長久保赤水
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人物情報 | |
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別名 | 本名:玄珠、俗名:源五兵衛 |
生誕 |
享保2年11月6日(1717年12月8日) 常陸国多賀郡赤浜村 |
死没 |
享和元年7月23日(1801年8月31日) 常陸国多賀郡赤浜村 |
国籍 |
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学問 | |
時代 | 江戸時代 |
研究分野 | 地理 |
特筆すべき概念 | 日本地図の製作 |
主要な作品 | 改正日本輿地路程全図 |
長久保 赤水(ながくぼ せきすい、本名:玄珠、俗名:源五兵衛、享保2年11月6日(1717年12月8日) - 享和元年7月23日(1801年8月31日))は、江戸時代中期の地理学者、儒学者である。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。号の赤水と字の玄珠は荘子の天地篇にある『黄帝、赤水の北に遊び、崑崙の丘に登り、而して南望して還帰し、其の玄珠を遺せり。』から取られている。
令和2年9月30日、長久保赤水の地図や資料群693点の学術的価値が認められ国の重要文化財に指定された。
略歴[編集]
農民出身であるが、遠祖は大友親頼の三男・長久保親政。現在の静岡県駿東郡長泉町を領して長久保城主となり、長久保氏を称したとされる。
学問を好み地理学に傾注する。14歳(1730年(享保15年))の頃から近郷の医師で漢学者の鈴木玄淳の塾に通い、壮年期に至るまで漢学や漢詩などを学んだ。17歳(1733年(享保18年))には江戸に遊学、服部南郭に学んでいる。25歳(1741年(寛保元年))の頃、鈴木玄淳ら松岡七賢人とともに水戸藩の儒学者で彰考館総裁を務めた名越南渓に師事し、朱子学・漢詩文・天文地理などの研鑽を積んだ[1]。また、地図製作に必要な天文学については、名越南渓の紹介により渋川春海の門下で水戸藩の天文家であった小池友賢に指導を受けた。
明和5年(1768年)『改製日本分里図』(かいせいにほんぶんりず)完成。安永4年(1775年)3月『新刻日本輿地路程全図』(しんこくにほんよちろていぜんず)が完成。更に、安永8年(1779年)、『改正日本輿地路程全図』(通称「赤水図」)が完成、翌9年に大坂で出版された。赤水没後も第5版まで発行され、約1世紀間ロングベストセラーの「赤水図」として名声を博した。赤水生存中に2版、没後3版、修正を重ね発行されている。それ以前に約90年流布していた石川流宣の日本図「流宣図」と入れ替わることになった[2]。
安永6年(1777年)赤水61歳の時、水戸藩主徳川治保の侍講となり、藩政改革のための建白書の上書などを行った。天明3年(1783年)清国地図『大清広輿図』が完成、天明5年(1785年)には世界地図『改正地球万国全図』が完成した。いずれも実測図ではないが関連文献が深く考証され、『改正日本輿地路程全図』に至っては5版を重ね約1世紀間も普及している。
天明6年(1786年)、徳川光圀が編纂を始めた『大日本史』の地理志の執筆も行う。師である鈴木玄淳らとともに、中国の竹林の七賢になぞらえ、松岡七賢人と称される。
安南(現在のベトナム)に漂着した漁民の話をまとめた『安南漂流記』、その漁民を引き取りに長崎へ随行した折の紀行文『長崎行役日記』などの著書がある。東日本大震災の翌年にあたる2012年11月3日、高萩駅前に赤水の銅像が建立された。
年表[編集]
- 1717年、常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)の農家に生まれる。幼い時に母ついで父を亡くし、おもに継母に愛育される[1]。
- 1730年、鈴木玄淳の私塾に入り漢詩などを学ぶ。
- 1738年、水戸藩の儒学者、名越南渓に師事。
- 1739年、23歳で結婚する[1]。
- 1753年、松岡七賢人として水戸藩から賜金を給せられる。
- 1760年、44歳、東北地方(奥州南部と越後)を20日間にわたり旅し、旅行記『東奥紀行』(1792年刊)を著す[1]。
- 1767年、51歳、立原翠軒らの尽力により、安南国漂流民の引き取りのため庄屋の代理として水戸藩の役人に随行して長崎を訪れる。『長崎行役日記』(『長崎紀行』)、『安南漂流記』を著す。
- 1768年、52歳、学問の功により水戸藩の郷士格(武士待遇)に列せられる。
- 1773年、57歳、藩政に関する意見書『芻蕘談(すうじょうだん)』を著す。農村で横行していた間引きを憂い、立派な人物になる可能性もあるから富者の家の前に捨て子をしたほうがましだと啓蒙し、間引きの悪習を減らした[3]。
- 1774年、58歳、地図の完成に向けて識者の意見を得るため京・大坂を訪ねる。この際、柴野栗山、高山彦九郎、中井竹山、大典顕常、皆川淇園らと交流を持つ。
- 1775年、59歳、柴野栗山の序文であり、赤水図の内題でもある『新刻日本日本輿地路程全図』が完成。
- 1777年、61歳、水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸小石川の水戸藩邸に住む。
- 1778年、62歳、建白書『農民疾苦』を上書する。役人が年貢米で公然と賄賂を得ていた「再改め」をなくすよう、命を賭して藩主に提言、農政改善の第一歩に尽力した。
- 1779年、63歳、『改正日本輿地路程全図』が完成、翌年大坂で出版。
- 1783年、67歳『大清広輿図』完成。
- 1785年、69歳、『改正地球万国全図』完成。
- 1786年、70歳、水戸藩主治保の特命により『大日本史』の地理志の編集に従事する。
- 1791年、75歳、江戸の水戸藩邸に留まり『大日本史』の地理志の編纂に専念する[4]。
- 1797年、81歳で帰郷[4]。
- 1801年、85歳、赤浜村で死去[4]。没後10日目、伊能忠敬第二次測量隊が赤浜村を通過。
- 1911年、従四位を追贈された[5]。
日本輿地路程全図[編集]




長久保赤水は江戸時代中期頃の地図考証家・森幸安によって描かれた『日本分野図』を参考に、明和5年(1768年)に原図となる「改製日本分里図」を作り、安永8年(1779年)には『改正日本輿地路程全図』の初版を完成。翌年、大坂で出版した。赤水の存命中の寛永3年(1791年)に第2版が刊行され、赤水の死後も1811年、1833年、1840年に版を重ねている。[6]
『幸安図』にも『赤水図』にも、当時未開拓であった北海道は一部しか描かれていない。また、経線緯線が記載されているが経線には経度が記載されていない。『幸安図』や後に作成される伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』も、京都を基準に経線が引かれている点で共通点が見られる。10里を1寸としているので、縮尺は約129万分の1となる。8色刷の色刷りで、蝦夷(現在の北海道)や小笠原諸島・沖縄を除く日本全土が示されている。[7]
『改正日本輿地路程全図』は、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』より42年前に出版され、明治初期までの約100年間に5版を数えた。伊能の地図はきわめて正確であったが、江戸幕府により厳重に管理されたこともあって、この赤水図が明治初年まで一般に広く使われた。沿岸部のほとんど全てを測量した伊能の地図には劣るが、20年以上に渡る考証の末、完成した地図は、出版当時としては驚異的な正確さであった。
赤水図は広く普及したためドイツ国立民族博物館のシーボルト・コレクションや、イギリス議会図書館を含む世界6か国の博物館などで44枚収蔵されていることが確認されており、当時の欧米において日本を知る資料として活用されていたことが伺われる。
また近年、ロシア語訳の赤水図が、1809年と1810年にロシアで発行されていたこともわかってきた。
これらの地図には、現在、日本と韓国の間で領有問題の起きている竹島が当時の名称「松島」で記されており、日本では日本領有を裏付ける資料としてしばしば引用されている。
脚注[編集]
- ^ a b c d 岡田俊裕 2011年 86ページ
- ^ 上杉和央「地図から読む江戸時代」 (ちくま新書)
- ^ 江戸末期における欧米福祉思想導入の実相 原田信一 、駒澤社会学研究33 、2001
- ^ a b c 岡田俊裕 2011年 91ページ
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.27
- ^ 『隠州視聴合記』と『改正日本輿地路程全図』における竹島の記述・描写に関する私見(PDF) 2017年5月16日 嶋尾稔(慶應義塾大学言語文化研究所)3p 2 『改正日本輿地路程全図』の「竹島」「松島」描写
- ^ “大阪で「竹島」記載、幕末の地図見つかる 島根県に寄贈へ 「日本の領土示す貴重な地図」”. 産経新聞社. (2015年1月10日) 2015年1月11日閲覧。
参考文献[編集]
- 杉田雨人『長久保赤水』杉田恭助 1934
- 茨城県郷土文化研究会編 『長久保赤水』茨城県郷土文化研究会 1970年
- 長久保片雲『地政学者-長久保赤水伝-』(暁印書館 1978年(昭和53年)9月10日初版)
- 住井すえ 『長久保赤水-日本地理の先駆者-』上下 ふるさと文庫 (筑波書林 1978年(昭和53年)12月)
- 榊原和夫『地図の道 長久保赤水の日本図』誠文堂新光社 1986
- 高萩市生涯学習推進本部編『生涯学習の先人 長久保赤水』高萩市生涯学習推進本部 1996
- 長久保片雲『絵本 長久保赤水』茨城新聞社 2001
- 高萩市生涯学習推進本部編『マンガで見る高萩三英傑』高萩市制施行55周年記念事業実行委員会 pp.35-70 2009
- 横山洸淙『清學の士 長久保赤水』ブイツーソリューション 2010
- 長久保片雲『長久保赤水の交遊』 PoemiX 2011
- 岡田俊裕『日本地理学人物事典』【近世編】原書房 pp.85-92 2011
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 「日本輿地路程全図:改正」安永4年(1775年)版(本文) - 神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ住田文庫
- 清學の士 長久保赤水
- 長久保赤水 - 長久保赤水先生銅像建立実行委員会
- 長久保赤水 - 長久保赤水顕彰会
- 『礼記王制地理図説』長久保赤水著 (前川善兵衛, 1900)