ABC予想
a + b = c
を満たす、互いに素な自然数の組 (a, b, c) に対し、積 abc の互いに異なる素因数の積を d と表す。このとき、任意の ε > 0 に対して、 c > d1+ε
を満たす組 (a, b, c) は高々有限個しか存在しないであろうか? |
ABC予想(エービーシーよそう、英語: abc conjecture)は、1985年にジョゼフ・オステルレとデイヴィッド・マッサーにより提起された数論の予想である。オステルレ=マッサー予想(英語: Oesterlé–Masser conjecture)とも呼ばれる[1][2]。
これは多項式に関するメーソン・ストーサーズの定理の整数における類似であり、互いに素でありかつ a + b = c を満たすような3つの自然数(この予想に呼び方を合わせると)a, b, c の和と積の関係について述べている[3][4]。
ABC予想は、この予想から数々の興味深い結果が得られることから有名になった。数論における数多の有名な予想や定理がABC予想から直ちに導かれる。
ドリアン・モリス・ゴールドフェルドは、ABC予想を「ディオファントス解析で最も重要な未解決問題」であるとしている[5]。
定式化
自然数 n に対して、n の互いに異なる素因数の積を n の根基 (radical) と呼び、rad n と書く。以下に例を挙げる。
- p が素数ならば、rad(p) = p.
- rad(8) = rad(23) = 2.
- rad(45) = rad(32 ⋅ 5) = 3 ⋅ 5 = 15.
自然数の組 (a, b, c) で、a + b = c, a < b で、a と b は互いに素であるものを abc-triple と呼ぶ。大抵の場合は c < rad(abc) が成り立つが、ABC予想が主張するのはこれが成り立たない例(例えば、a = 1, b = 8 のとき c = 9 であり、rad(abc) = 6 である)の方である。ただし、c > rad(abc) が成り立つ例も無限に存在する[注釈 1][注釈 2]ため、rad(abc) を少しだけ大きくすることで例を有限個にできないかどうかを考える。すなわち、ABC予想は任意の ε > 0 に対して、次を満たすような自然数の組 (a, b, c) は高々有限個しか存在しないであろうと述べている:
これと同値な他の定式化(Oesterlé–Masser の ABC予想)として次のものがある。すなわち、任意の ε > 0 に対してある K(ε) > 0 が存在し、全ての abc-triple (a, b, c) について次が成り立つという:
- (K(ε) を ε に依らずに取ることはできない。)
三つ目の定式化は「質」(quality) と呼ばれる概念を導入して表現する。abc-triple (a, b, c) に対して、質 q(a, b, c) を次のように定義する:
このときABC予想は、任意の ε > 0 に対して、abc-triple (a, b, c) であって q(a, b, c) > 1 + ε を満たすものは高々有限個しか存在しないということを主張している。
現在、q(a, b, c) > 1.6 を満たす abc-triple は後述の通り3組しか知られていない。q(a, b, c) を 2 まで大きくすれば、そうした abc-triple は存在しないという予想もある。すなわち「全ての abc-triple (a, b, c) に対して、c < rad(abc)2 を満たすであろう」という主張だが、こちらも肯定も否定もされていない[注釈 3]。
証明の提案
1985年の予想の提起から、数々の数学者によりABC予想の証明が提案されてきた[6]。しかし、現在数学者の大勢の同意は依然として得られていない[7][8]。
望月新一による提案
京都大学数理解析研究所教授の望月新一は、自身の考案した宇宙際タイヒミュラー理論によるディオファントス的不等式(論文IUTT-IVの系2.3)の証明から、スピロ予想、ヴォイタ予想、ABC予想を証明したと主張している[注釈 4]。
上記の証明に対し、ペーター・ショルツェとジェイコブ・スティックスが、論文IUTT-IIIの系3.12[14]の証明の反例となるレポート[15]にて「提案された〔望月のプレプリントの〕証明には深刻な問題があり、小さな修正で証明戦略を救うことはできず、証明になっていない」と指摘した(2018年5月公開、2018年9月一部修正)。望月は、反例において宇宙際タイヒミュラー理論にいくつかの簡略化がおこなわれており、それらの簡略化が悉く誤りであると主張するレポート[16][17]を公表し反論した(2018年9月発表、2021年3月改訂)。
望月の証明論文は2020年2月に査読を通過し[注釈 5]、2021年3月4日、雑誌『PRIMS』の特別号電子版に掲載された[18]。
上記論文に対し、ショルツェは2021年7月31日にzbMATH(ヨーロッパ数学会)に掲載された書評にて「このシリーズの最初の3つのパートにおいて、読者は残念ながら実質的な数学的内容をほんの少ししか見出さないだろう。第2部と第3部では、肝心の系3.12に、数行以上の証明を見出さないだろう」[19]と否定的にコメントした。一方、モハメド・サイディ[注釈 6][20]は2022年4月にMath Reviews誌(アメリカ数学会)に掲載された書評で、宇宙際タイヒミュラー理論の系3.12に関連する論文IUTT-IIIの定理3.11を肯定するコメントを行った[21]。
2022年7月、ヴォイチェフ・ポロウスキ、南出新、星裕一郎、イヴァン・フェセンコ、望月新一らの査読論文が『Kodai Mathematical Journal』(東京工業大学)に掲載された[22](受理は2021年11月)。この論文は、楕円曲線の6等分点を用いて、ディオファントス的不等式中の定数の数値を明示した形(非明示的な「定数」が現れない)に修正したとしている。2012年10月の、ヴェッセリン・ディミトロフ[23]とアクシェイ・ヴェンカテシュによる指摘[24]により、望月の論文で証明される命題は「弱いABC予想」となっていたが、今回の結果により「強いABC予想」および「フェルマーの最終定理」の別証明を得たとしている。
得られる結果の例
ABC予想を真だと仮定すると、多数の系が得られる。その中には既に知られている結果もあれば、予想の提出後に予想とは独立に証明されたものもあり、部分的証明となるものもある。ABC予想がもし早期に証明されていたなら、得られる系という意味での影響はもっと大きかったが、ABC予想が成立した場合に解決される予想はまだ残っており、また数論の深い問題と数多くの結び付きがあるので、ABC予想は依然として「重要な問題」であり続けている。「有限個に限定される」ことが結論である命題(予想)の証明に役に立つ。
- トゥエ=ジーゲル=ロスの定理
- 代数的数のディオファントス近似に関する定理。
- フェルマーの最終定理
- ただし指数が十分大きい場合。どの程度大きければよいかは K(ε) に依存する。この定理自体は、ABC予想とは独立にワイルズが既に1995年に証明した。ある K(ε) が具体的に求まれば、有限個の例外を直接計算することにより、原理的にはすべての指数 ≥ 4 に対して証明が可能である。ε = 1 のとき K(1) = 1 という予想もあり、この仮定の下で、指数が 6 以上の場合は直ちに証明される (Granville & Tucker 2002)[注釈 7]。
- モーデル予想(ファルティングスの定理)
- (Elkies 1991)
- エルデシュ=ウッズ予想
- ただし有限個の反例を除く (Langevin 1993)。
- 非ヴィーフェリッヒ素数が無限個存在すること
- (Silverman 1988)。
- 弱い形のマーシャル・ホール予想
- 平方数と立方数の間隔に関する予想 (Nitaj 1996)。
- フェルマー=カタラン予想
- フェルマーの最終定理の拡張であり、冪の和である冪を扱う (Pomerance 2008)。
- ルジャンドル記号を用いて記述したディリクレのL関数 L(s, (-d/.)) がジーゲル零点を持たないこと
- 正確には、このためには上で紹介している有理整数を扱うABC予想に加えて、代数体上の一様なABC予想を用いる。(Granville & Stark 2000)。
- Schinzel–Tijdeman theorem
- P を少なくとも3つ以上の単根を持つ多項式とすると、P(1),P(2),P(3), … の中には高々有限個しか累乗数が存在しない、という定理 (1976)[25]。
- ティーデマンの定理の一般化
- ym = xn + k が持つ解の個数について。ティーデマンの定理は k = 1 の場合を述べている。また、Aym = Bxn + k が持つ解の個数に関するピライ予想 (1931)。
- グランヴィル=ランジュバン予想と同値
- 修正したスピロ予想
- これは境界として を与える (Oesterlé 1988)。
- 任意の整数A について、n! + A = k2 が有限個の解しか持たないこと(一般化されたブロカールの問題)
- (Dąbrowski 1996)と同値。
コンピューティング(演算)による成果
2006年、オランダのライデン大学数学研究所は、さらなる abc-triple を発見しようと、Kennislink科学協会と共に分散コンピューティングシステム「ABC@homeプロジェクト」を立ち上げた。たとえ演算によって発見された例または反例が ABC予想を解決することができなくとも、このプロジェクトによって発見される組み合わせが、予想と整数論についての洞察に繋がることが期待されている。
q は上記で定義した abc-triple (a, b, c) の質 q(a, b, c) である。このとき、c の上限によって、質 q は以下のような分布を取る。
cの値 | q > 1 | q > 1.05 | q > 1.1 | q > 1.2 | q > 1.3 | q > 1.4 |
---|---|---|---|---|---|---|
c < 102 | 6 | 4 | 4 | 2 | 0 | 0 |
c < 103 | 31 | 17 | 14 | 8 | 3 | 1 |
c < 104 | 120 | 74 | 50 | 22 | 8 | 3 |
c < 105 | 418 | 240 | 152 | 51 | 13 | 6 |
c < 106 | 1,268 | 667 | 379 | 102 | 29 | 11 |
c < 107 | 3,499 | 1,669 | 856 | 210 | 60 | 17 |
c < 108 | 8,987 | 3,869 | 1,801 | 384 | 98 | 25 |
c < 109 | 22,316 | 8,742 | 3,693 | 706 | 144 | 34 |
c < 1010 | 51,677 | 18,233 | 7,035 | 1,159 | 218 | 51 |
c < 1011 | 116,978 | 37,612 | 13,266 | 1,947 | 327 | 64 |
c < 1012 | 252,856 | 73,714 | 23,773 | 3,028 | 455 | 74 |
c < 1013 | 528,275 | 139,762 | 41,438 | 4,519 | 599 | 84 |
c < 1014 | 1,075,319 | 258,168 | 70,047 | 6,665 | 769 | 98 |
c < 1015 | 2,131,671 | 463,446 | 115,041 | 9,497 | 998 | 112 |
c < 1016 | 4,119,410 | 812,499 | 184,727 | 13,118 | 1,232 | 126 |
c < 1017 | 7,801,334 | 1,396,909 | 290,965 | 17,890 | 1,530 | 143 |
c < 1018 | 14,482,059 | 2,352,105 | 449,194 | 24,013 | 1,843 | 160 |
2012年9月[update]、ABC@homeは2310万個の3つ組を発見しており、当面の目標を 1020 を超えない c についての全ての abc-triple (a, b, c) を見つけることとしている[27]
現在番号 | q | a | b | c | 発見者 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1.6299 | 2 | 310·109 | 235 | Eric Reyssat |
2 | 1.6260 | 112 | 32·56·73 | 221·23 | Benne de Weger |
3 | 1.6235 | 19·1307 | 7·292·318 | 28·322·54 | Jerzy Browkin, Juliusz Brzezinski |
4 | 1.5808 | 283 | 511·132 | 28·38·173 | Jerzy Browkin, Juliusz Brzezinski, Abderrahmane Nitaj |
5 | 1.5679 | 1 | 2·37 | 54·7 | Benne de Weger |
2015年に、ABC@homeプロジェクトは合計2380万組の3つ組を見つけ、その直後にプロジェクトは終了した[29]
脚注
注釈
- ^ 例として、a = 1, b = 32n − 1, c = 32nのとき、全ての n について rad(abc) < 3c/4 が成り立つ。また、a = 1, b = 32n − 1, c = 32nのとき、全ての n について rad(abc) < 3c/2n+1が成り立つ。
- ^ なお、c = rad(abc) すなわち q(a, b, c) = 1 となるような abc-triple は1組もない。もし a < b を課さなければ (1, 1, 2) という1組だけがあるが、予想自体には支障をきたさない。
- ^ この主張と元のABC予想の主張の間に論理的な強弱関係はない。すなわち、ABC予想の主張の一部が弱められ、一部が強められている。この主張はen:Abc_conjectureでは「an effective form of a weak version of the abc conjecture」(ABC予想の弱いバージョンの有効な形(の一種))として言及されている。
- ^ 2012年8月30日、自身が所属する京都大学数理解析研究所編集の専門誌『Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences』(以下『PRIMS』)に投稿し、初稿が同誌のプレプリントで公開された[9][10][11][12][13]。
- ^ 2020年4月に京都大学数理解析研究所(RIMS)の雑誌『PRIMS』の共同編集委員長柏原正樹、玉川安騎男より発表された。
- ^ エクセター大学教授(京都大学数理解析研究所客員教授)
- ^ ABC予想が K = 1 かつ ε = 1 で正しければ、互いに素な自然数 A, B, C が A + B = C を満たすとき C < (rad ABC)2 が成り立つ。互いに素な自然数 a, b, c が an + bn = cn を満たすと仮定すると、an, bn, cn は互いに素より、A = an, B = bn, C = cn を代入して
- が成り立つ。一般に であるから、 となる。ゆえに cn < c6, c > 1 より n < 6。n = 3, 4, 5 については古典的な証明があるので定理が証明される(山崎 2010, p. 11)。
出典
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- ^ NHKスペシャル 数学者は宇宙をつなげるか?abc予想証明をめぐる数奇な物語(前編)[1]
- ^ NHKスペシャル 数学者は宇宙をつなげるか?abc予想証明をめぐる数奇な物語(後編)[2]
- ^ WHAT IS THE POINT OF COMPUTERS? A QUESTION FOR PURE MATHEMATICIANS,KEVIN BUZZARD[3]
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- ^ この議論の発端は、MathOverflowの記事 Philosophy behind Mochizuki’s work on the ABC conjecture である
- ^ The ABC-conjecture (Frits Beukers, 9 september 2005) (PDF)
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関連文献
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- 黒川信重、小山信也『ABC予想入門』 067巻、PHP研究所〈PHPサイエンス・ワールド新書〉、2013年3月18日。ISBN 978-4-569-81067-6 。2021年3月5日閲覧。
- 黒川信重、小島寛之『21世紀の新しい数学 〜絶対数学、リーマン予想、そしてこれからの数学〜』技術評論社〈知の扉シリーズ〉、2013年7月23日。ISBN 978-4-7741-5829-7 。2021年3月5日閲覧。
- S・ラング「Lecture II abc 予想」『ラング数学を語る』 16巻、細川尋史 訳、シュプリンガー・ジャパン〈シュプリンガー数学リーディングス〉、2009年10月11日(原著2009年)。ISBN 978-4431709084。
- S・ラング「Lecture II abc 予想」『ラング数学を語る』 16巻、細川尋史 訳、丸善出版〈シュプリンガー数学リーディングス〉、2012年1月(原著2009年)。ISBN 978-4-621-06204-3 。2021年3月5日閲覧。 - 上記の新版
- 加藤文元『宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃』KADOKAWA、2019年4月25日。ISBN 978-4044004170。
関連項目
- 数学上の未解決問題
- ABC@home
- Berkeley Open Infrastructure for Network Computing(BOINC)
- n予想(ABC予想の一般化)