オトマール・スウィトナー

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オトマール・スウィトナー
基本情報
出生名 Otmar Suitner
生誕 1922年5月16日
出身地 オーストリアの旗 オーストリアインスブルック
死没 (2010-01-08) 2010年1月8日(87歳没)
ドイツの旗 ドイツベルリン
学歴 インスブルック音楽院
モーツァルテウム
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
活動期間 1942年 - 1990年
クレメンス・クラウス

オトマール・スウィトナー(Otmar Suitner , 1922年5月16日 - 2010年1月8日)は、オーストリア指揮者。名はオットマール、姓はスイトナーとも書く。

生涯

ドイツ系の父とイタリア系の母の間に、オーストリアチロル州インスブルックで生まれる。指揮を地元の音楽大学でクレメンス・クラウスに師事する。1941年からやはり地元インスブルックの歌劇場で副指揮者を務め、第二次世界大戦後はカイザースラウテルンの音楽総監督を皮切りに、初めは西ドイツ各地の歌劇場で活躍する。1960年ドレスデン国立歌劇場(現・ザクセン州立歌劇場)の、1964年からはベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任した頃から東ドイツに活動の軸足を移し、この国の2大国立歌劇場でオペラとコンサートの両面で活躍する。ベルリンのポストを得た1964年から1967年にはバイロイト音楽祭に初出演し、『タンホイザー』、『さまよえるオランダ人』、『ニーベルングの指環』を指揮した。

初来日は1971年で、NHK交響楽団を指揮した。当時の日本ではスウィトナーの知名度はほとんどなかったが、客演を重ねるたびにファンを増やしていった。1973年にN響の名誉指揮者に就任する。日本へはN響への他に手兵のベルリン国立歌劇場やその管弦楽団(シュターツカペレ・ベルリン)との来日公演、国立音楽大学のオーケストラを指揮している。同時にウィーン国立音楽大学指揮科の教授として、同僚のカール・エスターライヒャーと共にベアト・フューラーなどの後進を育てていった。他に西欧諸国への客演を活発に行ったが、東側諸国民主化が活発化する1980年代末期から体調を崩すようになり、奇しくも1990年東西ドイツの統一が成されるのと入れ替わるように、ベルリンのポストを辞任した。同年の来日公演を病気でキャンセルして以降は、声明や宣言こそ出していないものの、事実上の引退生活に入った。

事実上の引退後は公に姿を見せることはほとんどなかったが、80歳を迎えた2002年に、ベルリン国立歌劇場音楽監督のダニエル・バレンボイム主催によるスウィトナーの80歳を祝うパーティーが開かれた際に姿を見せている(その模様は『N響アワー』でも紹介された)。

2007年ZDF/Filmkombinat制作、息子のイゴール・ハイツマン(Igor Heitzmann)監督によるドキュメンタリー映画『父の音楽 指揮者スイトナーの人生』(原題:Nach der Musik)に出演した。妻とともに東ベルリンに暮らしながら、西ベルリンに住む愛人との間に一子イゴールを儲け、週末ごとにベルリンの壁を越えて彼らに会っていたこと、パーキンソン病のために指揮活動から身を引いたこと、妻・愛人・イゴールの3人に見守られながら穏やかな余生を過ごしていること、などが語られていた[1]

2010年1月8日、ベルリンで死去した。

主な活動歴

ベルリン国立歌劇場で指揮をするスウィトナー(1970年10月)

演奏スタイル

奇をてらわず地味な演奏スタイルであるが、奥が深い演奏を引き出す指揮者だった。ヘルベルト・フォン・カラヤンをはじめとする、洗練された国際的な響きとは対極の、渋みを生かした「古きよきドイツの伝統」を表現していた。それのみならず、ストラヴィンスキーの『春の祭典』のように曲によっては「熱演型」の指揮者に変貌することもあった。レパートリーも古典派ロマン派から近代ものと幅広く、モーツァルトベートーヴェンブラームスのほか、ヨハン・シュトラウス2世ワルツポルカも演奏している。またマーラーも早くから手がけており、交響曲2番交響曲5番をレパートリーにしていた。ブルックナーに関しても録音を残している。

ワルツ集ではNHK交響楽団と珍しいスタジオ録画(テレビ放映用)を行ったこともある(これに対して、同時期にN響の名誉指揮者をつとめたヴォルフガング・サヴァリッシュは、同団など外国のオーケストラでウィンナワルツを取り上げることを避けていた)。手兵のシュターツカペレ・ベルリンと録音したベートーヴェンの交響曲全集(ギュルケ版を使用)は、デジタル録音で最初のベートーヴェンの交響曲全集である。これは、N響での演奏を知る日本(日本コロムビア)と東ドイツドイツ・シャルプラッテン)の共同制作によって実現した。西側での評価が高いとはいえなかったスウィトナーが、例外的に日本でだけは強い支持を受けていたことが貴重な記録につながった一例である。オーストリア人にしてはウィーンの楽壇とは縁が薄く、ウィーンの伝統に立脚した指揮者とはいえないが(師匠こそ生粋ウィーン人のクラウスであるが、若いころはインスブルックで活動、その後は晩年ウィーンの教壇に立つまではほぼドイツに活動が限られ、まだしも日本での活動記録の方が目立つほどである)、ウィーン風の優雅さにも、プロイセン風の剛毅さにも傾かない、精妙で陰影の深い独自のドイツ音楽を聴かせた。

脚注