飯田町駅
飯田町駅 | |
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跡地の石碑(2008年6月) | |
いいだまち IIDAMACHI | |
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所在地 | 東京都千代田区飯田橋三丁目10 |
所属事業者 | 日本貨物鉄道(JR貨物) |
所属路線 | 中央本線 |
キロ程 | 3.9 km(東京起点) |
電報略号 | イヒ |
駅構造 | 高架駅 |
開業年月日 | 1895年(明治28年)4月3日[1] |
廃止年月日 | 1999年(平成11年)3月9日 |
備考 | 1933年(昭和8)7月15日まで旅客扱いあり |
飯田町駅(いいだまちえき)は、東京都千代田区飯田橋三丁目にあった日本貨物鉄道(JR貨物)中央本線の貨物駅(廃駅)。
数少ない高架駅の貨物駅だった。
歴史
[編集]開業
[編集]1895年(明治28年)に、中央本線を敷設した甲武鉄道の東京側のターミナル駅として開設された。
当時は小石川橋通に面し、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に駅舎があった。その北側、現在中央本線が通っている場所には頭端式ホーム2面2線があり、構内南側には貨物ホームや機関区・客車区などがおかれていた。
1904年(明治37年)8月になると、中野駅まで電化され、国電の元祖と言われる電車運転の始発駅にもなった。
旅客営業廃止
[編集]関東大震災からの復興に際し、1928年(昭和3年)に貨客分離を目的とした複々線化工事が新宿駅 - 飯田町駅間で完成。これに伴い隣の牛込駅と電車線の当駅を統合し飯田橋駅が開業、当駅の電車線の列車発着は無くなった。
その後しばらく長距離列車発着用のターミナルとして営業を続けていたが、1933年(昭和8年)、機能を新宿駅に譲って旅客営業を廃止し、荷物や貨物の専用駅となり、旅客ホームなどは同年中の御茶ノ水駅 - 飯田町駅間の複々線化のために取り壊された。なお、旅客営業の廃止後も飯田町客貨車区(東イイ、1969年〈昭和44年〉3月1日以降は西イイ)が置かれていた。
飯田町紙流通センター開設
[編集]印刷業や新聞社が多く立地する東京の倉庫不足や到着駅の荷役設備の不備を解消するため、到着基地を備えた流通倉庫の整備が計画された。このため、1971年(昭和46年)4月に日本国有鉄道と製紙会社、通運会社の共同出資で株式会社飯田町紙流通センターが設立され、1972年(昭和47年)11月に当駅構内に流通倉庫が完成した[2]。以降、都心の紙の物流基地として機能するようになり、日本各地からの紙輸送貨物列車が当駅に到着するようになった。なお、流通倉庫は旧貨物ホームに建設されたため、1972年3月に当駅の貨物営業は縮小された。
流通倉庫は5階建てで、1階がトラック用荷捌き場、2階が有蓋車用紙積卸ホーム、3・4・5階が紙保管倉庫となっていた。2階に繋がる紙荷役線は2本あり、小型有蓋車(ワム80000形など)20両編成に対応していた。1日当り10列車200両の取り扱いが可能で、その規模は世界最大と言われていた。
今の飯田橋駅ホームから南側にホームが見えていて飯田橋駅手前から九段下方向に引込線がカーブしておりDE10が貨物の出し入れをしていた。駅は無くなるまで電化されなかった。駅ホームも飯田橋駅と同じ高さの高架になっていた。
廃止
[編集]流通センターは1985年(昭和60年)前後が最盛期で、1986年度の取り扱い実績は貨車4万6,853両となった。
しかし、印刷業や新聞社の印刷工場の郊外移転が進み、JR貨物も車扱貨物のコンテナ化を推進したため取扱量は減少に転じた。当駅は軌道負担力の関係でコンテナ車や大型有蓋車が乗り入れられないため、コンテナは周囲の駅で降ろし、流通センターまでトラックで輸送する方式が採られることもあった。
1985年頃の最盛期には1日11本の到着列車があったが、晩年の1996年(平成8年)には2本に減少していた。そして1997年(平成9年)3月に列車の設定が完全に無くなり、1999年(平成11年)3月に駅自体も廃止になった。その後、流通センターも1999年6月に新座貨物ターミナル駅と隅田川駅へ移転し、短い27年間の業務を終えた。当駅は、山手線内側に存在する最後の貨物駅だった。
跡地
[編集]本線に隣接する線路の一部は保線基地に転用されたほか、駅の跡地はJR貨物本社ビル(現・大和ハウス東京ビル)および複合施設「アイガーデンエア」として再開発され、オフィスビルや飲食店街、ホテル、高層マンションが建設された。
利用状況
[編集]貨物列車廃止までの近年の貨物取扱量は下記の通り。
年度 | 総数 | 車扱貨物 | コンテナ貨物 | 出典 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|
発送トン数 | 到着トン数 | 発送トン数 | 到着トン数 | 発送トン数 | 到着トン数 | ||
1990年 | 27,604 | 753,802 | 27,604 | 753,802 | [3] | ||
1991年 | 25,157 | 734,752 | 25,157 | 734,752 | [4] | ||
1992年 | 26,244 | 607,308 | 26,244 | 607,308 | [5] | ||
1993年 | 24,418 | 592,633 | 24,418 | 592,633 | [6] | ||
1994年 | 12,415 | 460,493 | 12,415 | 460,493 | [7] | ||
1995年 | 8,855 | 306,939 | 8,855 | 306,939 | [8] | ||
1996年 | 3,630 | 140,261 | 3,630 | 140,261 | [9] | ||
1997年 | [10] |
年表
[編集]- 1895年(明治28年)4月3日 - 甲武鉄道の駅として、飯田町駅 - 牛込駅間開通時に開業[1]。
- 1904年(明治37年)
- 1906年(明治39年)10月1日 - 甲武鉄道が国有化[1]。
- 1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属となる。
- 1928年(昭和3年)11月15日 - 電車線飯田町駅と牛込駅を統合した飯田橋駅が開業[1]。当駅が電車線の駅から外れる[1]。
- 1929年(昭和4年)3月16日 - 飯田町駅 - 新宿駅間複々線化。
- 1930年(昭和5年)4月1日 - 複々線のうち複線に独自の営業キロが設定され、本線の駅から外れ飯田町駅 - 新宿駅間を結ぶ支線の終着駅となる[1]。
- 1933年(昭和8年)
- 1947年(昭和22年)9月28日 - 貨物列車がブレーキをかけそこない暴走。蒸気機関車が構外へ逸走して道路へ転落した。けが人なし[11]。
- 1949年(昭和24年)6月1日 - 日本国有鉄道発足。
- 1971年(昭和46年)5月22日 - 流通倉庫建設に伴い、貨物ホームを撤去。専用線発着を除く貨物の取扱いを廃止[1]。
- 1972年(昭和47年)11月1日 - 飯田町紙流通センターの流通倉庫が駅構内に完成[2]。
- 1982年(昭和57年)11月15日 - 当駅に接続する専用線全廃。
- 1986年(昭和61年)11月1日 - 荷物の取扱いを廃止[1]。
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR貨物の駅となる[1]。
- 1997年(平成9年)3月22日 - 貨物列車の設定廃止[1]。
- 1999年(平成11年)3月9日 - 廃止。
その他
[編集]- 鉄道博物館内に設けられたミニ運転列車の駅のひとつに、この駅にちなんで飯田町の名が付けられている。
隣の駅
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』(初版)JTB、1998年10月1日、173-174頁。ISBN 978-4-533-02980-6。
- ^ a b “飯田町紙基地きょう開業”. 交通新聞 (交通協力会): p. 1. (1972年11月1日)
- ^ 第42回東京都統計年鑑 222ページ
- ^ 第43回東京都統計年鑑 228ページ
- ^ 第44回東京都統計年鑑 222ページ
- ^ 第45回東京都統計年鑑 232ページ
- ^ 第46回東京都統計年鑑 218ページ
- ^ 第47回東京都統計年鑑 236ページ
- ^ 第48回東京都統計年鑑 252ページ
- ^ 第49回東京都統計年鑑 252ページ
- ^ 「機関車宙ぶらりん」『朝日新聞』昭和22年9月29日.2面
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 飯田町停車場図『甲武鉄道市街線紀要』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)