用?)されている方です)や新渡戸稲造などの意見もまぜて満州事変 (満州事変#スティムソン・ドクトリン)かなにかに移してしまえばいいと思っていますが、ここにある段階で修正できるものは修正しておいたほうがよいかとも思います。よろしくお願いいたします。Takabeg会話2015年6月23日 (火) 03:23 (UTC)
問題の起源はこの辺りですね。Takabeg会話2015年6月23日 (火) 23:22 (UTC)
「せっかく利用者が書いてくれたのだから有効活用したい」という思いで他の記事に移植するように努力していたのですが、利用者:さんぽーるさんが 分割はWP:MMの手順をとること。ということで、不正確な部分を含め全て差し戻してしまいました。この辺りの記述があるせいで、この記事が読みにくく、さらに発展しにくくなっている現実をいつまでも納得できないかのようです。しかも、当該部分が日中戦争と一緒に論述されている記述ではなく、事件の単なる羅列になっているので、移植作業を少しだけ始めてみて解ったのですが、分割作業はかなり困難になります。したがいまして、この辺りの編集を全削除することを提案いたします。Takabeg会話2015年6月29日 (月) 23:25 (UTC)
コメント依頼をしておきました。Takabeg会話2015年6月29日 (月) 23:34 (UTC)

反対 あなたのいう「移植」とはjawpにおける分割に該当する作業です。WP:MMにある手順とは、「1.ページの一番上の部分に {分割提案} テンプレートを貼付します。2.ノートページで、分割提案の趣旨を説明し、意見を募ります。3.より多くの編集者に知ってもらうために、Wikipedia:分割提案に提案内容を記載して呼び掛けを行います。」のことで、最低一週間の検討期間を設置することです。これはjawpにおける分割の最低限のルールなので、ご理解ください。ご提案を分割提案としたうえで反対します。日中全面戦争にいたる経緯は必要です。バランスであれば全面戦争以降を加筆して充実させる方が適切です。--さんぽーる会話2015年6月30日 (火) 13:52 (UTC)

問題のそもそもの原因がこの観点の提示 (2010年10月21日)ですが、この利用者:西方さんの持論はWikipedia:独自研究でありWikipedia:観点でしかありません。なぜなら日中戦争をテーマとして執筆されたWikipedia:信頼できる情報源 (書籍や論文など)のいずれを見ても、これほど過去にはさかのぼっているものはないからです。日本の近代史、日本軍の歴史、日本の帝国主義的膨張などをテーマとして執筆されたものであれば、ある程度余計に過去にさかのぼっているものもありますが、この記事のテーマはあくまでも日中戦争なのです。「○○だけでは理解できない」という意見の類では、古屋哲夫さんが岩波の黄版『日中戦争』で「盧溝橋事件からではわからない」と指摘していますが、その彼にしても満州事変の終わりにあたる塘沽協定から始めています。ただし、満州事変支那事変アジア太平洋戦争 (この最後の用語は個人的には使用していませんがこの説の支持者は常用しています)の間の連続性を主張する説が存在するので満州事変という記事は存在しますが、この記事でも触れてよいと思います。また、個人的には、日中関係史の直近の重要な事件として南京事件 (1927年)、済南事件などには触れてもいいとは思います (戸部良一さんは日中戦争そのものをテーマにしているわけではありませんが、日中衝突 (盧溝橋のこと)にいたる前おきとしてこれらの事件に触れています)。ということからも明白なように、「遠因・背景」の現状が利用者:西方さんのWikipedia:独自研究でありWikipedia:観点でないという立証はできていないのであります。その後、利用者:西方さんはどこかへ行ってしまったようですが、利用者:さんぽーるさんがそのWikipedia:独自研究Wikipedia:観点を継承してしまっているようです。

日中戦争に関する知識や情報が入手できたのでWikipediaの読者の皆さんと分かち合おうと思いたった利用者は、確認の意味も込めて、まずこの記事を読み始めることでしょう。利用者:Zakincoさんもその一人だったはずです。そして、すぐ目につくのが、不必要なレヴェルでの「遠因・背景」(前史)の存在です。日中戦争を知りたい読者の目からみると、「騙された」感は半端ではなく、この記事の現状は不当表示にあたるのではないかと思ってしまいます。日中戦争と関連させた話が続いているのであれば、単に「長すぎる」で済む話なのでしょうが、本記事では長いだけでなく、日中戦争の理解の手助けになっていないのです。そこで、利用者:Zakincoさんは2013年9月23日に問題点 (利用者:西方さんのWikipedia:独自研究であることなど)を指摘し改善方法を提案しています。それに対してさんぽーるさんは、「日中十五年戦争史」中央公論社などでも前史として山東出兵、満蒙問題から叙述されています。(2013年12月2日)と言って差し戻してしまっています。この記事をより良いものにしよう、読者の皆さんにとって読みやすく理解しやすいものにしようという利用者:Zakincoさんの意志は粉砕されてしまったのでしょう。それ以降、この記事が健全に発展したようには見えません。この記事の健全なる発展を阻害するのが利用者:さんぽーるさんの意図したところではないと思いますが、結果的にはそうなってしまったのです。Takabeg会話2015年7月1日 (水) 23:30 (UTC)

トップにあるように論争的な箇所について重大な変更を加える際はコミュニティの合意形成に努めてください。二度目ですが、全面戦争以降を加筆して充実させる方が適切です。既存の記述は特に冗長ではありません。--さんぽーる会話2015年7月2日 (木) 06:56 (UTC)
冗長であるとともに、Wikipedia:独自研究に基づくところが問題です。標準的な日中戦争をテーマにした書籍に、本記事の現在版のような構成のようなものがあるのでしょうか? まずは情報源をあたってWikipedia:独自研究にあたらないことを証明してみてください。とはいっても、北原惇『なぜ太平洋戦争になったのか: 西洋のエゴイズムに翻弄された日本の悲劇』の第39頁に「しかしこのペリ—の開国要求に対する強い反発は、よく考えてみると、日本人奴隸取引とキリシタンを含めてのポルトガル、スペインに対する強い反発にもとづいている、その意味では太平洋戦争にいたるまでの日本の歴史は日本とポルトガルとの関係にまでさかのぼらなければ正確には理解できないのではないだろうか」という文があるからといって、太平洋戦争の記事で鉄砲伝来南蛮貿易について長々と説明して、「関ヶ原の戦いが勃発した」とか「第一次世界大戦が勃発した」と書いてしまうのは論外でしょうが。。。ご理解いただけましたか?Takabeg会話2015年7月7日 (火) 04:37 (UTC)
上の方でさんぽーるさんは「あなたのいう「移植」とはjawpにおける分割に該当する作業です」と勝手に思い込まれているようですが、これは大きな誤解です。Wikipedia:分割提案では「分割先の記事」が必要です。上記にも述べた通り当初は分割も考えていたのですが、分割先の記事 (複数)にもこの程度のことは書いてあり、かえって分割先の記事を破壊しかねない危険性があることに気付きました。私の提案は、西方さんのPOVに基づいた「遠因・背景」の全削除 (削除といっても西方さんの版のWikipedia:削除依頼ということではなく単純な除去)です。したがいまして、私の知る限りこのページでコンセンサスを得るように努める以外に方法はないようです。ただし、他の利用者が合理的な分割を提案することができるのでされば、賛成するつもりです。Takabeg会話2015年7月7日 (火) 09:40 (UTC)

反対 あなたの削除提案には賛同できません。「北清事変と支那駐屯軍の設置」節で出典が明記されたうえで在清駐屯軍(支那駐屯軍)の駐屯開始について説明してあり、これは別の出典で補ってもいいですが日本の大陸進出史上特に重要な事件です。これ以降の経緯では日中戦争までつながっています。これを独自研究とあなたは主張なさっていますが、出典が明記されており、独自研究ではありません。北清事変以前の記載について、この程度の分量が冗長という主張には首をかしげます。なにを理由に冗長とするのですか?あなたの主張はキリスト教記事において近世までの歴史は別に記事もあるし、冗長であるため削除するといっているようなものです。削除を提案するなら、もう少し他の編集者に配慮したうえで説得できるよう工夫をしたらいかがでしょうか。コミュニティの合意なしに有益な記述を削除するのはルール違反です。--さんぽーる会話2015年7月12日 (日) 15:01 (UTC)

ソースについて

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この記事のソースを見ると、何故だか新書が多いようです。新書は制約が多いので余り優れたソース足りえないと思いますが、使用を禁止されている訳ではありません。そこで少し関連本を見てみました。

この頁の上のほうでも触れられている大杉一雄氏の『日中十五年戦争史』は、塘沽停戦協定から始まっています。また、十五年戦争史という表題とは裏腹に、近衛の一・一六声明で終わっています。名前負けか、出版社・編集者が勝手に表題をつけたのか、は知りませんが、内容を確認しないで購入された読者は残念な気持ちになると思います。

臼井勝美氏の『日中戦争-和平か戦線拡大か-』は、「はしがき:時期区分と人物」の次に、「一.前史」となっていて、塘沽停戦協定、「天羽声明」前後、梅津・何応欽協定の成立、広田弾原則、華北自治工作の挫折、、、と続きます。通史なのですが、

古屋哲夫氏の『日中戦争』は、「盧溝橋事件からではわからない」として、塘沽協定梅津・何応欽協定土肥原・秦徳純協定など「現地解決」からです。

小林秀夫氏の『日中戦争-殲滅戦から消耗戦へ』は、「序章:殲滅戦争と消耗戦争」の後、第一章は「1. 満州事変と抗日運動」、「2, 盧溝橋事件と日中開戦」という感じで始まります。この新書は、ジョセフ・ナイの影響を受けて日中戦争をソフト・パワーとハード・パワーを使って説明してみたくて書いた本だそうで、日中戦争の全体像を掴むのは厳しいです。

川田稔氏の『昭和陸軍全史2 日中戦争』は、「プロローグ:満州事変から日中戦争へ―永田鉄山・石原莞爾・武藤章―」の後、第一章は、「1. 陸軍省・参謀本部合同首脳会議と永田・小畑の対立」、「2. 対中国戦略をめぐる対立」、「3. 日ソ不可侵条約と北満鉄道買収問題」となっています。タイトルから解るように日本の陸軍のお話なので、中国側からの視点に関しては最低限しか触れられていません。そして、「第二次世界大戦の開始と武藤章軍務局長の就任」で終わりです。川田氏の『昭和陸軍全史3』 (全三巻)はまだ未刊ですが、分量の関係から、1941年末から1945年までの情報がテンコ盛りという期待はできそうもありません。

ここに挙げたものに限ったことではないのですが、日中戦争モノ、太平洋戦争モノ全般に言えるのが、太平洋戦争が始まった後の「支那戦線」に関する情報が殆ど無いか申し訳程度に触れられているか、ということです。

盧溝橋事件に至る経緯 (前史のこと)や支那事変 (宣戦布告前)に関する情報は得やすくても、公式に戦争になってから終戦までの期間、つまり1941年末から1945年までの情報を探すのに骨が折れます。というわけで、この記事の骨組を新書で書き上げるのは困難である、と考えます。Takabeg会話2015年6月26日 (金) 14:21 (UTC)

調査ありがとうございます。まあ、新書ですからね。個人的には日中歴史共同研究の日中戦争の章を骨組に肉付けしていく方向でよいのではないかと思っていますが、Takabegさんがよりふさわしい出典をご存知でしたらご提示ください。--Zakinco会話2015年6月27日 (土) 01:22 (UTC)
真珠湾以降の日中戦争 (第二次世界大戦中国戦線)の経緯を、真珠湾前と同等の分量と詳細さをもって解説している概説書 (専門書ならありますが)は、今のところ発見していません。『戦史叢書』、堀場一雄井本熊男などなどを使ってもいいのですが、それでも支那側のもの、他の"同盟國"のものが弱くなってしまいます。「日中歴史共同研究の日中戦争の章」は、日中両方の論者が書いていますし、15年戦争資料 @wikiでソースを確認できますから、他の利用者による検証のしやすさという点では良いと思います。お時間があるときに、よろしくお願いいたします。Takabeg会話2015年6月30日 (火) 00:02 (UTC)

江口圭一氏の区分

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江口圭一氏には『十五年戦争小史』という著書もあるし、そもそも何故1941年で断絶させてしまうのだろうかと、訝しげに思っており、実際にソースを調べてみました。すると、江口氏が担当した章の冒頭に "この巻の通史は、執筆要綱によれば、「日露戦争後から真珠湾攻撃前夜までを大観する」ものである。" と書かれているではありませんか。つまり、「1905年から1945年1941年までを分ける」という縛りがあっての時代区分なわけです。ということで外します。Takabeg会話2015年6月26日 (金) 22:05 (UTC)

1941年の太平洋戦争(大東亜戦争)以降は、日中戦争が単独の戦争ではなく、中国戦線として扱われます。江口論文もそうした常識を踏まえたものでしょう。冒頭の要綱をもって真珠湾攻撃以前の経緯についての論説を削除するのはおかしいです。--さんぽーる会話2015年6月29日 (月) 16:31 (UTC)

いいえ。除去は正当です。江口圭一さんは、1941年以降は取り扱っていないのです。江口さんは、『日本通史 第18巻 近代3』のために、1918年から1941年までの間を書いてくださいといわれたので、その論文の時代区分として1905年-1918年をだいこの分類で日中戦争の位置づけを定義ししているわでありません。日本の膨張の過程を「三つの時期に区分されるであろう」といっているだけです。また、「日中戦争がこの時期に相当する」などとも言っていません。この部分を他の記事で有効活用することも可能であると思いますが (どこにも移行しなくてもかまいません)、少なくともこの記事において、「日中戦争の時代区分」というタイトルの下で、「日本の膨張期の時代区分」を説明するのは、不適切です。 Takabeg会話2015年6月29日 (月) 23:16 (UTC)
出典の更新には感謝します。しかし、除去には同意できません。注釈などの形で残すことで合意できますか?--さんぽーる会話2015年6月30日 (火) 13:39 (UTC)
江口圭一氏は「十五年戦争」史観の代表的な支持者ですので、大きな枠組みで1941年で区切られている、一つの論文の構成上の都合で書いた一文を置いておくと、あたかも同氏の持論であるかのような印象を与えかねないので、読者が被るであろう被害の度合いとしてはこの編集よりましかなという程度です (これはこれで後ほど指摘します)。注釈に入れば、読者が被るかもしれない被害は減少できる可能性はあるかもしれませんね。私個人の意見は「除去」ですが、とりあえず注釈にいれて{{要検討}}をつけておくのが有益であると思います。そして、この論争を理解している利用者による意見の提示と編集を待つのが最善の策であると考えます。Takabeg会話2015年7月7日 (火) 03:35 (UTC)

NPOV違反

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Takabeg さんによる一方的な削除。自分好みの見解だけを残して、自分が嫌いな見解をすべて削除することはWP:NPOV違反です。二回目の警告をしましたが、さらに削除を強行するとWP:VANDALに該当します。--さんぽーる会話2015年6月30日 (火) 14:03 (UTC)

このコメントをもって回答とさせていただきます。この点に関しては、Wikipedia:安易に荒らしと呼ばないが重要なポイントです。Takabeg会話2015年7月7日 (火) 03:10 (UTC)

さんぽーるさんの編集

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さんぽーるさんのこの編集なのですが、非常に違和感を感じざるを得ません。読者にとって有益な情報を除去して、結局のところ自身の好みの版に戻しただけのように見受けられます。

直上のノートで「二回目の警告をしましたが」とありますが、警告を受けた記憶はありません。「Takabeg さんによる一方的な削除」とおっしゃっていますが、下記に示しますが、「一方的な削除」ではなく「双方的な削除」といったほうが公平な言い回しだとおもいます。「一方的な削除」と主張されると、他の利用者の方々に、さんぽーるさんが何も削除しなかったかのような錯覚を起こさせる原因となります。印象操作なのでは?私は既存部分もできる限り生かそうとつとめてはいるのですが、ご理解いただけなかったようです。それと、WP:NPOVをよく読んでください。理解したうえで、具体的にWP:NPOVだとお考えになっている箇所を具体的に指摘してください。具体的な根拠もなくWP:VANDAL扱いするのは、個人攻撃にあたるのではないでしょうか?

それでは、さんぽーるさんの編集の問題点の実例を幾つかあげます:

"勃発当時は支那事変としたが" という部分に固執しているようですが、勃発当時は、支那事変ではなく北支事変とされており、明白な事実誤認です。

英語名から、Sino-Japanese War of 1937-45 の類を外されていますが、英語版において、First Sino-Japanese War、Second Sino-Japanese War とされているからといって、それを唯一の英語名であるかのように見せてしまうのは、POV pushing な説明になります。実際に英語文献においては、第一次、第二次としていないものが多いのです。

また、御存じではあるとは、思いますが、日支事変は、 満洲事変上海事変の総称として使用された例もあります。まぁ、豆知識程度かもしれませんが。

時期区分

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さんぽーるさんによる編集の最大の問題点は、時期区分に関するものです。

以下の三つは、さんぽーるさんが除去した日中戦争の時期区分です:

臼井勝美は、「前史 1933年6月-1937年7月」<ref group="注釈">[[塘沽協定]]締結翌日から[[盧溝橋事件]]勃発までに相当</ref>、「第一期:盧溝橋事件から太平洋戦争勃発まで、1937年7月から1941年12月」、「第二期:太平洋戦争から敗北まで、1941年12月から1945年8月」の三期に区分している<ref name="Usui1">臼井 (2000)、1頁。</ref>。

小林英夫は、「前史 満洲事変から盧溝橋事件勃発前まで」、「第一期 盧溝橋事件から武漢作戦まで」、「第二期 武漢作戦から太平洋戦争勃発まで」、「第三期 太平洋戦争勃発から終戦まで」の四期に区分している<ref name="Kobayashi7">小林 (2007)、7頁。</ref>

以下は、さんぽーるさんの「好み」の「時期区分?」です:

1931年満州事変から1945年ポツダム宣言受諾(日本の降伏)までの日本の戦争を、一連の戦争とみなす十五年戦争という概念もある。ただし、満州事変から盧溝橋事件までの4年間は大規模な軍事行動が行われていないことや、満州事変はそれまでのヴェルサイユ体制の終わりであって、満州事変〜日中戦争〜太平洋戦争を一体のものとみなすことには批判もある<ref>『二十世紀日本の戦争』 [[文藝春秋]],2000年,p68-72</ref><ref>>[http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf02/2-31-2001-Ishi.pdf]石大三郎「盧溝橋事件への一考察」日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No. 2, 31-41 (2001)</ref>。このほか、ペリー来航から大東亜戦争までを一体のものとみなす林房雄の「東亜100年戦争」<ref>林房雄『大東亜戦争肯定論』{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>、日清戦争から太平洋戦争までを一体のものとする本多勝一の「50年戦争」<ref>本多勝一『大東亜戦争と50年戦争』朝日新聞社,1998,208-9></ref>{{sfn|庄司潤一郎|2011|p=68}}といった呼称・時期区分があり、[[猪木正道]]も近代化に成功した日本が[[軍国主義]]化をすすめた展開を[[日清戦争]]から日中戦争([[大東亜戦争]])までとみなしている<nowiki><ref>『軍国日本の興亡 : 日清戦争から日中戦争へ』中央公論社,1995年[要ページ番号]</nowiki></ref>。

ここにあるもののうち、石大三郎氏のものは工夫をすれば利用可能ではありますが、林房雄氏の「ペリー来航から」や「50年戦争」などは、「日中戦争」という記事においてではなく、もっと包括的な記事で論じられるべきものです。この点については、ノート:日中戦争#「遠因・背景」の部分が冗長で既に議論されていました。後になってさんぽーるさんが「投票」されているようですが、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは多数決主義ではありませんWikipedia:投票は議論の代用とはならない


江口圭一氏による区分:さんぽーるさんが固執しているもの

江口圭一は日露戦争から太平洋戦争直前までの期間を三つの時期に区分している。日露戦争から第一次世界大戦まで(1905-1918年)の14年間 1919-1931年の満州事変までの12年間#1931年の満州事変開始から1941年の対英米戦争までの11年間第一期の日本は日露戦争の勝利によって世界8大強国の一員となり、イギリスとロシアの間で膨張する。第二期には第一次世界大戦の戦勝国として世界5大国また3大国のひとつとなり軍事大国となるが、戦後ワシントン体制に順応し、米英協調路線によって安泰を図った。第三期には中国権益を保持するために干渉する英米への依存打破をめざし、ワシントン体制に挑戦し、米英との全面戦争に至る<ref name="eguchi3to6">[[江口圭一]]「1910-30年代の日本」『日本通史18巻近代3』,p3-6</ref>。

江口圭一氏による区分:Takabegが置き換えたもの

江口圭一は、十五年戦争の第一段階を1931年9月18日以降の柳条湖事件を発端とする満州事変、第二段階を1937年7月7日の盧溝橋事件を発端とする日中戦争または日中全面戦争、第三段階を1941年12月8日の真珠湾英領マレー半島奇襲を発端とするアジア太平洋戦争とし、さらに第一段階を1933年5月31日の塘沽停戦協定を境に狭義の満州事変と華北分離という二つの小段階に区分している<ref name="Eguchi1991-11-14">江口 (1991)、11~14頁。</ref>。また、満州事変からアジア太平洋戦争下の中国戦線を含む「広義の」日中戦争と盧溝橋事件からアジア太平洋戦争開始までの「狭義の」日中戦争に言及している<ref name="Eguchi1991-11-14"/>。

江口圭一氏の主張は「十五年戦争論」ですので、以前にも述べたように1941年まで という岩波書店 ?側による「制約」がかかっていないものに置き換えたのですが、お気に召さなかったのでしょうか?

とりあえず、さんぽーるさんのお好みの部分もさんぽーるさんが不当に削除した部分も全て戻しておきますので、議論を提起することなく、思いつきだけで削除しないようにしてください。細部は第三者に修正していただきましょう。Takabeg会話2015年7月1日 (水) 10:42 (UTC)

削除を強行しているのはあなたですが?合意形成に努めてください。上の節で妥協案を提示していますので、まずそちらにお答えください。--さんぽーる会話2015年7月2日 (木) 06:52 (UTC)

報告 既存の記述を復帰しつつTakabegさんの加筆を復帰しました。上の節での妥協案について考えましたが、他の主張と併せてみると日本の大陸進出についての時期区分は有益なので本文に残しました。--さんぽーる会話2015年7月4日 (土) 14:17 (UTC)

報告 さんぽーるさんが我慢できないで同じ過ちを繰り返し強行してしまいましたが、現在の版との差異を見るに、いくつかの疑問が生じました。

  • 「中華民国など連合国の勝利」が「中華民国と連合国の勝利」へと変更されていますが、中華民国は連合国であるので「中華民国など連合国の勝利」の方が適切であると考えます。どうしても「と」を使うというのであれば、「中華民国とその連合国の勝利」とでもすればよいかもしれません。
  • さんぽーるさんは、何故「9月9日、支那派遣軍総司令官岡村寧次が降伏文書に調印 (於南京中央軍官学校講堂)」を除去したのですか?9月9日は、日中戦争に興味の無い読者にとっておそらく見慣れない日付でしょうから、何があった日なのかの説明は必要であると思いますが、いかがでしょうか?
  • 「勃発当時は支那事変とした」に再び固執されているようですが、歴史的事実からすると「勃発当時は「北支事変」とした」が正解です。しかも{{要出典範囲}}タグまで外されてますね。
  • 満洲事変上海事変の総称として使用された例もある)や日華事変などの表記もある」も有益な事実ですが、除去されています。何が問題なのでしょうか?「ソースが無い」という主張からでしょうか?国立国会図書館のものをいつでも付加できます。
  • 庄司潤一郎さんの論文を読まれたうえで編集されたのでしょうか?37頁43頁を内容を読みましたが、この二つの部分から「日中戦争の期間の代表的な見解は1937年~1945年までであるが、日本では歴史認識の違いによって先の大戦の呼称が分かれており、」という文章を無理して導き出すよりは、表を使ったほうが有益であると考えますがいかがでしょうか?また、「ソース79頁を見る限り「代表的な見解」ではなく「唯一の見解」としか見えない」という指摘があったのですが、何故これを外したのですか?

ほかにも幾つか指摘すべきことがありますが、さんぽーるさんにはWikipedia:記事の所有権を読んでいただきたく存じます。今後その点を改善していただければ、新手目て独立したトピックとしてこのページで立項する手間をかけずに済みますので、よろしくお願いいたします。Takabeg会話2015年7月7日 (火) 04:04 (UTC)

コメント時期区分以外については別件であり、巻き添えです。「中華民国など連合国の勝利」か「中華民国と連合国の勝利」、「9月9日、支那派遣軍〜」「北支事変」「日華事変」について反対はしません。庄司潤一郎論文に37頁はありません。また、その論文で「唯一の見解」とは明記されていません。また、この論文はひとつの学説にすぎませんし、論文の大半は太平洋戦争と大東亜戦争についてのものです。あなたが削除した既存の文献は日中戦争への経緯について言及したものであり、それは出典を確認すればわかるものです。新書だから削除などといった理由にもならない理由で削除を何度も行うあなたの行動は反省すべきものです。中国大陸に日本軍がいつから進出したのかは本文で明記されるべきですし、それを強引に腕ずくで削除するのはなぜですか。
私はWikipedia:中立的な観点に則っり、あなたの加筆部分も復帰しました。論争的な記事について両論併記は常識です。トップにもありますように重大な変更、特に既存の出典のある記述について大量に削除するような行動をとらないようお願いします。分割はWikipedia:ページの分割と統合の手順を守って、コミュニティの合意を得てください。--さんぽーる会話2015年7月12日 (日) 14:32 (UTC)

外部リンク修正

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編集者の皆さんこんにちは、

日中戦争」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月5日 (木) 19:30 (UTC)

分割提案 第二弾:満州事変

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日中戦争#満州事変のうち、

  1. 満州国建国と第一次上海事変を満州事変第一次上海事変
  2. 熱河作戦と停戦協定を満州事変#熱河作戦と塘沽協定の締結
  3. 国際連盟と日本を国際連盟#日本の貢献と脱退まで

分割する提案をします。出典がないものは除去される可能性もあります。Takabeg会話2019年4月2日 (火) 14:22 (UTC)

分割提案 第三弾:1935年

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日中戦争#1935年華北分離工作へ分割する提案をします。出典がないものは除去される可能性もあります。Takabeg会話2019年4月2日 (火) 14:39 (UTC)

分割提案 第一弾:遠因・背景

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日中戦争#遠因・背景のうち、

  1. 帝国主義と東アジアの近代化を東アジア史
  2. 日清戦争と中国分割を日清戦争
  3. 北清事変と支那駐屯軍の設置を義和団の乱
  4. 日露戦争を日露戦争
  5. 中国革命を辛亥革命
  6. 対支21ヶ条要求を対華21カ条要求
  7. 第一次世界大戦を第一次世界大戦日独戦争
  8. ヴェルサイユ体制をヴェルサイユ条約
  9. ワシントン体制をシベリア出兵九カ国条約
  10. 中国内戦を軍閥時代五・三〇事件
  11. 蒋介石の北伐と反共政策を北伐#国民党の北伐、将来的には国民党の北伐の単独立項への道がひらける
  12. アルコス事件をアルコス事件
  13. 山東出兵・済南事変を山東出兵#第二次・第三次出兵
  14. ソ連の満州侵攻を中ソ紛争
  15. 1930年代の国共内戦を国共内戦#掃共戦と中独合作
  16. 西安事件 (1936年)を西安事件

分割する提案をします。出典がないものは除去される可能性もあります。 現状はとてつもなく酷い状況で、日中戦争のことを知るためにこのページに来た読者はショックを受けて読む気も失せるでしょうし、加筆したい利用者も萎えてしまいます。少しづつ改善していきましょう。Takabeg会話2019年4月2日 (火) 14:06 (UTC)

チェック 北伐国共内戦軍閥時代安直戦争ワシントン会議 (1922年)山東出兵日露協約中華帝国 (1915年-1916年)対華21カ条要求第二革命辛亥革命日露戦争義和団の乱日清戦争東アジア史の各記事の適切な場所への移転を完了しました。Takabeg会話2019年4月10日 (水) 13:10 (UTC)

一般論として、戦争記事に背景の記述は必要でしょう。過剰に詳細な記述の転記はいいとしても、背景を短くまとめる(しかし0にまではしない)のが妥当ではないでしょうか。WP:SPLIT#分割の手順にもありますし、適切な要約を残すのは提案者の責任でもあると思います。 --2001:240:2417:9F6F:1CC1:9B45:BD77:79B1 2019年4月10日 (水) 13:16 (UTC)
今、工事中ですので、しばらくお待ちください。ウィキペディアは完全にボランティアですので、提案者にもIPさんにも何の責任もありません。ただ、常に読者の方々のことを考えながらボランティア活動をしておりますので、より正確な要約を執筆する予定ではあります。Takabeg会話2019年4月10日 (水) 13:37 (UTC)
適切な要約を作るには時間がかかるので待ってほしい、ということだと思いますが、であれば、分割を急ぐ必要もなかったのではないでしょうか。そこをどうしても急ぎたいのであれば、後始末をする用意もあってしかるべきでしょう。一人では手に余るのであれば、分割提案と同時に要約案を募集し、待つという選択肢もあるはずです。現状では、読者視点では単に背景の記述がなくなっただけになってしまっています。時間をかけて整理をするとき、整理できる人を募集するときには、Template:内容過剰のような注意書きを使うこともできますよ。 --2001:240:2421:2775:CCC4:962B:CF63:D420 2019年5月9日 (木) 07:23 (UTC)