件
件(くだん)は、19世紀前半ごろから日本各地で知られる妖怪。「件」(=人/にんべん+牛)の文字通り、半人半牛の姿をした妖怪として知られている。
語釈
「件(くだん)」は、概していえば書いて字のごとし(「亻」+「牛」)、その容姿は牛の体と人間の顔の怪物とされる[1][2][3][注 1]。
綱要
外見
江戸時代後期、文政2年(1819年)の古い資料でも「人面牛身」と記載される[注 2][6]。しかし文政10–12年頃の「くたべ」系(後述)の絵は[注 3][注 4]、人面に書かれているが[12]、「必ずしも牛らしさが見られない」と評価される[9]。「くたべ」系の絵は、(蹄ではなく)四足/手足にするどい[13]爪がのびている、という特徴で描かれるものがあるが[注 5]、一方で、複数の例は「髪の長い女性のような顔」や「丸みのある体」を特徴としている[注 6][8]。牛頭の女性(牛女、後述)についても第二次世界大戦ごろから都市伝説化している[17]。
予言獣
江戸時代後期に出回ったいくつかの予言獣[注 7]と共通して、「件(くだん)」は疫病の流行を予言するかわり、その厄除招福の方法を教示する。予言獣の典型では自分の絵姿を見る、書き写すと説くが、「クダベ[10]」や「どだく[18]」の場合がそうである[11]。あるいはこれと若干異なり、絵図を(家に)張り置け、すなわち貼護符に使えと指示する「件(くだん)」の瓦版等も知られる[注 8]。また「件(くだん)」のうちでもクタベ系は、疫病の災厄のみで、豊作の吉兆は予言しない点が、予言獣の典型と異なる[9][注 9]。
牛の子
幕末の錦絵「件獣之写真(くだんじゅうのしゃしん)」(慶応3/1867年作と考証)に、牛の子として生まれ、予言を残して三日で死ぬと書かれている[20]。より早期の文献資料としては、安政7/1860年3月12日付で牛から件が生まれたという報告書が2020年に兵庫県立歴史博物館で発見されている[23]。
明治の文献にも牛の子として生まれたり、剥製が見世物になった記述がみられる[24][25]。
のち大正時代に内田百閒が発表した短編小説「件」(初稿1921年)では、「件は生れて三日にして死し、その間に人間の言葉で未来の凶福を予言するもの」という設定であった[26]。昭和期第二次世界大戦後の民俗学の書物をみると、「件(くだん)」は牛から生まれる奇獣、または人と牛とのあいのこ(雑種)で[27]、人間の言葉を話すとされるが[28]、生まれて数日で死に[29]、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし[28][27]、それは間違いなく起こる、とされている[27]。そうした話の、戦後に近畿地方で採話された件の出生例もある[30][31]。
人面を彷彿させる顔の奇形の仔牛が疾患[注 10]によって生まれることは知られており、件の伝説に発展したものだろうと推察される[32][23]。
由来
中国伝来の白澤の起源説がある。白澤の図絵は、江戸期の日本でも旅行の際の厄除けとして配られる慣習があり、この図像を引用したものが「件」であるという論旨を佐藤健二(1995年、「クダンの誕生」等)が打ち立てている[33][34][35]。戸隠山や八海山などで厄除けの札して「白沢避怪図」なるものを参詣者に配っていた[13]。白澤は獣形であったものが[37]、後世には主として人面獣身に描かれるようになり、見た目は「件」と紛らわしい、と笹方政紀が解説している[13]。
くたべ
異聞として、江戸末期、越中(現在の富山県)の立山に出現した怪獣クタベがいるが、その摺物(人偏に「久」の下に「田」、獣偏に「部」の二字で「くたべ」と題する[14])では、「件」が唐名(中国風の名前)で、「クタベ」を和名だと主張している[38]。
また江戸時代後期の随筆『道聴塗説』では、「クダベ」が当時の流行の神社姫(人面の竜蛇)に似せて創作されたものと主張する[10][39]。文政2年(1819年)に現れた神社姫は、厄を除ける方法までも説いており、後の「件」の例と共通している。ただ、この神社姫と同年の1819年に出現したという「件」は、予言の内容はわかるが、除厄法を伝授したとされるかまでは不詳である[注 11][6][13]。
また、クタベこそ白澤と同一のものであると水木しげるが論じており、クタベは「人面の牛で、腹部の両横にも眼があった」と[40]と誤認(混同)していたものの[41]、たしかに摺物のクタベには背に二つの目が描かれるのであり[注 12]、白澤の図像の影響がうかがえる[14][41]。水木しげるは、他にも医の神である黄帝が博識の瑞獣と、富山の売薬の生業の者が「件」と遭遇したことにも共通点を見出しているのだが[40]、細木ひとみはこの点については否定的で、「漢方薬の守護神」たる白澤と富山の薬売りを(いささか強引に)結びつけて、同一視してしまった、との見解を示している[41]。さらには、立山の現地でクタベ伝説が発祥したふしはなく[注 13]、逆に、富山以外の地域で[注 14]「立山の薬種/妙薬」的な風評にあやかり「クタベ」という疫病予言獣に結び付けたのではないだろうかとしている[41]。
目撃の歴史
昔、宝永2年(1705年)12月に件が現れ、その翌年から豊作が続いた、という記述が天保年間の瓦版(後述)にみられる[43]。
防州上ノ関の民家の牛から生まれた人面牛身の子牛が件と名乗り豊作とその後の兵乱を予言したという日記が『密局日乗』文政2年(1819年)5月13日条にみられる[6]。
富山県の立山には「くだん」ならず「くたべ」(または「くだべ」)と呼ばれる山の精が出現するとされることは[44]既述した。立山で薬草採りをしていた者が、山中でくだべと名乗る獣身人面の怪物に出会ったという史料が、大阪や名古屋で見つかっている[45]。くだべは「これから数年間疫病が流行し多くの犠牲者が出る。しかし自分の姿を描き写した絵図を見れば、その者は難を逃れる」と予言した[45]。これが評判になり、各地でくだべの絵を厄除けとして携帯することが流行したという。
越中国立山に、文政10年(1827年)に、頭に毛がなく[8]体も疲れた医僧のような容姿の人獣(人面の獣)「くたべ」が現れ、厄を避けるにはその肖像を模して貼れと言い残したと、『虚実無尽蔵』という文献にみえる[16][46]。また、同案件とおぼしき記載が屋代弘賢の雑稿から編んだ『弘賢随筆』にみられる(挿絵・文は上図参照)。年代は「当亥年」としかないが、当該の1827年に書写されたと思われ、年代特定できる「くたべ」の最古史料とされる[47]
天保7年(1836年)の日付のある瓦版によれば[注 15]、天保7年の12月、丹後国の「倉橋山」すなわち倉橋(京都府与謝郡倉梯村)の下の山中で、人面牛身の怪物『件』が出現したと言う[注 16][注 17][43]。また「この件の絵を貼っておけば、家内繁昌し疫病から逃れ、一切の災いを逃れて大豊年となる。じつにめでたい獣である」ともある[39][注 18]。ちなみにこの報道の頃には、天保の大飢饉が最大規模化しており、「せめて豊作への期待を持ちたい」という意図があってのものと思われると島田裕巳は主張している[49]。
幕末に入ると、件は突如出現するとする説に代わって、人間の飼っている牛が産んだとする説が広まり始める。慶応3年(1867年)4月の日付の『件獣之写真』と題した瓦版によると「出雲の田舎で件が生まれ、『今年から大豊作になるが初秋頃より悪疫が流行る。』と予言し、3日で死んだ」という[注 19][50]。
明治42年(1909年)6月21日の『名古屋新聞』の記事によると、その10年前に五島列島の農家で、家畜の牛が人の顔を持つ子牛を産み、生後31日目に「日本はロシアと戦争をする」と予言をして死んだとある。この子牛は剥製にされて長崎県 長崎市の八尋博物館に陳列されたものの、現在では博物館はすでに閉館しており、剥製の行方も判明していない[24][52]。
明治時代から昭和初期にかけては、件の剥製と称するものが見世物小屋などで公開された。小泉八雲も自著『知られぬ日本の面影』の中で、件の見世物についての風説を書き残している。それによると明治25年(1892年)、旅の見世物師が島根県美保関に件の剥製を持ち込もうとしたところ、不浄の為に神罰が下り、その船は突風のため美保関に上陸できなくなったという[53][25]。
昭和に入ると、件の絵に御利益があるという説は後退し、戦争や災害に関する予言をする面が特に強調された。昭和5年(1930年)頃には香川県で、森の中にいる件が「間もなく大きな戦争があり、勝利するが疫病が流行る。しかしこの話を聞いて3日以内に小豆飯を食べて手首に糸を括ると病気にならない。」と予言したという噂が立った[54]。昭和8年には長野県でも似た噂が流行し、小学生が小豆飯を弁当に入れることから小学校を中心に伝播した。ただし内容は大きく変わっており、予言したのは蛇の頭をした新生児で、諏訪大社の祭神とされた[55]。
第二次世界大戦中には戦争や空襲などに関する予言をしたという噂が多く流布した。昭和18年(1943年)には、山口県岩国市のある下駄屋に件が生まれ、「来年4、5月ごろには戦争が終わる」と予言したと言う[要出典]。また昭和20年春頃には愛媛県松山市などに「神戸(兵庫県)に件が生まれ、『自分の話を信じて3日以内に小豆飯かおはぎを食べた者は空襲を免れる』と予言した」という噂が流布していたという[49]。
1944年初頭頃、ブラジルのマリリア地方で人頭獣身の件子(くだんご)が生まれたとの噂が日系移民の間に立ち、「今年中に戦争は枢軸側の大勝利で終結する」と予言し、「よって件の如し」と言ってすぐ死んだという[56]。
牛から生まれた話例については、兵庫県の但馬牛の産地の村でクダンが生まれたという話が採取されている(1953年発表)[30]。また岡山県の蒜山三村では、八束村の老人が件の話をするが所在を聞くと川上村で生まれたものと話し、けっきょく三つの村で堂々巡りになる記事が報道されている(1971年)[31]。
作家の木原浩勝所蔵の件(くだん)の剥製(ミイラ)は、2004年に群馬県在住の所有者から譲り受けたもので、元所有者の父親の興行師は「牛人間」と称してこれを見世物にし、絵物語の紙芝居もおこなっていたという[23]。
牛女
小川未明が「牛女」(1919年)という短編小説を発表しているが、おそらく内田百閒「件」を読んだうえで書かれたものと察せられる[57]。
のち、第二次世界大戦末期から戦後復興期にかけては、通常は人面牛身とされる「件(くだん)」と逆に、牛面人身で和服を着た女の噂も流れ始めた[58]。以下、これを仮に牛女と呼称する。
小松左京『くだんのはは』(1968年)も百閒の小説や[57]「件」の類の噂に取材して小説を執筆したと考えられており[48]、牛女の都市伝説の伝搬に貢献したものとと考えられる[59]。
牛女の伝承は、ほぼ兵庫県西宮市、甲山近辺に集中している。例えば空襲の焼け跡で牛女が動物の死骸を貪っていたとする噂があった[60]。また、兵庫県芦屋市・西宮市間が空襲で壊滅した時、ある肉牛商の家の焼け跡に牛女がいた、おそらくその家の娘で生まれてから座敷牢に閉じ込められていたのだろうという噂などが残されている[49]。
幕末期の「件(くだん)」伝承と比較すると、
- 件は牛から生まれるが、牛女は人間から生まれる。
- 件は人面牛身、牛女は牛面人身。
- 件は人語を話すなど知性が認められるが、牛女にはそれが認め難い。
といった対立点があり、あくまでも件と牛女は区別すべきと木原浩勝は主張している[60]。
件の如し
「件の如し(如件)」という定型句(証文等の末尾に記される書止、書留)があるが、西日本各地に伝わる多くの伝承によればこれは「件の予言が外れないように、嘘偽りがないという意味である」と説明されることもあるが、ただしこれは俗解語源(民間語源)の一種であろうと考えられている[61]。
じっさい天保年間の瓦版によれば「件は正直な獣であるから、証文の末尾にも『件の如し』と書くのだ」ともあり、この説が天保の頃すでに流布していたことを示している[39][19]。
怪物「件」の記述がみられるようになるのは江戸時代後期であるのに対して、「如件」という定型句はすでに平安時代の『枕草子』にも使われている[62]。ゆえに「件の如し」と怪物「件」を関連付けるのは後世の創作と島田裕巳は主張している[49]。
注釈
- ^ ただし牛頭人体の例も明治中期にはみえる。1921年(大正10年)の南方論文より25、6年前の例なので1894–5年(明治27–28年)頃。和歌山県三輪崎町。同県新宮市在住の須川寛得の談[4][5]。
- ^ 『密局日乗』
- ^ 細木論文に「くたべ」(総称)と"同一視される「件」と「白澤」"とあり[7]、他の資料ではクタヘ、クダベなどと表記される[8]。長野論文では、総称を「クダベ系」としている[9]。
- ^ 細木論文では江戸期の「くたべ」系の7資料のうち4点を文政10か11年に特定可能とするが[8]、細木がその資料⑦(『道聴塗説』所収)[10]を「年号なし」とするところを、長野は文政12年春としている[11]。
- ^ 摺物[14]、肉筆画「くたへ」[15]。
- ^ 他には資料①摺物[14]では老いた男性のような顔の人面獣で、資料④『虚実無尽蔵』所収の「くたべ」は、禿頭で"医僧のつかれたる躰に見える"(後述)[16]。
- ^ アマビエ、アマビコ、神社姫等。
- ^ 「件」(天保7/1836年の摺物)[19]、件(慶応3/1867年の錦絵)[20][11]。
- ^ 「件(くだん)」(天保7年)は、豊作を予言する[19]。
- ^ アカバネ病など(木原浩勝に拠る)[23]。
- ^ 史料が日記であるため。『密局日乗』文政2年5月13日条。
- ^ そして松平家いわくの「くたべ」についても[15]、笹方政紀は「背中の目」があるとするが[42]、細木は「背中らしきところに目が 2 つ」と位置は不確かだとしている[8]。
- ^ 立山修験の中心をはじめ富山県内外の立山関連の寺社、立山を訪れた人々の参詣記にも「クタベ」についての話は記されておらず、立山が伝説発祥の地とする傍証がない。
- ^ 地元資料では存在が確認できない「立山の薬種塚」で遭遇したことになっている等、非在住者の創作がうかがえる。
- ^ 徳川林政史研究所所蔵[48]。
- ^ 「倉橋山」でなく「倉橋下の山中」と堀部の論文に読まれている。瓦版の本文では与謝郡とされていないが、はしがきに版元について「丹後国与謝郡何某板」の付注がついている。
- ^ 原文では"からだは牛 面は人に似たる件といふ獣出たり"とある。
- ^ 「件の如し」という常套句については後述。
- ^ 同じく出雲国能義郡古川村の者が産した仔牛が「件」であったという記述が山村勉斎『奇獣記』にあるが、これは明治23年(1890年)3月1日付になっている[2]。
出典
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- 細木ひとみ「疫病流行を告げる「クタベ」と越中立山に現れた理由」『富山県[立山博物館]研究紀要』第27号、富山県立山博物館、85頁、2020年。 NAID 40022556754 。