鉄砲伝来

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鉄砲伝来(てっぽうでんらい)とは、16世紀ヨーロッパから東アジア火縄銃(鉄砲、鐵炮)が伝わったこと、狭義には日本種子島に伝来した事件を指す。現物の火縄銃のほか、製造技術や射撃法なども伝わった。年代については、1542年説、1543年説やそれ以前とするなど、諸説ある。

種子島への伝来[編集]

『鉄炮記』の内容[編集]

鉄炮記』によれば、天文12年8月25日1543年9月23日)、大隅国の種子島、西村に一艘の船が漂着した。100人余りの乗客の誰とも言葉が通じなかったが、西村時貫(織部丞)はこの船に乗っていた儒者・五峯と筆談してある程度の事情がわかったので、この船を領主種子島時堯の居城がある赤尾木まで曳航するように取り計らった。

この船は8月27日(9月25日)に赤尾木に入港し、時堯が改めて法華宗の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせたところ、この船に商人の代表者は2人いて、それぞれ牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)という名だった。時堯は2人が実演した火縄銃2丁を買い求め、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。

時堯が射撃の技術に習熟したころ、紀伊国根来寺の杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物に1丁持たせて送り出した。さらに残った1丁を複製するべく金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、新たに数十丁を作った。また、からは橘屋又三郎が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1、2年で殆どを学び取った[1]

なお、このころ日本の平戸五島列島を拠点に活動していた倭寇の頭領・王直の号は五峰[2]という。山冠の「峯」は山偏の「峰」の異体字で同字であり(山部)、筆談相手となった明の儒者・「五峯」の名は王直の号と同じである。

外国の記録と年代の整合性[編集]

一方、アントニオ・ガルヴァオ英語版の著した『新旧世界発見記(: Tratado dos Descobrimentos, antigos e modernos)』には、『鉄炮記』の記述の前年にあたる1542年に、フランシスコとダ・モッタが日本に漂着した旨の記述がある。

No anno de 1542 achandose Diogo de freytas no Reyno de Syam na cidade Dodra capitam de hũ nauio, lhe fogiram tres Portugueses em hũ junco q' hia pera a China, chamauãse Antonio da mota, Francisco zeimoto, & Antonio pexoto. Hindo se caminho p'a tomar porto na cidade de Liampo, q' está em trinta & tãtos graos daltura, lhe deu tal tormenta aa popa, q' os apartou da terra, & em poucos dias ao Leuãte viram hũa ylha em trinta & dous graos, a q' chamam os Japoes, que parecem ser aquelas Sipangas de que tanto falam as escripturas, & suas riquezas: & assi estas tambem tem ouro, & muyta prata, & outras riquezas.

西暦1542年、シャム王国のドドラに停泊していた船の船長・ディエゴ・デ・フレイタスの下から3人のポルトガル人が脱走し、ジャンク船で中国へと出航した。3人の名はアントニオ・ダ・モッタ、フランシスコ・ゼイモトポルトガル語版とアントニオ・ぺソトで、北緯30度あたりにある寧波に進路を取った。しかし、嵐に見舞われ陸から離れてしまったところ、北緯32度で東に島を見つけた。その名は日本であり、まさに物語で語られる富貴の島ジパングそのものであるらしく、金銀と豪華なものが溢れていた。

— António Galvão[3]

このほか、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』にも1542年、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』は1544年の主張があり、伝来に関して言及が見られる代表的な史料としては以下のものがある。

著者 著書 言及年 発行年
アントニオ・ガルヴァオ英語版 ポルトガル 『新旧世界発見記』 1542年 1563年
フェルナン・メンデス・ピント ポルトガル 東洋遍歴記ポルトガル語版 1544年 1614年
ジョアン・ロドリゲス ポルトガル 『日本教会史』 1542年 1634年
ディオゴ・デ・コート ポルトガル 『アジア誌』 1542年 1612年
ガルシア・デ・エスカランテ・アルバラード スペイン 『ビーリャロボス艦隊報告』 1542年 1548年
南浦文之 日本 鉄炮記 1543年9月23日 1606年

上記の他にも鄭瞬功が記した『日本一鑑』(1565年)や、ジョヴァンニ・ピエトロ・マッフェイイタリア語版が記した『中国情報』(1582年)など、複数の史料に、鉄砲伝来及び日本列島に関する言及が見られ、その年代は1541年から1544年の間とされている。

これらの史料はいずれも発見の当事者ではなく、伝聞によって間接的に得た情報を元に後年になって記されたものであり、確定し得るものではないが、後年の歴史家によってさまざまな検証・考証がなされ、坪井九馬三が著書『鉄砲伝来考』(1892年)で『鉄炮記』の説を採用し、1946年にゲオルグ・シュールハーメルらが『鉄炮記』説を支持したことから今日の1543年に落ち着いた[4][5]

愛知万博で展示された種子島の火縄銃

ポルトガルから伝来したことの意義[編集]

ヨーロッパでは、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で「黄金の国ジパング」という名で日本国の存在を伝えて以降、その未知の島は旧来のヨーロッパに伝わる宝島伝説と結び付けられ、多くの人の関心を惹きつけた。しかし、この東洋の未知の島はその後約250年に渡って未知の島であり続け、天文年間にポルトガル人によってその発見が成されるまで、ヨーロッパで発行される世界地図や地球儀の太平洋上をあちらこちらへと浮動しながら描かれた[4]

16世紀の第二の波において、ヨーロッパ人(ポルトガル人・オランダ人・スペイン人)の到来によって、先進的な火器技術が普及、この時期には、海域アジア(低地ビルマ・アユタヤ・コーチシナ・南ヴェトナム・台湾・日本)が、大陸アジア(アッサム・東南アジア北部・明清中国・朝鮮)に挑戦し、第一の時期の趨勢を逆転させていたとする[6]

日本史上においては、鉄砲伝来は日本列島の発見とともに1543年という説が採られており、有力であるが決定的な史料が見つかっておらず、特定できていない[4]。現代において、この年代を見直す動きはあるものの、当時の欧州人の東アジア進出の速度を鑑みた場合、この時代に日本列島がヨーロッパ人によって発見されるのは必然であり、今後新しい史料によりその年代に差異が生じたとしても、それが近代史に与えた画期的意義に差異は生じないことなどから、大きな論争には至っていない[4]

実戦での使用[編集]

実戦での最初の使用は、薩摩国島津氏家臣の伊集院忠朗による大隅国の加治木城攻めであるとされる。

遅くとも天文18年(1549年)までに、種子島の本源寺から顕本寺に鉄砲が届けられており、当時、足利幕府管領だった細川晴元が、鉄砲献上に対する礼状を、両寺を仲介した法華宗の総本山である本能寺に宛てて出している(『本能寺文書』)[7]。さらに、『言継卿記』の天文19年7月14日(1550年8月26日)には、京の東山で行われた細川晴元と三好長慶の戦闘(中尾城の戦い)で、銃撃により三好側に戦死者が出たことが記されている。

一條五條取出、細川右京兆人數足輕百人計出合、野伏有之、きう介與力一人鐵〓に當死、云々

種子島以外に伝来していたとする説[編集]

天文以前東アジア式火器伝来説[編集]

種子島以前の鉄砲伝来については長沼賢海の鉄砲研究をはじめ、諸説ある。長沼は『日本文化史之研究』(教育研究会、1937年)をはじめとする重要な研究を残したが、現在九州大学に保存される蒐集史料(写本)「神器秘訣」「菅流大蜂窼」「鳥銃記」「異艟舩法火攻泉之巻」といった砲術書の研究は今後の課題である[8]

長沼は海外文化の「消化」「征服」を「国民性」「民族性」とする日本人が積極的に鉄砲を導入しなかったはずがないという前提のもとに、火薬の爆発力で何らかの物体をとばす器械をすべて「鉄砲」とみなしたうえで(鉄砲=小銃とする一般的理解とは異なる)、「天文以前」(1543年以前)に中国―琉球ルートおよび朝鮮ルートで中国式銃・朝鮮式銃が伝来したことを主張した。また、「鉄砲記」の記述の信頼性を批判し、西洋式小銃の伝来経路が種子島だけではないことを主張した。長沼のこうした見解には批判もあったが、「天文以前東アジア式火器伝来説」には支持者もいる[9]

東アジアから東南アジアにおいて、15世紀には中国の海禁政策を行い、また日本の室町幕府との日明貿易(勘合貿易)が途絶した事などにより倭寇(後期倭寇)による私貿易、密貿易が活発になっていた。日本や琉球王国においても原始的な火器は使用されていて、火器は倭寇勢力等により日本へも持ち込まれていた可能性を指摘するむきも多い。

ほかにも、鉄砲の伝来は、初期の火縄銃の形式が東南アジアの加圧式火鋏を持った鳥銃に似ている事や東南アジアにおいても先行して火縄銃が使われていた事などから、種子島への鉄砲伝来に代表されるようなヨーロッパからの直接経由でなく倭寇などの密貿易によって東南アジア方面から持ち込まれたとする宇田川武久らの説がある[10]。しかし欧米や日本の研究者の中には、欧州の瞬発式メカが日本に伝えられて改良発展したものが、オランダによって日本から買い付けられて東南アジアに輸出され、それらが手本となって日本式の機構が東南アジアに広まったとする説をとる者も少なくなく、宇田川説を否定的にみる意見も多い。

多重伝播説[編集]

また、荒木和憲は、「鉄砲伝来の「第一波」が1542年または1543年の種子島へのマラッカ銃(アルケブス銃)の伝来であることはたしかであるが、そのあとに「第二波」「第三波」・・・がそのほかの地域(とくに九州地方)におしよせたのではないか。たしかに種子島へのマラッカ銃の伝来とその国産化があたえた歴史的なインパクトとはくらべるべくもないのであるが、さまざまな種類の銃がたんなる商品の輸入というかたちで伝来していた可能性はある」との見解を提出している[8]

東アジアにおける「火器の時代」説[編集]

カリフォルニア州立大学の孫来臣 (Laichen Sun) は、およそ1390年から1683年にかけて、東アジアで「火器の時代」があったことを論じている。火器の時代が始まったとされる1390年には、中国の火器技術はすでに朝鮮や、東南アジア北部に伝播し、また鄭和の遠征により、東南アジア海域部にも拡散したという。アジアにおける中国による最初の火器技術の波は、改良されたヨーロッパの火器技術がアジアに広がり、ヨーロッパによる第二の技術波及が始まった、16世紀初頭まで続いた。この時代には、中国由来の火器がアジア史において重要な役割をはたし、全般的な趨勢としては、大陸アジア(中国・朝鮮・東南アジア北部)が、海洋アジア(日本・台湾・チャンパ・東南アジア海域部)を押さえ込んでいた。

軍記物[編集]

『北条五代記』に、関八州に鉄炮はじまる事、という記述がある。ここでは、1510年(永正7年)に唐(中国)から渡来したという。

見しは昔、相州小田原に玉瀧坊と云て年よりたる山伏有。愚老若き頃、其山臥物 語せられしは、我関東より毎年大峯へのぼる。享禄はじまる年、和泉へ下りしに、あらけなく鳴物の声する、是は何事ぞやととへば、鉄炮と云物、唐国より永正七年に初て渡りたると云て、目当とてうつ。我是を見、扨も不思議奇特 成物かなとおもひ、此鉄炮を一挺買て、関東へ持て下り、屋形氏綱公へ進上す。(中略)氏康時代、堺より国康といふ鉄炮張りの名人をよび下し給ひぬ。扨又根来法師に、杉房・二王坊・岸和田などといふ者下りて、関東をかけまはつて鉄炮ををしへしが、今見れば人毎に持し、と申されし

大久保忠教の『三河物語』では、松平清康が、熊谷実長が城へ押し寄せた際に、四方鉄砲を打ち込むと記載されている。1530年(享禄3年)のこととされる。また、今川殿の名代として、北条早雲が松平方の西三河の岩津城を攻撃した際に、四方鉄砲を放つとある、出版社の欄外の解説には、この役は、1506年(永正3年)のことで、鉄砲はこのときないとして、『鉄炮記』の記述を支持している。

脚注[編集]

  1. ^ Wikisource reference  鐵炮記. - ウィキソース. 
  2. ^ Wikisource reference  殊域周咨錄 卷二 日本國. - ウィキソース. "先是王直者,徽州歙縣人。... 稱為五峰" 
  3. ^ The discoveries of the world, from their first original unto the year of Our Lord 1555”. 2017年10月25日閲覧。
  4. ^ a b c d 岩生成一 『日本の歴史14-鎖国』、1966年、p.6-16。ISBN 4124002947
  5. ^ 西欧人との出会い470 周年東光博英、京都外国語大学図書館報『GAIDAI BIBLIOTHECA 』200号、4.10.2013
  6. ^ Laichen Sun「東部アジアにおける火器の時代:1396-1683」文部科学省特定領域研究:東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成 第9回講演会「火器技術から見た海域アジア史」、九州大学、2006年
  7. ^ 天野忠幸, 「大阪湾の港湾都市と三好政権 ―― 法華宗を媒介に」, 都市文化研究 4号, 2004年
  8. ^ a b 荒木和憲「九州帝国大学教授長沼賢海氏の「鉄砲」研究―九州大学九州文化史研究所所蔵「長沼文庫」の紹介をかねて―」文部科学省特定領域研究:東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成 第9回講演会「火器技術から見た海域アジア」、九州大学、2006年
  9. ^ 春名徹ら。
  10. ^ 宇田川武久『真説鉄砲伝来』平凡社、2006年

文献情報[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]