利用者:Snow rabbit/sandbox/Kurenai

主に新規に執筆する予定の記事の推敲を行っております。


竜の騎士[編集]

竜の騎士(りゅうのきし)は、1997年ドイツ人コルネーリア・フンケによって書かれた小説である。

登場人物[編集]

  • ルング(Lung):
  • シュヴェーフェルフェル(Schwefelfell): ルングと同じ森に住むコボルト(森妖精)の少女。ネコのような容姿をしているとされている。
  • ベン(Ben):
  • 飛び足(Fliegenbein):
  • バルバナス・ヴィーゼングルント教授(Barnabas Wiesengrund): 伝説の生物の存在の立証や生態の研究をしている学者。幼いころに妖精を見たことをきっかけに伝説の生物を信じるようになり、以降その研究を行っている。彼自身は研究に熱意を持っており周囲の学者にも研究の話を漏らすが、伝説の生物を信じない周囲の人物からは「おかしな事を言う学者」と言われている。
  • ヴィータ・ヴィーゼングルント(Vita Wiesengrund): バルバナスの妻。
  • ギネヴィア・ヴィーゼングルント(Guinever Wiesengrund): バルバナスとヴィータの間に生まれた少女。また、ベンの良き友達。
  • スバイダ・ガリブ(Subaida Ghalib):
  • ブル・ブル・チャン(Burr-burr-tschan): ヒマラヤの山中に住むコボルトの少年。6本の腕を持ち、普段は洞窟で生活している。ベンやルングらがブル・ブル・チャンの元を訪れた際には、彼らに手を貸した。
  • ローラ(Lola) : ルングと同じ森に住むネズミ。叔父のギルベルトに山中の測量を依頼され実行している最中に、ベンやルングらと出会う。ネッセルブラントとの最終決戦の際には、ネッセルブラントに急接近し気を惹くなど、危険かつ重要な役割を担った。
  • ギルベルト・グラウシュヴァンツ(Gilbert Grauschwanz): ローラと親戚のネズミ。各地を測量し地図を製作しており、その地図には絶対的な自信を持っている。白い毛の太った姿で描写されている。
  • ローザ(Rosa):
  • ネッセルブラント(Nesselbrand): 黄金の君とも伝えられている。
  • キースバルト(Kiesbart):
  • マヤ(Maja):

関連資料[編集]

de:Drachenreiter

守矢氏[編集]

守矢氏(もりやし)は、日本氏族の一つ。信濃諏訪領主諏訪神社上社の神長官(筆頭神主)をつとめる家柄でもある。

概要[編集]

守矢氏は、現在諏訪大社に祭られている建御名方神が出雲から諏訪に侵攻する以前から、土着の神として諏訪地方を中心に信仰を集めていた洩矢神であると言われている。

天竜川の戦いにおいて、洩矢神が諏訪に侵入した建御名方神に敗れると、洩矢神は諏訪地方の祭神の座を建御名方神に譲り、その支配下に入ることになった。その後、建御名方神が祖先とされる諏訪氏大祝(おおほうり、諏訪大社のかつての神職で、祭神が憑依し祭神と同一される現人神のこと)を務めたが、洩矢神が祖先とされる守矢氏は神長官(筆頭神官)の神職に就き、大祝を補佐しながら、その後も祭祀の実権を握った。

守矢氏の祈祷は一子相伝の上口伝えが原則とされており、それ以外の者は継承することを許されなかった。

役職[編集]

神の声を聞き取ることができ、また神を神体山の守屋山から降ろすことのできる家系とされており、代々神の声を聞く秘法や祈祷が継承されていた。これらは一子相伝でなおかつ口伝えで継承することが原則とされていた。長く76代まで継承されていたが、明治時代に世襲が廃止されたことにより、この秘法は断絶した。

大祝[編集]

大祝(おおほうり)は、かつて諏訪大社に存在した神職のひとつである。

役職[編集]

神のよりどころとして、8歳の大祝の男児が神を憑依させられるとされている。なお、この際に大祝に神霊を憑依させるのは、諏訪大社神長官である守矢氏が執り行った。代々世襲も行われており現人神として扱われていたが、断絶したため現在は存在しない。

風祝[編集]

風祝(かぜほうり、かぜはふり)は、諏訪大社の神職である「大祝」の分類のうちのひとつである。

諏訪大社に祀られている建御名方神(たけみなかたのみこと)は風神としても有名である。その風神の風に異常が起きないように祈りを捧げる大祝が、この風祝であった。

執筆上のメモ[編集]

実際に神事を執り行っていたのは五官祝(ごかんのほうり)と呼ばれる、神長官を筆頭とする神職。大祝(おおほうり、諏訪氏)、禰宜大夫(ねぎだゆう、神長官:守矢氏)、権祝(ごんのほうり、矢島氏)、擬祝(ぎぼうり、伊藤氏)、副祝(そえのほうり、長坂氏)。五官祝の記事名で記事を立てるのが妥当か。

登山古墳(改稿)[編集]

登山古墳

所在地 神奈川県厚木市飯山字登山1648[1][2]
位置 北緯35度27分51.22秒 東経139度20分1.39秒 / 北緯35.4642278度 東経139.3337194度 / 35.4642278; 139.3337194
形状 円墳5基
規模 1号墳:全長20m
出土品 埴輪84点以上、刀子、土師器など
築造時期 6世紀
史跡 1992年2月14日県指定
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登山古墳(どうやまこふん)は、神奈川県厚木市飯山字登山1648[1][2]にある古墳群。

概要[編集]

1962年昭和37年)に発見された古墳で、1号から5号までの5基の古墳がある。このうち、1号墳は発掘調査のために消滅し現存していない。全て円墳である。1号墳とその他の古墳では石室の構造や埋葬品が異なることから、身分の違うものがそれぞれ登山古墳に埋葬されたのではないかと推測されている[3]。また、古墳の壁・埋葬品などから、5世紀に4号墳が、その後3号墳、2号墳、5号墳の順に作られたものと推測されている。

1号墳は神奈川県で数少ない埴輪が大量に発掘された場所で、発掘された埴輪は神奈川県指定文化財に指定されている[4]

歴史[編集]

登山古墳の発見は1962年(昭和37年)1月のことで、近隣の農道の溝を造成していたところ、埴輪の破片が大量に見つかったことがきっかけであった[1]。同年4月には本格的な第1次調査が行われ、この時も埴輪が出土した。

古墳の発見当時は近隣は桑畑が多かったが、開発が進み、徐々に住宅地や工場用地が造成されていった。更に1967年昭和42年)には古墳の付近に安立電気株式会社(現在のアンリツ株式会社)の社員寮一号棟が建設され、この時古墳の一部が掘削を受けた[2]。続いて二号棟およびポンプ所とごみ焼却場の造成の準備が始まったが、準備段階で予定地から多くの埴輪の断片が出土し、造成の前に発掘調査の必要性が生じた[2][4]。そのため考古学者の赤星直忠の指導により、同年3月25日から4月3日まで[5]1号墳を対象にした第2次発掘調査が実際された。この第2次調査の結果、第1次調査で発見された1号墳に加え3基の古墳が現存していることが確認され、その後厚木市の調査でもう1基古墳が現存することも確認された。

既に存在が確認されていた2-5号墳についても、1998年平成10年)8月から2000年(平成12年)2月にかけて発掘調査が行われ、刀子や鉄の鏃などが出土した[3]

その後2-5号墳は整備され、2003年(平成15年)11月に「登山古墳史跡公園」として開園、保存されている。

特徴[編集]

1号墳[編集]

直径約20mの円墳。6世紀半ば頃のものと推定されている[4]1967年(昭和42年)の発掘調査の際に削り取られ消滅している[6]

大量の形象埴輪円筒埴輪の他、土師器の杯2個、須恵器1片、縄文土器片、ガラス玉が出土した[4]。このうち形象埴輪・円筒埴輪の計84点他は、1992年平成4年)2月14日に神奈川県指定文化財に指定され、現在は厚木市郷土資料館で保存されている[4][7]。これらの埴輪は形の美しさや種類の豊富さ、出土量が優れており、埴輪の出土例が少ない神奈川県において、これらの埴輪は古墳時代の神奈川県の様子を知る上で貴重な資料となった[4]。それ以外の出土物は、散逸して所在が分からなくなっている[8]

2-5号墳[編集]

いずれも1号墳から100m北の、東京工芸大学厚木キャンパスの敷地に隣接した箇所に存在する[3]。小さな河原の石を積み重ねて造成された石室である[3][4]。いずれも円墳で、6世紀のものと推定されている[4]

2号墳

直径約13mで、横穴式石室を持つ。刀子・鉄の鏃が一つずつ出土したが、いずれも腐食が激しく、取り出しの際に破損した[3]

3号墳

直径約13mの楕円形円墳で、横穴式石室を持つ。出土物はなかった[3]

4号墳

直径約20mで、竪穴式石室を持つ。石室内には数メートルにわたり石が敷き詰められている。直刀片、刀子が出土した[3]

5号墳
  • 直径約10mで、横穴式石室を持つ。石室はかなり激しい損傷を受けている。出土物はなかった[3]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 厚木市教育委員会[1992: 2]
  2. ^ a b c d 厚木市教育委員会[1967:5]
  3. ^ a b c d e f g h 相原精次・藤城憲児[2000: 183]
  4. ^ a b c d e f g h 相原精次・藤城憲児[2000: 182]
  5. ^ 厚木市教育委員会[1967:2-3]
  6. ^ 厚木市教育委員会[1992: 3]
  7. ^ 神奈川県生涯学習情報センター 神奈川県生活学習情報システム、2010年8月30日閲覧。
  8. ^ 厚木市教育委員会[1992: 8]

参考文献[編集]

  • 相原精次・藤城憲児 『神奈川の古墳散歩』 彩流社、2000年
  • 厚木市教育委員会 『登山1号墳出土遺物調査報告書』 厚木市教育委員会、1992年
  • 厚木市教育委員会 『厚木市文化財調査報告書 第八集』 厚木市教育委員会、1967年

関連項目[編集]

情報の矛盾[編集]

2-5号墳(4号墳除く)の情報
  • 全て竪穴式石室であるとされている。改稿前文章に誤り?
4号墳の改稿前情報
  • 5世紀の物と推定されている。
  • 数メートルにわたり、石が綺麗に敷き詰められている。(秩序なくと対照的)


京都くろちく[編集]

株式会社くろちく
種類 株式会社
略称 京都くろちく
本社所在地 604-8214
京都府京都市中京区新町通錦小路上ル百足屋町380
設立 1979年
事業内容 和風雑貨の製造・販売
代表者 代表取締役社長 黒竹節人
資本金 5000万円
外部リンク http://www.kurochiku.co.jp/
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京都くろちく(きょうとくろちく、正式社名:株式会社くろちく)は、和風の雑貨や小物を製造・販売する日本のメーカー。

概要[編集]

1979年に設立。主に和風の雑貨や人形の販売を行っているが、それ以外にも和に関係する事業として飲食店の経営や町屋の再生事業を行っている。

石川岩男(スタイル改稿中)[編集]

石川 岩男(いしかわ いわお、1955年昭和30年)11月10日 - 1983年(昭和58年)3月29日)は、東京都出身のモーターサイクルロードレースライダー。改名のため石川 岩夫との表記もある。

概要[編集]

1977年(昭和52年)、ジュニア350ccクラスランキング2位。翌年にエキスパートクラスに昇格し、同時に350ccクラスにヤマハTZ350を駆り全8戦優勝してチャンピオンに輝く。1979年(昭和54年)は同クラス3位。

1980年(昭和55年)からは500ccクラスにステップアップし、翌年にスズキワークス入り。

1983年(昭和58年)から本格的な世界GP参戦を開始するが、同年3月、フランスGPの練習中に不慮の事故に遭い他界する。

速さに加え、ウルトラマンを模したツナギを着用するなど明るいキャラクターで、多くのファンから愛されていた。 世界GPに参戦する時も「ちょっと新婚旅行に行ってくるわ」と新妻を携えてのコンチネンタルサーカス参戦であったが、3月29日、世界GP第2戦フランス・ル・マン・ブガッティサーキットの第2コーナーに減速して進入した石川選手のマシンに、後続のイタリア人ライダーロリス・レッジアーニ選手が超高速で追突、内蔵破裂により帰らぬ人となる。 彼の遺体は4月4日、1月19日に結婚したばかりの夫人と長年の名コンビであったメカニック周郷弘貴氏と共に帰国、6日に葬儀が行われた。 この時代は日本人がワークス体制でGPに出場できる環境になく、プライベーターとして参戦することさえ稀であり、そうした背景の中で市販RGB500に乗ってフランスGPからの挑戦であった。

厚木サティ[編集]

厚木サティ
Atsugi SATY
店舗数 SATYと27の専門店
所在地> 〒243-0018
神奈川県厚木市中町1丁目5番10号
電話番号 046-223-5311(代表)FAX 046-223-3080
施設所有者 厚木市役所
権利床共有者組合
厚木ガーデンシティビル株式会社
施設管理者 株式会社マイカル
厚木ガーデンシティビル株式会社
イオンディライト株式会社
延床面積 37,066.71m²
敷地面積 7,391.04m²
商業施設面積 21,359m²
開業日 2003年11月
(旧・ダックシティ厚木店1981年11月
営業時間 9:00~22:00(地下1階のみ9:00~23:00)
外部リンク 公式サイト
SATY
MYCAL

厚木サティ(あつぎサティ)は、神奈川県厚木市にある、イオングループの一企業である株式会社マイカルが運営するGMS(総合スーパー)

概要[編集]

1981年昭和56年)11月に、株式会社ダックシティが運営するダックシティ厚木店として開店。1992年平成4年)に、ニチイ(現在のマイカル)に運営が移管され厚木ビブレとなる。その後、マイカルの経営破綻を経て2003年(平成15年)にリニューアルし現在の厚木サティとなる。

年表[編集]

  • 1981年(昭和56年)11月 - ダックシティ厚木店として開店
  • 1992年(平成4年)9月 - 厚木ビブレとしてリニューアル(同時に運営会社がダックシティからニチイに変更された)
  • 2003年(平成15年)11月 - 厚木サティに業務転換

フロア構成[編集]

7階:神奈川県 パスポートセンター 県央支所

   厚木市役所 協働安全部 生涯学習課 文化振興係 市民ギャラリー

店舗概要[編集]

  • 開店日:1981年11月30日
  • 店舗構造:
  • 営業時間:9:00~22:00(地下1階食品売場は23:00まで営業)
  • テナント:27
  • 駐車場:中町立体駐車場(契約駐車場)営業時間/am8:00-pm12:00
  • 駐車料金/最初の1時間300円、以降30分毎150円
  • 収容台数/580台 ※サティへは4階連絡通路(駐車場ビル側は3階)の連絡通路有。
  • フードコート:

交通[編集]

自動車[編集]

国道246号線 水引交差点より3分(相模大橋手前)

電車[編集]

小田急小田原線本厚木駅東口から徒歩3分 北口からは徒歩5分 神奈川中央交通厚木バスセンター正面

所在地[編集]

神奈川県厚木市中町1丁目5番10号

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


ホークスネストトンネル災害[編集]

ホークスネストトンネル災害(ホークスネストトンネルさいがい、:Hawks Nest Tunnel Disaster)は、1930年代アメリカ合衆国ウェストバージニア州南部のトンネル工事において発生した、米国史上最悪とされる労働災害[1]。 推定で476名の鉱夫が急性珪肺によって死亡したと言われる。

トンネルの掘削計画[編集]

To generate electricity for a plant downstream at Alloy, Union Carbide decided to divert the New River to improve its power generation ability. Beginning in 1927, its contractor Rinehart & Denny began construction of the 3-mile (4.8 km) tunnel carrying the river under Gauley Mountain. A dam was constructed immediately below Hawks Nest to divert most of the New River flow into the tunnel. It then re-enters the river near Gauley Bridge leaving a section known as "the Dries" in between.

ウェストバージニア州アロイの下流にある工場で使用する電気の発電力を増加するため、この工場を所有するユニオンカーバイド社はニュー川の流路を変えることを決定した。1927年初頭、この事業を請け負ったラインハルトとデニーは、ゴーリー山の山腹に川を通すための3マイル(≒4.8km)に亘るトンネルの工事を始めた。その後すぐに、ニュー川の水のほとんどをトンネルの中に流れ込むようにするためのダムがホークスネスト下流に建造された。

労働災害の発生[編集]

During the construction of the tunnel, workers found the mineral silica and were asked to mine it for use in electroprocessing steel. The workers were not given any masks or breathing equipment to use while mining, despite the fact that management wore such equipment during inspection visits. As a result of the exposure to silica dust, many workers developed silicosis, a debilitating lung disease. A large number of the workers eventually died from the silicosis, in some cases as quickly as within a year.

トンネル工事の最中、坑夫らは結晶状のシリカを発見し、採掘を命じられる。坑夫らは掘削の作業時に防護マスクや呼吸器具を一切与えられずに採掘を行ったが、現場監督は坑内の視察の際にはそれらの器具を着用していた。結果、シリカの粉塵にされされたために、多くの坑夫が肺を衰弱させる珪肺症を患った。莫大な人数の坑夫が珪肺症のために亡くなり、中には1年も経たないうちに亡くなるケースもあった。

There are no definitive statistics as to the death toll from the Hawks Nest disaster. According to a historical marker on site, there were 109 admitted deaths. A Congressional hearing placed the death toll at 476.[2] Other sources range from 700 to over 1,000 deaths amongst the 3,000 workers.[3] Many of the workers at the site were African-Americans from the southern United States who returned home or left the region after becoming sick, making it difficult to calculate an accurate total.[4]

この災害による死者数は正確には分かっていない。慰霊碑によると死亡したのは109人とされているが、アメリカ合衆国議会の審理はこれを476人であるとした[2]。更に他の文献では、700人から1,000人以上、多いものでは3,000人とするものもある[3]。ホークスネストの坑夫の多くはアメリカ南部出身のアフリカ系アメリカ人で、罹患後にホークスネストを離れたり出身地に帰ったりしたため、正確な数を割り出すのが難しくなってしまったのが原因である[4]

事件に関する文学作品[編集]

  • Muriel Rukeyser wrote a poetry sequence, "The Book of the Dead", about this disaster, which can be found in her book, U.S. 1 (published in 1938).
  • 詩人ミュリエル・ルーカイザー英語版は、この事件に関して一連の詩作品The Book of the Deadを発表した。これらの作品はU.S. 1(1938年発行)に掲載されている。
  • Hubert Skidmore, a West Virginian, immortalized the tragic events from the common man's perspective in his book Hawk's Nest: A Novel which followed the fictional accounts of several tunnel workers and their families. Skidmore wrote the book only a few years after the incident (originally published in 1941) and likely used direct sources for his story development.
  • ウェストバージニア出身のヒューバート・スキッドモア英語版は、坑夫たちとその家族を描いたフィクション小説『ホークスネスト』をごく普通の人々の視点から著し、この悲劇的な事実を不滅のものにした。スキッドモアは事故からわずか数年でこの小説を書き上げ(初版の出版は1941年)、事実に忠実に従って書いたものと考えられている[要出典]
  • Hawks Nest is also mentioned in a section entitled Dying for a Living: The Hawk's Nest Incident in the book Trust Us, We're Experts by Sheldon Rampton and John Stauber.
  • ホークスネストは 、被害妄想的宿命論について批判した書物Trust Usシェルドン・ランプトンジョン・スタウバー英語版共著)の中の一節Dying for a Living: The Hawk's Nest Incidentでも言及されている。
  • In the young adult fiction novel The Miner's Daughter by Gretchen Moran Laskas, the main character's father and older brother go to work on the Hawks Nest Tunnel after their coal mine is shut down. The two men return less than a year later because the father is gravely ill with a cough.[5]
  • 青年向けのフィクション小説『鉱夫の娘』(The Miner's Daughter、Gretchen Moran Laskas 著)では、勤めていた炭鉱が閉山されてしまった主人公の父と兄が、ホークスネストトンネルでの作業に従事しに行く。が、彼らは1年もせずに帰ってきた。父が咳を伴う深刻な病に冒されたからだ。

慰霊碑[編集]

付近にある慰霊碑には、次のように記されている。

"Construction of nearby tunnel, diverting waters of New River through Gauley Mt for hydroelectric power, resulted in state's worst industrial disaster. Silica rock dust caused 109 admitted deaths in mostly black, migrant underground work force of 3,000. Congressional hearing placed toll at 476 for 1930-35. Tragedy brought recognition of acute silicosis as occupational lung disease and compensation legislation to protect workers."
水力発電のために行われた、ニュー川の流路をゴーリー山を貫通する流路へ変更するためのトンネルの工事で、合衆国史上最悪の労災をもたらした。シリカの結晶の粉塵は、ほとんどが黒人の移民である3,000人近い坑夫のうち、確認されているだけで109人の死を引き起こした。連邦議会の審理では、1930年から1935年までに476人の死者があったとした。この悲劇により、珪肺症の労働災害への指定と坑夫を保護する補償法が認されたのだ。

脚注[編集]

  1. ^ Cherniack, Martin (1986). The Hawk's Nest Incident. Yale University Press. ISBN 9780300044850 
  2. ^ Hawk's Nest Tunnel Disaster”. West Virginia Department of Culture and History. 2008年11月25日閲覧。
  3. ^ Spangler, Patricia (February 19, 2008). The Hawks Nest Tunnel. Wythe-North Publishing. ISBN 9780980186208 
  4. ^ Keenan, Steve (2008年4月2日). “Book explores Hawks Nest tunnel history”. The Fayette Tribune. オリジナルの2008年11月25日時点におけるアーカイブ。. http://www.webcitation.org/5cbQzvRzx 2008年11月25日閲覧。 
  5. ^ Laskas, Gretchen Moran (2007-02-06). The Miner's Daughter. Simon & Schuster Children's Publishing. ISBN 978-1416912620 

外部リンク[編集]

座標: 北緯38度07分20秒 西経81度07分42秒 / 北緯38.12222度 西経81.12833度 / 38.12222; -81.12833


ピッツィカ[編集]

Pizzica (イタリア語発音: [ˈpittsika]) is a popular Italian folk dance, originally from the Salento peninsula (Lecce in particular) and later spreading throughout all the Puglia region and eastern Basilicata. It is part of the larger family of tarantella (plural: tarantelle) dances.

ピッツィカ(pizzica)はイタリア共和国プッリャ州サレント地方に伝わる伝統的な踊りで、タランテラと呼ばれる舞曲の一種である。男性と女性がペアを組み踊る。サレント地方からプッリャ州バジリカータ州の東部にも伝播した。

これは昔サレント地方に住んでいた毒グモに女性が刺された際、毒が抜くために踊り続けた事が由来とされている。また男性が気になる女性を口説くために畑の中でする踊りであったともされている。とは言え基本的ルールとしては体の接触の無い踊りである。

Dancing the pizzica[編集]

The traditional pizzica is danced while embracing a partner. This hug need not necessarily involve two individuals of opposite sexes, and often two women can be seen dancing together. Nowadays it has become rare to see two men dancing an entire pizzica. An exception with a pizzica between two men can still be found in the town of Ostuni, where one of the two men who dance jokingly pretends to be a woman.

伝統的なピッツィカは、相手を抱きしめて踊る。必ずしも相手が異性である必要はなく、女性同士で踊る例も度々見られる。女性に対し、最近は男性同士で踊る例は少なくなっているものの、今でもオストゥーニの街では男性同士のピッツィカが見られ、片方の男性がおどけて女性になりきることもある。

There are several traditional pizzica groups, the oldest being Officina Zoé, Uccio Aloisi gruppu, Canzoniere Grecanico Salentino, Selva Cupina, I Tamburellisti di Torrepaduli.

ピッツィカには様々な伝統的なグループがあり、最も古いグループはOfficina Zoé, Uccio Aloisi gruppu, Canzoniere Grecanico Salentino, Selva Cupina, I Tamburellisti di Torrepaduliである。

Since 1998 there has been a summer La Notte della Taranta (taranta night), consisting of a whole night where many famous musicians alternate their performances with pizzica orchestras. Some of them include Stewart Copeland, Franco Battiato, Gianna Nannini, Raiz, Lucio Dalla, and Carmen Consoli. The 11th Festival was held in Lecce in August 2008.[1]

Notes[編集]

  1. ^ La Notta della Taranta 2008”. [1]. 2009年2月20日閲覧。

External links[編集]

中村太郎 (剣道家) (wikify作業)[編集]

中村 太郎(なかむら たろう、1922年大正11年) - 1969年昭和44年)8月18日)は、日本の剣道家

経歴[編集]

日本統治時代の朝鮮京城府に生まれる。父は大義塾道場塾頭の中村藤吉。3歳から竹刀を握り、生涯多数の剣道の大会で功績を収めた。

1935年(昭和10)年、13歳で国士舘中学校へ入学。1940年(昭和15年)、大日本武徳会参段。国士舘専門学校国語漢文剣道科にて、斎村五郎小川忠太郎に師事。大森五郎森島健男等と親交を持った。

1952年(昭和27年)、京都大会個人戦で優勝。第1回全日本剣道大会(日光大会)5段以上の部で個人優勝、団体優勝を飾る。妙義道場落成記念大会個人優勝。

その後1953年(昭和28年)から神奈川県警察に勤務を始め、また、剣道の称号である錬士号を授与される。1954年(昭和29年)には錬士よりも高段位の教士号を授与されたほか、警察庁が主催する関東警察剣道選手権大会、全国警察剣道選手権大会に出場した。更に翌年の1955年(昭和30年)には、関東警察剣道選手権大会の個人戦で優勝すると、第3回全日本剣道選手権大会・全国警察剣道選手権大会の両方で優勝を飾った。

1959年(昭和34年)には、第7回全日本剣道選手権大会で再び優勝を収める。同年、神奈川県剣道特練コーチに就任した。

1960年(昭和35年)、神奈川県スポーツ賞日本スポーツ賞警察庁長官賞を受賞。

1962年(昭和37年)、平和相互銀行剣道部の師範となる。1964年(昭和39年)には、関東実業団剣道大会にて、監督として平和相互銀行を優勝に導いた。

1966年、獨協大学体育会剣道部の師範となる。また、同年特練監督に就任し、1968年(昭和43年)まで3年連続で監督として関東警察大会で団体優勝を飾った。

1969年(昭和44年)5月、剣道の称号で最高位の範士の称号を授与されるが、同年8月18日胃がんにて死去。享年74。

---- 1953年(昭和28年)、御岳山奉納剣道大会個人戦優勝。錬士号授与。神奈川県警勤務。

1954年(昭和29年)、教士号を授与。関東警察剣道大会出場。全国警察剣道大会出場。

1955年(昭和30年)、関東管区警察剣道大会個人戦優勝。第3回全日本剣道選手権大会優勝。

1956年(昭和31年)、関東警察剣道大会、全国警察剣道大会、全日本東西対抗剣道大会出場。第4回全日本選手権大会準優勝。

1957年(昭和32年)、関東警察剣道大会、全国警察剣道大会出場。第5回全日本選手権大会出場。

1958年(昭和33年)、7段合格。第6回全日本選手権大会準優勝。関東警察剣道大会、全国警察剣道大会、全日本東西対抗剣道大会出場。

1959年(昭和34年)、第7回全日本剣道選手権大会優勝。関東警察剣道大会、全国警察剣道大会、全日本東西対抗剣道大会出場。神奈川県剣道特練コーチ就任。

1960年(昭和35年)、日本スポーツ賞受賞。全日本剣道選手権大会、全日本東西対抗剣道大会出場。神奈川県スポーツ賞、警察庁長官賞受賞。

1961年(昭和36年)、関東警察大会団体優勝(コーチ)。

1962年(昭和37年)、平和相互銀行剣道部師範。

1963年(昭和38年)、関東警察大会団体優勝(コーチ)。警察学校勤務。

1964年(昭和39年)、関東実業団剣道大会にて平和相互銀行巣鴨優勝(監督)。全日本東西対抗剣道大会出場。

1965年(昭和40年)、獨協大学体育会剣道部師範。

1966年(昭和41年)、特練監督就任。関東警察大会団体優勝(監督)。

1967年(昭和42年)、関東警察大会団体優勝(監督)。全国警察剣道大会二部優勝(監督)。

1968年(昭和43年)、(株)トッパンムーア剣道部コーチ就任。関東警察大会団体優勝(監督)。

1969年(昭和44年)、5月範士授与。8月18日、胃がんにて死去、47歳。


中巨摩郡[編集]

日本 > 山梨県 > Snow rabbit/sandbox/Kurenai

中巨摩郡(なかこまぐん)は、山梨県である。市町村合併により同郡からの離脱が相次ぎ、郡内の町村は昭和町のみとなった。

現在の南アルプス市域を峡西(きょうさい)、中央市地域を峡中(きょうちゅう)と呼ぶ事がある。

人口21,547人、面積9.08km²、人口密度2,373人/km²。(2024年4月1日、推計人口

歴史[編集]

  • 1878年明治11年) - 郡区町村編制法施行により巨摩郡が三分割され、北巨摩郡南巨摩郡とともに発足。郡役所は竜王村に設置された。
  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、41の村が成立。
  • 1927年昭和2年)4月1日 - 松島村、福岡村が合併し敷島村が発足。(40村)
  • 1936年(昭和11年)7月1日 - 明穂村が改称・町制施行し小笠原町が発足。(1町39村)
  • 1937年(昭和12年)8月1日(1町34村)
    • 国母村、貢川村が甲府市に編入。
    • 小井川村、花輪村、忍村が合併し田富村が発足。
    • 西條村、常永村が合併し昭和村が発足。
  • 1946年(昭和21年)10月17日 - 敷島村が町制施行し敷島町が発足。(2町33村)
  • 1949年(昭和24年)12月1日 - 池田村が甲府市に編入。(2町32村)
  • 1951年(昭和26年)7月1日 - 飯野村、在家塚村が合併し巨摩町が発足。(3町30村)
  • 1954年(昭和29年)3月10日 - 三恵村、鏡中條村、藤田村が合併し若草村が発足。(3町28村)
  • 1954年4月1日(4町16村)
    • 巨摩町、百田村、西野村、今諏訪村が合併し白根町が発足。
    • 小笠原町、榊村、野之瀬村が合併し櫛形町が発足。
    • 敷島町、睦沢村、清川村、吉沢村が合併し敷島町が発足。
    • 落合村、大井村、五明村、南湖村が合併し甲西町が発足。
  • 1954年6月1日 - 平林村が南巨摩郡増穂町に編入。(4町15村)
  • 1954年10月17日 - 大鎌田村、二川村、宮本村が甲府市に編入。(4町12村)
  • 1955年(昭和30年) - 三町村、稲積村が合併して玉穂村が発足。(4町11村)
  • 1956年(昭和31年)5月3日
    • 御影村、田之岡村が合併し八田村が発足。(4町10村)
    • 竜王村、玉幡村が合併し竜王町が発足。(5町8村)
  • 1959年(昭和34年)5月1日 - 源村が白根町に編入。(5町7村)
  • 1959年10月1日 - 若草村が町制施行し若草町が発足。(6町6村)
  • 1960年(昭和35年)4月1日 - 豊村が櫛形町に編入。(6町5村)
  • 1968年(昭和43年)4月1日 - 田富村が町制施行し田富町が発足。(7町4村)
  • 1971年(昭和46年)4月1日 - 昭和村が町制施行し昭和町が発足。(8町3村)
  • 1985年(昭和60年)4月1日 - 玉穂村が町制施行し玉穂町が発足。(9町2村)
  • 2003年(平成10年)4月1日 - 櫛形町、若草町、白根町、甲西町、八田村、芦安村が合併し南アルプス市が発足、郡より離脱。(5町)
  • 2004年(平成11年)9月1日 - 竜王町、敷島町が北巨摩郡双葉町と合併し甲斐市が発足、郡より離脱。(3町)
  • 2006年(平成13年)2月20日 - 田富町、玉穂町が東八代郡豊富村と合併し中央市が発足、郡より離脱。(1町)

区域の変遷(市町村制以降)[編集]

明治22年以前 明治22年4月1日 明治22年 - 昭和20年 昭和21年 - 昭和28年 昭和29年 - 昭和33年 昭和34年 - 昭和61年 昭和61年 - 平成18年 現在
  国母村 昭和12年8月1日
甲府市に編入
甲府市 甲府市 甲府市 甲府市 甲府市
貢川村
池田村 池田村 昭和24年12月1日
甲府市に編入
大鎌田村 大鎌田村 大鎌田村 昭和29年10月17日
甲府市に編入
二川村 二川村 二川村
宮本村 宮本村 宮本村
明穂村 昭和11年7月11日
小笠原町
小笠原町 昭和29年4月1日
櫛形町
櫛形町 平成15年4月1日
南アルプス市
南アルプス市
榊村 榊村 榊村
野之瀬村 野之瀬村 野之瀬村
豊村 豊村 豊村 豊村 昭和35年4月1日
櫛形町に編入
三恵村 三恵村 三恵村 昭和29年3月10日
若草村
昭和34年10月1日
町制施行
鏡中條村 鏡中條村 鏡中條村
藤田村 藤田村 藤田村
飯野村 飯野村 昭和26年7月1日
巨摩町
昭和29年4月1日
白根町
白根町
在家塚村 在家塚村
百田村 百田村 百田村
西野村 西野村 西野村
今諏訪村 今諏訪村 今諏訪村
源村 源村 源村 源村 昭和34年5月1日
白根町に編入
落合村 落合村 落合村 昭和29年4月1日
甲西町
甲西町
大井村 大井村 大井村
五明村 五明村 五明村
南湖村 南湖村 南湖村
御影村 御影村 御影村 昭和31年5月3日
八田村
八田村
田之岡村 田之岡村 田之岡村
芦安村 芦安村 芦安村 芦安村 芦安村
松島村 昭和2年4月1日
敷島村
昭和21年10月17日
町制施行
敷島町 敷島町 平成11年9月1日
甲斐市
甲斐市
福岡村
睦沢村 睦沢村 睦沢村 昭和29年4月1日
敷島町に編入
清川村 清川村 清川村
吉沢村 吉沢村 吉沢村
竜王村 竜王村 竜王村 昭和31年5月3日
竜王町
竜王町
玉幡村 玉幡村 玉幡村
小井川村 昭和12年8月1日
田富村
田富村 田富村 昭和43年4月1日
町制施行
平成18年2月20日
中央市
中央市
花輪村
忍村
三町村 三町村 三町村 昭和30年
玉穂村
昭和60年4月1日
町制施行
稲積村 稲積村 稲積村
西條村 昭和12年8月1日
昭和村
昭和村 昭和村 昭和46年4月1日
町制施行
昭和町 昭和町
常永村
平林村 平林村 平林村 昭和29年6月1日
南巨摩郡増穂町に編入
南巨摩郡増穂町 南巨摩郡増穂町 南巨摩郡富士川町

関連項目[編集]

メモ[編集]

「36村」とあるけれど36村ない。ほかの郡に割譲された村がちょこちょこあるみたい。このため、年表の末尾にあった(○町○村)を一旦除去しているので、後ほど直すこと。