蓮沼蕃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
蓮沼 蕃
生誕 1883年3月26日
日本の旗 日本 石川県
死没 (1954-02-20) 1954年2月20日(70歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1903 - 1945
最終階級 陸軍大将
テンプレートを表示

蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 1954年2月20日)は、日本陸軍軍人。最終階級陸軍大将勲等勲一等功二級石川県出身。

騎兵将校として騎兵第9連隊長・騎兵集団長・騎兵監を歴任し、大日本帝国最後の侍従武官長となった。また、陸軍大学校兵学教官当時の教え子の1人が栗林忠道学生(当時陸軍騎兵中尉)である(#栗林忠道との関係)。 

経歴[編集]

1883年(明治16年)、加賀藩士・宮崎幹の長男として生まれ、蓮沼盤雄の養子となる。成城学校を経て、1903年(明治36年)11月30日、陸軍士官学校(第15期)を卒業。日露戦争では、騎兵第10連隊附として出征した。第10師団副官を経て、1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業した。

参謀本部部員、ドイツ私費留学イギリス駐在武官陸軍騎兵実施学校教官を歴任し、シベリア出兵では浦塩派遣軍参謀として出征。さらに陸大兵学教官、騎兵第9連隊長を経て陸軍騎兵大佐当時には東宮武官侍従武官および侍従武官を拝命。

1931年(昭和6年)8月、陸軍少将に任官し、陸軍騎兵学校教育部長、騎兵第2旅団長、騎兵集団長などを歴任。1935年(昭和10年)8月、陸軍中将、騎兵監、第9師団長、中部防衛司令官駐蒙兵団司令官駐蒙軍司令官を経て、1939年(昭和14年)8月には帝国最後となる侍従武官長を拝命。1940年(昭和15年)12月に陸軍大将、翌年開戦の太平洋戦争大東亜戦争)中も一貫して侍従武官長を務め、終戦後の1945年(昭和20年)11月、予備役に編入された。

栗林忠道との関係[編集]

硫黄島防衛戦中の1945年3月7日、小笠原方面陸海軍最高指揮官(小笠原兵団長兼第109師団長)・栗林忠道陸軍中将は、最後の戦訓電報(戦闘状況や戦訓を参謀本部に報告する一連の電報)である総括電報「膽参電第三五一号」を打電した。

この「膽参電第三五一号」の宛先は参謀次長(参謀本部)だけでなく、当時は侍従武官長である蓮沼に対しても宛てられていたものであった(「参謀次長宛膽部隊長蓮沼侍従武官長ニ伝ヘラレ度)。のちの作戦立案などに生かすため参謀本部に送る戦訓電報を、大本営参謀や部隊高級指揮官(部隊長)でない蓮沼を名指しで指定した理由として、栗林が硫黄島で展開した一連の防衛戦術は、(栗林学生が)陸大当時に兵学教官であった蓮沼から教わった戦術を基本としていることによる。

  • 硫黄島ノ防備就中戦闘指導ハ 陸大以来閣下ノ御教導ノ精神ニ基クモノ多シ 小官ノ所見何卒御批判ヲ乞フ
  • 以上多少申訳的ノ所モアルモ 小官ノ率直ナル所見ナリ何卒御笑覧下サレ度 終リニ臨ミ年釆ノ御懇情ヲ深謝スルト共二 閣下ノ御武運長久ヲ祈リ奉ル

またそれと同時に「膽参電第三五一号」の内容は、地下陣地の計画・構築から戦闘時に至るまで多くの失態をしでかした海軍を痛烈に批判し、かつ陸海軍の統帥一元化に踏み込んだものであったため、それらが黙殺されることを危惧した栗林の気転でもあった[1]。そのためこの「膽参電第三五一号」は蓮沼の目に留まり、蓮沼は栗林のこの統帥一元化の意思を受け止めている(内大臣木戸幸一日記』昭和20年3月9日「十二時半、武官長来室、統帥一元云々につき話す」)[2]

親族[編集]

出典[編集]

  1. ^ 梯久美子 『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』 新潮社、2005年、p.206
  2. ^ 『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』 p206~207

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。